なぜ宿題をしなくちゃいけないのか
夏休みが近づいてきました。
もう夏休みに入っているところもあるかもしれません。
普段の学校生活から解放されて、
何をしようかな、というワクワク感でいっぱいの
子どもたちも多いのではないでしょうか。
そのワクワク感の一方で、よく邪険にされるのが、
「宿題」です。
「夏休みの宿題は最初に終わらせる派?
最後まで残してしまう派?」などといった会話が
大人になってからも成立してしまうのだから、
「宿題」というものの存在感は計り知れません。
このように「うげっ」と感じてしまう宿題ですが、
何も「うげっ」と感じているのは
子どもたちだけではありません。
宿題を出す先生の側だって、
何を出すべきか、どのくらいの分量にするかなどに加え、
7月の前半頃から夏休みの宿題作成に取り掛かったり、
夏休み明けはその回収に追われたりなど、
夏休みの期間をまたいで
ずぅっと「うげっ」と言っています。
(少なくとも私は。)
ところで、なぜ宿題をしなければならいのでしょうか?
「夏休みの宿題は最初に終わらせる派?
最後まで残してしまう派?」という問いに
表れているように、
「宿題」というものは私たちの中で
「自分の気持ちや実行までにかかる時間はさておき、
やらなければならないもの」と
多くの場合、認識されています。
私は、
「やるなら時間対効果を最大限に引き出す形で」
をモットーに(?)しているので、
できれば宿題も時間対効果を最大限に
引き出せる形でしかやりたくありません。
やるなら、自分も子どもも納得する形でやりたい。
その解決の糸口を探すべく、最近、
「宿題をハックする
学校外でも学びを促進する10の方法」
という本を読んでいます。
この本の第2章を手がかりに、
どうしたら宿題をやることに自分なりの価値を見出して
責任をもって行うことができるのか、
について考えたいと思います。
教室で計画実行の仕方と責任の取り方を教える
そもそもなぜ宿題は出されるのでしょうか?
①「自分の学び」を意識して学習を進めるため。
②授業時間内に足りない学習を補うため。
③学ぶ習慣を身につけるため。
④自分で時間を管理し、締め切りを守ることを学ぶため。
このようなことがぱっと思い浮かびますが、
正直、
「宿題をやっていれば上記したものが
できるようになる」わけでは必ずしもないので、
そのような場合、
宿題をやることが困難な児童に対して、
教師として「教える」という
役割を果たしているとは言えません。
また、宿題をしっかりと「やってきている」子でも、
それがその子の学びになっていないのであれば、
その時に必要な課題であるとは言えません。
まず、この両極端の児童を想定するだけで
容易に浮かび上がるのが、
その子に必要な課題は、その子による、
ということです。
特に①〜③は、児童の学びに
個別最適な課題を作成する必要があることを
示唆しています。
この本の筆者の言葉で、はっとしたのが、
「教師は教えているつもりでも、
生徒の学びが起こっていないときは、
単に話をしているにすぎません。」(P45)という一言です。
宿題を出しただけで「教えたつもり」になるな、
という筆者のメッセージは、
「とはいってもなぁ〜。。。」と
とりあえずありきたりなことをしてしまう自分に
突き刺さります….。
さて、色々とグサグサ刺さったところで、
残りの、
④自分で時間を管理し、締め切りを守ることを学ぶため。
についても検討したいと思います。
そもそも、私たちは
「宿題はやってくるもの」という
社会的な前提に則って宿題を出していますが、
「宿題をやってくる」ということ自体の
やり方を知らない児童に、
私たち教師は「教えている」と言えるのでしょうか。
例えば、
・子どもたちは年間の学びについて
見通しを持つことができているか。
・スケジュール帳の管理の仕方などを
知っているか。
・効果的な学習習慣が
どのようなものかについて知っているか。
これらのことは、社会で生きていく上で
必要な知識・技能です。
見通しを持って行動しなければ、
期限のある支払いや、締め切りなどに
間に合わせることができません。
自分に合ったスケジュール管理方法は、
やってみないとなかなか見出すことができません。
「効果的な学習習慣」ってそもそも何?と
分かっていない児童に、
「効果的に学びなさい」と言っても
できるはずがありません。
これらを全て、
「教師の学級経営だ」と言ってしまえば
それまでですが、
それらを考えて宿題を出している先生が
どれくらいいるでしょうか。
少なくとも私は考えきれていません。
自分の過去の経験に基づいて、
効果的でないようなことも
してしまっている気がします。
宿題と責任
筆者が考える「宿題」の概念の
興味深いところは、
宿題を責任と結びつけていることです。
「宿題をすることがあなたの責任だ」
などと、宿題をすることが責任と
捉えているのではなく、
「宿題」という課題にどのように向かい合うか、
を通して、
「責任ある行動」とはどのような行動なのか、
という市民教育を行なっているところにあります。
P.40-42にある教師とソフィーのやりとりが
興味深かったです。
「課題の提出日が明日だと分かっているが、
明日はサッカーの試合があるので、
月曜日に提出をしていいか?」
と先生に尋ねている場面です。
それに対して、先生はまず、
期限を守って提出することに困難があることを
事前に教えてくれたことを評価します。
その上で、
「どのような選択肢があるか」を
ソフィーに考えさせます。
学校が終わってから寝るまでの間に、
宿題にかかる15−20分を
どこかで作り出せないか考えさせたのです。
そうすると、
・サッカーの試合に行く途中
・家に戻ってから
・迎えにきてもらう時間を少し遅らせてもらう
など、
ソフィーなりの解決策を考え出すことができました。
このように一緒に考えてあげることを通して、
「宿題」という課題と面した時に、
どのようにすれば、
「責任ある行動をとることができるか」
についての教育を行なっていました。
「宿題」という課題に対して、
どのような行動を行ったら良いのかを
考え、実行する機会にしている点が
ただ出された宿題を提出しているだけの場合と
異なります。
まとめ
「宿題を出す」という行為を通して、
子どもたちに何を教えているのか、
何を伝えているのか、
あるいは伝えてしまっているのかを
真剣に考えて宿題を出さなければならないなと
改めて感じました。
「夏休みの宿題は最初に終わらせる派?
最後まで残してしまう派?」などと、
宿題の中身に全く触れない議論で
終始してしまうような記憶を
子どもたちに作ってしまわないように
気をつけて行かなければならないなと
思います。