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※この記事は書籍からの引用です。

ウィキペディアによれば完璧主義とは、「万全を期すために努力し、過度に高い目標基準を設定し、自分に厳しい自己評価を課し、他人からの評価を気にする性格を特徴とする人のこと」という個人の特性を指すが、学校は完全にこの病魔に蝕まれている。なぜこのようなことになったかの説明は少々長くなるが、これは学校に限らず社会全体の傾向である。

 昭和の時代は社会全体に、完璧を求める考え方は今ほど強くなかった。ぼくが最初に感じた違和感は1995年に施行された「PL法」だった。PL法、すなわち製造物責任法は、製造物の欠陥が原因で被害者を出した場合、賠償責任が発生するという法律だ。マンナンライフ社の「蒟蒻畑」を食べた子どもが窒息死したのは製品の欠陥であると訴訟が起こった。当時のぼくは、「それは保護者がしっかりと見ていなければいけないことなのではないか」と思った。何でもかんでも製造者の責任にされたのでは提供する側は大変だろう。しかし、顧客意識の上昇はその後、社会全体に広がった。スーパーマーケットに掲示された「お客様の声」コーナー、病院に掲示された「患者様の声」コーナー。様々な批判の意見が貼り出され、それに対する経営者の言い訳と謝罪のコメントが付く。「柿の種」の袋には「辛さには個人差があります。辛味が苦手な方やお子様は十分にご注意ください」と書かれており、おそらく消費者からの強いクレームがあったことが予想される。柿の種に限らず、すべての商品には最悪のケースを想定した「注意」が添えられる。

顧客・受益者からの鋭い矢は企業や官公庁を鍛え上げた。提供する側は、代金や税金を受け取る代わりに常に「完璧」でなければならなくなった。今、あらゆる製品やサービスは、どこから矢が飛んで来ようと防御が可能なように完璧な機能を兼ね備えようとしている。

しかし、これは非常にコストがかかり、お互いを疲弊させている。消費者・受益者がクレームをつけて労働者の首を絞める。労働者は仕事を終えると、今度は消費者・受益者となって他の労働者の首を絞める。ここには、締めつける力を弱くするという発想は生まれない。誰もが「完璧」であることが前提条件だからだ。首の締め合いは弱まることを知らない。そこから生まれる攻撃の矢を回避するには、質をどんどん上げるしかなくなる。この流れを逆転させることは極めて難しい。そして、この完璧主義の思考は、子どもという極めて不完全な対象を扱う学校にも遠慮なく入り込むこととなった。学校もまたクレームを回避するために、あらゆる手立てを講じることとなる。「子どものため」とは別次元の疲弊する業務が増えていった。

それだけではない。この完璧主義の矛先は子どもたちへも向かった。全国学力・学習状況調査で、県別ランキングが発表されたことは、クレーム以上の無言の圧力になった。学校は、子どもたちの点数を上げることに腐心したが、その時に、子どもたちの学力以前に学習態度に課題を感じる学校が多かった。つまり、「教科書やノートが揃っていない」「鉛筆や赤ペンが筆箱に入っていない」「教員や友達の話を聞いていない」「授業中の姿勢が悪い」などである。それまでは、そこそこ目立たないくらいに指導しておけばいいと思っていたのが、「◯◯小学校スタンダード」という形で、持ち物や姿勢、授業の進め方、ノートの書き方などに「標準」が定められた。するとどうしても、子どもたちへの締めつけが強くなる。多くの子どもたちにとって「きちんとやること」は嫌なことではない。そこで褒められれば、なお「きちんとやる」ことが気持ちよくなる。しかし、このような指導は、みんなに合わせることが苦手な子や学習について行きづらい子の弱点を露呈する。例えば発達障害をもつ子などはその被害に遭いやすい。弱者が涙を流す構造である。
社会全体に広がった「完璧主義」=首の締め合いは、学校にも波及し、学校が子どもの首を絞め始めたのだ。


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