【デンマーク座談会:デモクラシーが育つ社会って?】
9月にNYNJメンバー有志がデンマークへ視察へ行きました。
今回は、視察に行ったメンバーと、行かなかったメンバーのおしゃべりを公開します。
民主主義が根付いているデンマークですが、なぜそんな社会を実現できているのか?そもそも、民主主義が根付いているってどういう状態?
そこにある、民主主義をアップデートし続ける仕組みや、デンマークらしい公私の混ざり合い・分かれ方について、話しました。
「へー、すごい」を超える
さな:漠然とした質問から入っちゃうけど、行ってみてどうだった??
ゆうか:私は4年前にデンマークに留学して、その時の経験や考えてたことがあってNO YOUTH NO JAPAN(以下、NYNJ)を始めたんだけど、正直、今の自分がデンマークに感動できるのかが不安だったんだよね。当時は学生だったけど今は働き始めて、環境や周りにいる人の価値観も変わったし、同じことを見ても感動できないだろうし。
同時に、初めてデンマークに来たNYNJメンバーがあまり感動できずに視察が終わってしまったらどうしようとも感じてて。「ネットで見られる情報と一緒だね」で終わったらもったいない。せっかく視察するなら、NYNJ発足当時に感じてたデンマーク社会の良さとか民主主義を感じて、今後NYNJでどんなことをしたいか考えるきっかけにできたらなって。
さな:結局感動はできた?
ゆうか:できた!個人的に感動したポイントもあったし、それをみんなと共有できたのもよかった。仮説を持って話を聞いたり、質問や疑問は投げかけて主体的に情報を引き出せる視察にしたほうがいいよねという話をした。そこから、移動中や夜に皆で感じたこと・受け取ったことを咀嚼するためにおしゃべりする時間を意識的に設けたの。
話している中で出てきたのが、視察先の施設を見たり話を聞いたときに、「『へー』を超えたかどうか」がポイントになるよねって視点で。
「へ〜やっぱデンマークすごいな」と単に感心するのは簡単だけど、それで終わってしまっても、じぶんごとにはならない。「へー」を超えて何に自分が突き動かされたのか、何を感じたのかを言語化することをみんなで意識して。
移動中や夜に繰り返し皆で話しているうちに、気づいたら、ひとつひとつの見学が終わったときに「へーを超えた?」がひとつの共通言語になってた(笑)人によって「へー」を超えるポイントが違うんだって分かったのもおもしろかったな。
さりー:「へー」を超えた経験ができた場所はあった?
めいこ:私は学校やデモクラシーガレージを見学して、デンマークでは「デモクラシー」という言葉をそれぞれの方が咀嚼しているのがすごいと思って。これまでの自分を振り返ってみたときに、民主主義について深く考えて来なかったことにはっとさせられた。
例えば、デンマークに在住されていて、アテンドをしてくださった方は「一人ひとりが一番これが大事だと思っていることがあって、その中でみんなの一番を優先することができないから、皆でセカンドチョイスを選ぶことが民主主義だ」と言おしゃっていて。
これって一種の妥協だと思っていて。妥協と民主主義って全然結びついてなかったけど、民主主義で物事を決めていくことは、良い形でそれぞれが妥協することだと捉えられていたりしたんだよね。
私はNYNJの掲げる「参加型デモクラシー」に共感してメンバーになったし、それを浸透させたいと思い続けてきた。でも、じゃあデモクラシーって具体的にどういうことなの?ということまで自分の中で落とし込んであまり考えられてなかったなって気づいたから、残りの学生生活で考えたいポイントができてすごくよかった。
デモクラシーを支えるための筋肉
さな:デモクラシーってなんだろうって考えること大事だなって思う一方で、考えたうえでの結論が「みんなそれぞれの民主主義」とか「妥協」ってことだと、結構怖くない?
例えば、ナショナリズムやあからさまな差別を推進することが自分の民主主義だという人がいたとして、それが真っ当なものとして扱われちゃうと、ポピュリズムにつながっていきそうな気がする。
ゆいぴ:なるほど。私はデンマークで、あんまりその怖さを感じなかったな。なんでだろ。
たぶん、デンマークでは基本的な人権は共通して重要だよねという認識があるのと、誰かの発言を受け取ったときに、基本的に、ほんとにそれって正しいのかな?と批判的に考えてみる姿勢があるのが大きいのかな。
社会の中で「民主主義は〇〇だ!」という強い主張があるというより、そもそも民主主義という制度は、絶えず一人ひとりが社会のありかたを問うて、鍛えていかなくちゃいけないよねっていう風土がある。
デモクラシーガレージで「デモクラシーフィットネス」というプログラムについて教わったんだけど、これがまさにそういう考え方。民主主義はフィットネスと一緒で、民主主義を支えるための筋肉を社会で、そして個々人が鍛えていかないと、それこそポピュリズムとかすぐに危ないほうにいってしまうんだ、という意識は共有されているんだと思う。
おか:学校でも、民主主義を実践するためのスキルを鍛える機会がたくさんあったように感じたかな。
学校では、自分のスタンスを持つために、情報を批判的に見るスキルをつけることがとても大切にされていて。例えば、一次情報・二次情報・三次情報の違いや、自分が判断や発言するときに基づくべき情報について学ぶことが当たり前になっているみたいだった。視察した高校の社会の先生も「情報源を問う力をつけることが自分の仕事だ」って言ってた。
あとは、教育の中に議論をする機会が多くて、人の意見の聞き方とか主張の仕方とかをきちんと学んでいる。だから、人の意見を聞く時も鵜呑みにするのではなく、だからといって頭から否定するのでもないというスキルがついている。社会の中で、議論をするための土台・基礎がちゃんとできているんだと思う。自分が社会に対する事柄を考えるときに、どのような情報を元に考えなくてはいけないのか、他者が発言しているのを聞くときにどういう態度で聞くのかという点が共有されているかも。
▼教育については前回の記事で取り上げています▼
https://note.com/noyouth_nojapan/n/n96f746d80e39
ゆうか:もちろん、デンマークの中にもナショナリズム的な動きはあって、移民を排斥しようとする運動とか個人主義的な考えを持つ人が一部では見られるという現実もあるよ。
今回の視察で改めて思ったのは、デモクラシーって本来は政治だけに適用される概念じゃなくて、もっと広い概念なんだ、ということ。「自分と属性も環境も異なる他者と一緒に生きていくために、どうやってコミュニケーションをとり合意をつくっていくのか」っていう技術や手段のことだなって。
そういうコミュニケーションのあり方を大切にしようっていう共通認識がデンマーク社会にあるような感じがする。だから、物事を決めていくプロセスも日本とはちょっと違う気がするんだよね。
さな:なるほど…!日本のこともここでちょっと話してみてもいいですか?
私はデンマークに行ったことないけど、日本にいてコミュニケーションに違和感をもつことはあるなと思って。
今話してたのは、コミュニケーションをとるスキルとか姿勢の話だと思うけど、例えば飲み会みたいな、親しい人以外もいて話す場で、誰かの容姿の話とか、すごくプライベートな話、たとえば家族のことや恋愛のことに踏み込まれることが多いんだけど、これが辛くて。プライベートに踏み込まないと盛り上がれない、みたいな空気が嫌なんだよね。
(全員)やばい。わかる(笑)
おか:私も飲み会が結構愚痴大会になったりしてしんどいときあるな。でも、その愚痴とかよくよく聞いていると、個人の問題というより、その辛い状況とかって構造的な社会の問題につながっていたりするんだよね。女性としての生きづらさとか、日本での働きづらさとか、色々。でも、どうしてそういうことが起こるんだろうって話題をつなげようとすると、「えーそんなこと考えてるんだね、意識高い」って言われちゃったりして。
さな:私も政治や社会のことは偉い人が良しなにやってくれるもので、自分のことは自身ですべて頑張って生きていかなきゃと思ってた時期はあったな。わたしたちの生きづらさは社会の問題とつながっていること、政治で生きやすい社会をつくっていけるんだという意識が弱かったんだと思う。そもそも、政治のしごとはわたしたちが生きやすい社会を作ってもらうことなのに。民主主義を支えるための筋肉を、市民の側からどんどん鍛えていきたいよね。
公共の場とプライベートな空間をファジーにする
ゆいぴ:公共の場の話が出たけど、デンマークは、場の捉え方が違う気がしてる。なんていうんだろ、人が集まってくつろげるような良い公共の場が結構たくさんあるのと、プライベートな空間も多少公共の場としてひらいていく意識がある。例えば、マンションとかも屋上は誰でも使えるようになっていたり。タイミングで使い分けてるんだよね。
他にもデンマークにはコペンヒルという廃棄物エネルギープラントがあって、そこでは「publicとprivateのその境をファジーにしていくこと」が一つのコンセプトになっている。廃棄物処理を行う公共施設であると同時に、人工スキー場、ボルダリング施設、ジョギングができる公園、カフェなどを備えた、プライベートな時間を皆で共有できるレクリエーション施設でもある。
でも日本だと都市で暮らしていると、自分が私的に使える場所を増やす方向にいって、ちょっと分断が進んでいる感がある。自分の問題と公共・社会のこと、自分と自分のちょっと遠くにいる他者が分かれてしまっている感じが強いな。
さりー:私は日本にいて公共の場所も結構かっちり区画がきまってるな〜と感じることがあるな。例えば私は、自分が住んでいる自治体の図書館より、隣の図書館のほうが近くてそこを使いたいんだけど、その自治体の居住者じゃないから貸出冊数がとても少なかったり、勉強するスペースが使えなかったりして。
おか:なるほどね。デンマークで公共の場への信頼感も自分とはちょっと違うって感じた場面もあったな。例えば、デモクラシーガレージで、赤ちゃんを置いてものを取りに行っていっていた人がいて、これはさっき話したコペンヒルのように「publicとprivateが少しファジーになっている」場所だからできたことかもしれないなと。自分だったら外で絶対できないと思うし、公共の場に対する信頼があると思った。
ゆうか:確かに、社会や生活に関する不安の感情は全然違うかも。デンマークだと社会福祉制度があるから「最悪なんとかなるっしょ!」と思っていて、休学とかギャップイヤーも気軽にしたりする印象。私は就活をしていたとき「就職できなかったらやばい」「早く内定をもらわなくちゃ」と焦ったけど、そういう雰囲気はデンマークの友人と話しててあんまり感じなかったな。
女性の産休も産まないも当たり前の社会
ゆうか:あとびっくりしたのが、市長さんに視察のアポを取ろうとしたら、産休中ですってメールが来たこと。市長さんが産休で休んでても回るんだってめっちゃびっくりした。トップが女性・トップがいなくても回るのが当たり前。もし日本で立候補したら「産休とるなら立候補するな」って言われそうだけど、そんなことがないのがほんとにいいなって思った。
ゆいぴ:産休を当たり前に取れる社会いいね〜〜!
ジェンダー関係でいうと、私はデンマークで人から聞いた話が衝撃的だった。その方が話してくれたのは、実は子どもを産むことが幸せだっていう価値観は、人口を増やすことが国の存亡にかかわる話題だから、国の政治を担う側から主張されてきたんだってこと。でも、国の発展のために続けられてきていることが、個人の幸せにつながるの?っていう疑問を口にされていて。
さな:私は日本にいて、産まない選択=残酷な人・かわいそうな人というネガティブに捉えられることが周りで多いなって感じてる。異性愛者同士が結婚して子どもを持って家族を持つことが幸せという価値観。
ゆいぴ:そうそう。でもこの「幸せ」の概念は、もしかしたら誰かからつくられて押し付けられたものだったのかも?!という発見があった。それこそ私は周りが結婚や出産ということに直面する年齢になってきたから。
おか:最近住んでる自治体の広報とか、広告が婚活パーティーを勧めてきたり、市の広報に広告がでてきたりですごいしんどい(笑)そうじゃない〜〜という気持ち(笑)
さな:自分の幸せがどこにあるかは自分で決めたいし、その中で本当は子どもを産みたいけど産めないという社会のあり方はいやだよね。
ゆうか:人口減少の話は、デンマークでも日本より前に課題になって、そこから女性が働きやすい制度づくりが始まったってい言うのは前に本で読んだよ!
さりー:こうした、ちょっとしたモヤモヤも、本当は色々な場所でフラットに話せたらいいね!
終わりに
NYNJでデンマーク視察に行った経験を、個々人の感動だけで終わらせたくありませんでした。だから、視察に行っていないメンバーも含めて収穫を受け取れるよう、NYNJ内で視察についてたくさんおしゃべりをしました。
そして視察で受けた熱気をNYNJ内で終わらせたくもなかったから、NYNJメンバーがデンマーク視察を経て感じたこと、視察に行かなかったNYNJメンバーがそれを聞いて思ったことを皆さんにも公開してみました。
私たちはデンマークの全てを称揚すべきと思っているわけでも、日本の社会が全てそれに倣うのがいいと思っているわけでもありません。ただ、今の日本のあり方とは異なる社会を、わたしたち自身の手でもっと作っていけるんじゃないかという期待がこの記事で少しでも伝わったら嬉しいです。
文=とき