フリーレンは長生き
※途中から何書いてるか分からなくなった。
物を売るとかしたくない。
出来れば誰も蹴落とさずに生きたい。
損得勘定から離れたい。
自由に生きたい。
こういう感情を人に操縦されないように生きていくにはどうすればいいか。
フランスは自由、平等、友愛の理念を元に政治、社会制度の整備を行なったが、結果、労働者達は自分の労働力を売って自由を得る、不自由になるしかなく、社会は絶えず不平等の連鎖なので、友愛どころかポジション取りのエゴイストを量産してしまった。
SNSでよくみる。
会社以外で稼げる手段があればいい?
ならフリーランスとして自由に生きよう。
起業しよう。
収入が少なくても、自由に生きる事に憧れを感じる現代。
自由に生きれる事が幸せだ。
で、人はもうすでに自由に操縦されている。
これはシュティルナー的発想。
"近代的な自由とは、社会が認めた自由を自由だと思い込む自由しかない。"
自由には責任が伴うとよく聴くが、エーリヒ・フロムは自由からの逃走で自由の概念を、2種類に分類している。
一つは母と娘のような子供を親と結び付けている絆、中世で言えば封建制社会のような産まれながらにして持つ縛りからの自由。
二つは、個人が個人的自我を喪失せず、言論、思考や感情や感覚などの表現ができるような状態の自由。
なので、仮に金銭的な自由を得ても、どちらかの自由に依拠できない状態は、決して自由ではない。
更に、マズローが言うように、社会全体と関わりたいという根源的欲求を持っている。
いくらお金を稼いで自由になろうが、一人で家でトレーディングして稼げるようになろうが、一人で世界中旅行に行けるようになろうが、僕たちはこの欲求から逃げる事は不可避。
なので、吉本隆明の「共同幻想論」にあるとおり、結局は全体主義に絡め取られていく。
そして、全体主義が個人の自由と独立性を抑圧し、個人が自主的に考え、行動する能力を奪う。
収入と社会意義、貢献は結びきにくい社会になっている為、社会に貢献出来て、しかも高収入も望める仕事なんてない。(グレーバー的発想)
じゃあやりたい事をやれ、好きな事をやれ、
となるが、こういうものは大体収益性が低いか赤字にしかならない。
ほとんど、と付け加えておく。
経営のPPM戦略で言うと、やりたい事はやるのは問題児。一部は成功し収益を生み出す花形、金のなる木になり、最終的に撤退をする。
僕たちは生活をしないといけない側面があるので、やりたい事をやるのは赤字を掘れる若いうちか、将来の不安がなくなり、リスクヘッジを考えた上で、損が限定された博打が打てるような経済状況にある人。
だからほとんどが30歳になると、青春なんか追えなくなるという現実に目を向けがちになる。
バカなうちに結婚しておけと言ったのは樹木希林。
損得を見てちゃ何も生まれないが、それではアートみたいに食っていけないじゃないか。
ちなみに損得の反対は美学。
肝心な時に美学的なものを大事にする奴が、最終的にいい人生を送ると思っている。
だから、若いうちはいざって時に逃げない自分を作る為に、多少の自己犠牲を厭わないメンタリティを10代、もしくは20代で養っておかなくてはいけない。
自己犠牲なく育つと、合理的かつ効率的に、傷つかない為に自分だけが資本の、友愛関係の、愛情のタダ乗りをする自己の意識に喚起する。
だからハンナ・アレントは目先の利益や目先の合理性の検討から生ずる「自発性」ではなく、自然と内から湧いてくるような力やその方向、性質をつ「内発性」に従う事を強調している。
80年代の自己実現ブームから、自主的に行動する社員の教育が必要だとか、いや社員の内発的動悸付けが重要など、自走型社員の育成が重要であるとか。
管理する側とされる側のいつもどうりの構図。
管理が上手くいくともっと更に人数を増やす。
資本を手にすると勝ちやすくなるので更に大きな資本を投入。
自己中心主義、自己利益主義の背後にあるのは不安。
裏切られるのではないか、立場が危ぶまれるのではないか、周りにどう思われるんだろうか。。
こういう思惑が人を、社会をつまらないものにしようとしていく。
子供は早期教育、受験、世間様の迷惑を掛けないよう、マナーを学ぶ。
ルールが厳しくなる一方で、好きなように生きよう的な言葉が鬱陶しくなるぐらい聞こえてくるので、楽に生きようみたいな自己啓発本がバカスカ擦られる。
さて、やりがいよりも収入、心の豊かさよりも社会的地位、リスクよりも安全なポジション取りメインの社会でどうやって自分の美学を貫けばいいのか。
一つは間違いなく「死生観」
死は決して悪い意味ではない。
結局人は死ぬために生きている。
長崎の知覧に行けば、死にたくないのに特攻を命じられた人達の墓がある。
福井の永平寺に行けば、タワマンからは見えないあり得ないぐらい風情を感じる景色がある。
積み重なった歴史の上に生きているという、
歴史を知るだけではなく、体験にまで落とし込む。
なので、「認識よりも体験」
ただ、体験をする為に、ある程度の教養が必要。
近代美術館に何十回行っても、教養が無いとアーティストが何してるのか、何で作っているのか、もう何がどうなってるのか全く分からん。
古い建物はカビ臭い。なんか変な石。
あれ、これってもしかして文化的格差?
社会で生きていく為には、口を慎み(ただし愚痴や他人の悪口はOK)、振る舞いをわきまえて、本来持つ身体性、感情を押し殺して生きる事が当たり前のようになりました的な感じで、全体主義の抑圧的な性質が、人間の基本的な価値観を本当に脅かしている。
充分に自由で豊かな社会なら、何をそんなに自分を大事にする必要があるのか。
誰しも幸せに生きたいが、幸せに生きたいなんて、歴史的にみても異常な事。
でもどうせ男は定年過ぎたらほとんど孤独死するんでしょう。
女性は旦那の収入があっても、稼ぎがあるなら不倫か浮気で、タワマンなんか住めても、仕事のストレスで裏では毎日喧嘩や悪ければDV癖の旦那にボコボコでしょう。
だから、経済自立よりも心身自律。
風の時代。そりゃあスピ系も流行るわけ。