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映画「マリオ」の大ヒットと、ポリコレに関する論争について


 映画『ザ・スーパーマリオブラサーズ・ムービー』が、全世界で快進撃を続けています。

 2023年6月現在、興行収入は13億ドルを突破しました。アニメ映画として世界的な社会現象を起こした『アナ雪』を超えました。今後『アナ雪2』を超え、全アニメ映画の中で世界歴代トップの座を奪うかもしれません。

 そんな現状を見て、ポリコレ(政治的正しさ=political correctness)を気にしすぎているハリウッドアニメが興行的に苦戦する中、そういうものに気にしない『マリオ』が快進撃を続けている――という文脈で語られることも多くなってきているようです。




 でも、ゲーム畑の人間からすると、その意見には、あまり賛同できません。

 だって、それだと「ゲーム産業は、ポリコレに配慮してない産業である」みたいな意味になっちゃうじゃないですか。

 「ポリコレ」という言葉には幅広い意味があり、すべての分野に関して網羅的に話していくとキリがないので、ここでは「多様性への配慮」みたいな意味に限定して話を進めますね。人種や宗教、性的志向の違いなど、世の中には多様な人がいるんだから、娯楽産業は、それらの人たちに配慮すべきだ、という考え方ですね。

 じつはこれ、本来、ものすごーくシンプルな話なんです。

 ひとことでまとめると、「いろんな人が、みんな笑顔になれるような作品を作ろうぜ」ってことですからね。

 世界にはさまざまな人がいるけれど、観た人がみんな笑顔になれれば、それでノープロブレムです。そういうのが最高レベルでの「ポリコレに配慮した作品」ということなんですよね。




 だとすれば、ゲーム産業って、こういった「多様性への配慮」については、めちゃくちゃ気を使ってる産業だと言っていい。

 それゃあそうですよね。でなければ、ゲーム産業は全世界的ビジネスになるわけがありません。テレビゲームは、世界中の多様な文化に向き合い、それぞれの文化にきちんと配慮してきたからこそ、いま世界中の人々がゲームをプレイし、みんなが笑顔になっているのです。

 中でも「マリオ」というゲームは、数十年にわたって世界中に愛されてきたゲームです。つまり、ものすごーく多様性に配慮してきたし、だから全世界の人を笑顔にしてきたのです。人一倍、ポリコレに配慮してきたゲームなんですよ。

 ただ、そこで行われている配慮は、映画産業などが考える「ポリコレへの配慮」とは、かなり違う形のものなので、あまり世間に理解されていないのかもしれません。


 

 というわけで、映画における「ポリコレに配慮するためのアプローチ」と、ゲームにおける「ポリコレに配慮するためのアプローチ」が、どのように違うかについて、説明します。

 一例をあげましょう。昨今では、映画『リトル・マーメイド』が、黒人俳優を人魚姫を主人公にしたことで、いろいろと議論を呼んでいます。

 個人的な意見を述べておくと、人魚姫を黒人俳優を演じることに対して、わたし自身、まったく気にしておりません。

 人魚姫は古典的な物語だ! もはや世界の人たちの共有財産だ! これまで白人が演じる人魚姫の物語はたくさん作られてきたのだし、ひとつやふたつ、黒人が演じる人魚姫が作られたとしても、それで笑顔になれる人がたくさんいるのであれば、それはいいことじゃないか! ――という考え方は「正しい」よな、とわたしは思います。

 その一方、これは原作が北欧の童話だ! だから人魚姫は白人が演じるべきだ! 原作を無視して、登場人物の肌の色を変えるべきではない! ――という考え方も理解できるし、そちらも間違いなく「正しい」考え方だと思います。

 つまり、これは「どっちが正しいか」という話じゃない。

 どっちも正しいんです。双方ともに正しいから揉めているわけですね。

 でも、映画を作るにあたり、双方の主張を同時に取り入れることは不可能です。主人公の人魚姫を黒人にするか白人にするか、製作者はどちらかを選択しなければなりません。

 映画というコンテンツでは、双方の人たちを笑顔にすることは、とても難しいのです。だから、こうして議論が巻き起こってしまうのです。




 ゲームの世界では、こういう議論は、あまり起きません。

 仮に「人魚姫」を主人公にしたゲームが作られるとしたら、おそらく、そのゲームのオープニングは、こんな感じになるからです。

・あなたは人魚姫です
・まず、プレイする言語を決めてください
・次に、肌の色を決めてください
・次に、瞳の色を決めてください
・髪型を決めてください
・身長を決めてください
・体型を決めて……

 このようにして、プレイヤーが自由にキャラクター・メイキングをできるようにしておけば、映画『リトル・マーメイド』が巻き起こしたポリコレ論争なんざ、起きる余地がなくなっちゃうんです。

 こういうのが、ゲーム産業が行っている「多様性への配慮」の基本形なんですよね。

 最初に書きましたが、いちばん大事なのは、いろんな人が、みんな笑顔になれる作品を作るってことです。だったら、すべてのプレイヤーが、「うん。この主人公は、まぎれもなく自分だ」と感じられるようにすれば、多様性への配慮に関する問題の大半は解決するんですよ。あらゆる人が笑顔になれますからね。

 これが、ポリコレに対するゲーム産業のアプローチの基本形です。みんなが笑顔になるよう、ゲーム産業は、そのためのノウハウを積み上げてきたのですね。





 映画『マリオ』に話を戻しましょう。

 主人公のマリオはイタリア系移民なんだから、その声優はイタリア系俳優が受け持つべきだ――という意見もあったようですが、さほど賛同を得ていないようです。少なくとも、大きな議論を巻き起こす問題にはなっていないよう観察されます。

 なぜ、議論が巻き起こらないのか。

 それは、わたしたちがゲームをプレイするとき、誰ひとりとして「マリオはイタリア人だ」と思っていないからなのです。

 じゃあマリオは誰なの? と問われたら、そんなもん「自分」と答えるに決まってるわけですよ。だって自分が操作してるキャラですからね。マリオは自分の分身みたいな存在だ、と誰もが感じている。みなさんも、プレイ中に「いま、イタリア人という設定のキャラを操作しているぞ」なんてこと、1ミリも考えたことないでしょう?

 それどころか、プレイをミスし、マリオがダメージを受けたとき、わたしたちは「痛っ」と口にするわけです。マリオが死んでしまったとき、「やられたぁ」と口にするわけです。「マリオ=自分」だから、マリオが受けたダメージは、つまり自分の受けたダメージである――と、わたしたちは無意識のうちに感じているのです。




 じつは、これこそが、ゲーム産業がかけている「魔法」なのです。

 いったん、冷静に考えてみましょう。

 マリオというキャラクターは、ひげ面のイタリア系移民のオッサンという設定です。なのに、同時に、世界中のプレイヤーが「マリオは自分である」と心から感じているキャラでもあるのです。

 世界中の人が、人種や民族、肌の色、さらには性別の違いすら超えて、「自分がマリオだ」と無意識のうちに感じているわけですね。

 よく考えると、ものすごく不思議です。

 でも、そういう不思議な感情を巻き起こせるのが、テレビゲームというメディアの特徴なんです。優れたゲームをプレイしていると、プレイヤーは「この主人公は、自分自身だ」と感じるという、そんな魔法にかかってしまうんですよ。

 ゲーム産業は、そんな魔法をかけることで、世界中の人たちを笑顔にしてきたのです。そのようにして多様性に対応してきたのですね。




 そんな視点から、映画『マリオ』の細部に目を向けてみましょう。

 この映画では、映画ならではのオリジナル要素が、まるで目立たないよう作られています。

 物語はブルックリン(という実在の町)から始まりますが、そこに「宗教をイメージするアイテム」がほとんど出てこないところに注目しましょう。マリオのファミリーはイタリア系なので、部屋のどこかにキリスト教を想起せるアイテムがあっても不思議ではないし、そのほうが映画的には人物造形の深みが出るかもしれませんが、この映画、そういう新要素を入れないよう、きっちりと消しています。

 マリオが、なんらかの宗教を想起させるセリフを口にしないことにも注目しましょう。聖書をベースとする慣用句なども口にしません。多くの映画でピンチ時に頻出する「オーマイゴッド」という言葉も、基本的には発さないのです。ピンチ時の叫び声は、ゲーム内と同様、「マンマミーヤ(お母ちゃーん、みたいな意味)」で統一されています。

 これ、地味だけど、すごーく大事なポイントです。

 だって、もし映画内で、マリオがキリスト教を原典とするセリフを口にしてしまったら、「あ。マリオってクリスチャンなんだ」と観客に思われてしまいます。その瞬間、これまで非キリスト教文化の人たちが感じていた「マリオ=自分」という幻想は消失しちゃうわけです。数十年に渡って、任天堂がかけ続けてきた魔法は、あっという間に解けてしまうのですよ。

 この映画は、そうなることを徹底的に避けている。特定の文化圏の人にだけ満足させるようなシーンを、完全に消しているんですね。

 この一点を見ても、これが、めちゃくちゃポリコレに配慮している映画であることは一目瞭然ですよね。むしろ世間の評価とは逆に、これまでゲーム産業が行ってきた「全世界の人を笑顔にするための配慮」「ポリコレに対する配慮」が、そのまま徹底的に貫かれた作品だ――評価すべきなんじゃないかな、とわたしは思います。



 
  
 

 というわけで、映画『マリオ』がポリコレに気を使っていないかのような意見には、わたしはあまり賛同していません。

 ほんとさ、「オーマイゴッド」というセリフすらゲーム内で使わないようにして、何十年も前から非キリスト教文化圏の人たちに「自分がマリオだ」と感じてもらえるよう努力を積み重ねるなど、細部に至るまで多様性に配慮してきたことを完全に無視して、「これはゲームそのままの映画だね」「だからポリコレに配慮してないけど、それがビジネス的には正解だったね」みたいなこと言われると、ちょっと困惑してしまいます。

 まるで逆でしょう。映画「マリオ」が大ヒットしているのは、もともと原作が「ポリコレに配慮しまくっている作品」であり、「だからこそ世界中にあらゆる人を笑顔にしてきた作品」だったからですってば。

 そんな原作が持つ「世界中の人を、みんな笑顔にする」という精神を貫き、そのアプローチのまま映画化された作品だったからこそ(その上で、素晴らしく楽しい映画だったから)、これほど広く世界中に愛されたんじゃないかな、とわたしは思っております。


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