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酒気帯びた吉澤の了 【掌編小説】

 吉澤は、酔うために飲む。そして、飲むために働く。
 夜の街へ向かう準備は、まるで儀式のよう。忙しいふりをしながら仕事を適当に切り上げ、些細な出来事を過剰に「つらい」と演出する。なぜなら、それらが酒を美味くするから。つらさ、切なさを、まるで夜空のどこにもない星座を探すように、一瞬の慰めとして楽しんでいる。
 何かを忘れるためか、何かを思い出したくないからなのか、それは吉澤にはわからない。ただ、酔わなければこの人生を乗り越えられない気がしていた。

 吉澤は、思考を気持ちよく麻痺させるために、いよいよ酒場に入った。
「いつものを」 
 ハイボールと言えばいいのに、常連ぶって格好をつける。
 喉を熱く焼く最初の一口。それが全身を巡ると、日常のざわめきが少しずつ遠ざかる。頭の中に散らばる考えの破片を飲み込むように、また一口、また一口。

 酔いが回り、夜の街を方向感もなく歩く。よく知るはずの街並みが、ぼんやりと歪んで見える。何度も通った道なのに、足取りが覚束ない。吉澤はただ、何かに吸い寄せられるように歩き続けた。

 気づけば、マンションの前に立っていた。階段を上がり、灯りが付いた部屋に目が行き、その明るさに足を誘われた。
 酔いが酷く、指先が働かず、鍵をあけられず。
 鍵すらあけられない自分に謎の達成感を得た。
「ようし、今日も酔いに成功したぞ!」
 なんとなくドアノブをひねってみると、するりと、あいた。鍵がかかっていないのが妙だと思ったが、酔った頭では深く考えられないし「まぁいっか」と片づけた。

「ただいまぁ」
 言葉が自然と口をついた。足元がふらつきながら部屋に入る。ランプの柔らかな光が部屋を包む中、吉澤は窓の外に目をやる。見える景色はいつもと同じなのに、この空間はまるで別の次元にあるかのような感覚を抱かせた。
 ソファに座ろうとした瞬間、後ろの方から音が鳴った。
「誰!」
 鋭い声が響いた瞬間、全身に冷水を浴びせられたように感じた。振り返ると、部屋の奥に女性が立っている。年齢は三十代後半だろうか。目を見開き、怒りと恐怖が入り混じった表情でこちらを睨んでいる。
 吉澤は何かを言おうと口を開いたが、言葉は酔いに消された。酒に支配された頭ではまともな説明ができるはずもない。
「何!」
 何も言えずにただ見詰めているだけの吉澤に、彼女は眉間にしわを寄せ、明らかに警戒を強めている。そんな彼女も恐怖交じりに、なんとか言葉を絞りだしているようだった。
 序々に吉澤は、現実を理解し始めていた。
 ここは自分の家ではない。自分の知らない物たちで埋まっている。酔いが酷くなり、無意識に誰かの家に入っていたんだ。
「ここは……自分の部屋だと……思ったんですが……」
 とっさに出た言い訳は、自分でも馬鹿げていると思った。
 彼女の表情がさらに険しくなる。
「は!?」
「あ、いや、酔っていて」
「……警察を呼びます」
 震えが混じったその一言に吉澤は現実を突きつけられていた。状況の深刻さが急速に胸を締め付けた。
「あの、隣の者で、酔っぱらってて、あの」
「警察を呼びます!!」
 喋るたびに彼女の感情を逆撫でしていた。彼女はスマホをとりだしていて、その手は迷いなく通報を始めていた。
 吉澤は思った。それだけは絶対に止めさせなければいけない。なんとしてでも彼女を説得しなければ、と。
 吉澤が慌てて駆け寄ろうとすると、彼女は言葉にならない叫び声を上げてトイレに駆け込み、鍵をかける音が廊下で響いた。
 彼女を説得しようとしただけだが、焦りが空回りして行動が強引になってしまったことを後悔した。
 足元から全てが崩れ落ちるような感覚に襲われた。築き上げてきたキャリア、信頼、繋がり、未来……それらが、この一瞬の過ちで霧散してしまうかもしれない。
 トイレのドアの向こう側に、吉澤は叫んだ。
「ちがうんです! 酔っていただけなんです!」「隣のものです! 間違ったんです!」
 吉澤の必死の訴えを無視する彼女の声が、警察官と話している内容を断片的に伝えてくる。
 どんなにドアを叩き、疑念を晴らそうと訴えかけても、返事はないし出てこない。
 吉澤は絶望に打ちのめされ、その場に立ち尽くすしかなかった。自らの過ちを悔い、暗闇のような未来を思い浮かべて震えていた。

 パトカーの青い光が夜の街を照らす。その青色は、まるで吉澤の人生のこれからを暗示しているかのようだった。冷たい手錠が食い込むたび、吉澤は酒が招いた全てを憎み、呪った。

 ***

 あの夜、あの酒が、吉澤の人生に消えない傷を刻んだ。どれだけ取り繕っても、あの夜の『青』は彼を覆い尽くし続けた。そして吉澤は悟った。酒はすべてを和らげるどころか、すべてを壊すこともあるということを。 了


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野澤祐二
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