歪んだココロ
同級生とのコミュニケーションに苦労しながらも、教員と仲良くできること、それなりに勉強ができることによって、いじめられていても多少はマシな学校生活ができていたと思う。
それでも、学校での宿題に対する向き合い方には苦しんでいた。問題を解くだけならまだしも、丸つけまでも生徒に要求するようになってからは、意図が分からず、自分が説いた問題に×がつくことで自分が出来損ないの人間であると、認識されることがとにかく怖かったのだ。
当時通っていた塾での勉強についての評価は「ケアレスミスが多い」「基礎はダメだが発展はできる」というものだった。基礎ができないのになぜ発展ができるのか、当時は自分の学力がよくわからなかった。だからこそ、なおのこと自分の出来損ない具合を実感させられるのが怖かったのだ。
勉強さえできればなんだっていいと思いながらも少しずつ、じわじわと自分の弱さを感じるようになり、とうとうその弱さを実感する機会が訪れてしまった。高校デビューとやらに失敗し、同級生としゃべらなくなったのをいいことに、教員と仲良くしながら期末考査に向けて少しだけ勉強に力を入れてみた結果、とある教科でクラストップをとった。しかし、私の隣の席にいたクラスメイトが「絶対えこひいきでしょ」と言ったのだ。
勉強さえできれば、教員と仲良くさえできれば、そう思っていた私の心が壊れる音がした。
それからというもの、勉強なんてしていても何もならないと絶望した私は、時々友人トラブルを起こしながらも、同級生と仲良くする努力を始めた。
しかし、それは私のカラダにとっては酷なことだったようで、高校時代は、精神疾患からくる症状にたびたび悩まされることとなった。しかし、父親や親族からの理解が得られず、途中で通院をやめることになった。一方で、勉強ができるという長所のおかげで同級生に頼られたり褒められたりすることもあった。
そう思わなければ、過去が無駄になってしまうように感じるのだ。
自分のことを持ち上げるのは自意識過剰のように感じて憚られるが、私は知的好奇心があり、そのおかげもあって勉強を好きでいられた部分もある。勉強さえあれば不満に感じることはなかった。そして、教員とのコミュニケーションは息抜きのようなものだった。
しかし、いじめを経験したせいか、周りの視線や反応がひどく気になるようになり、人とのかかわりを持たざるを得ない感覚があり、そういう部分で無意識に周りと違う何かがあると感じていた。
今思えば自分の時間、知的好奇心を満たす時間や思いふける時間を周りから奪われている感覚だったのだろう。しかし、そんなことは言っていられない。大人になったなら尚更だろうと思う自分もいる。これは恐らく歪んだ認知もしくは思考だろうと思っている。
今に至るまで、自分に対する正しい向き合い方ができないままで居るなのだろうと思う。なにせ精神症状で体温感覚が狂うまで働くような人間だ。どうしたら自分らしく健康に生きていけるのだろうか。