ゴキブリの卵 #ショートストーリー


「これ、ゴキブリの卵だよ。」

そうおばあちゃんに言われてから知った。
当たり前に家にあるもの、だから意識したこともなかった。
黒くて小さな塊は家中に、
殊に食器入れの中に存在していた。

築何年かもわからない古いアパートの2階、
玄関を開けると畳の部屋が一つ。

左手側にステンレスの台所、
正面真ん中には机の上が物で溢れたこたつ、
右手奥には煌びやかなドレッサー。

そこが私の生活の場だった。
2歳か3歳の私とママとの二人の。

二人の生活は貧しかった。

母親は夜仕事に出かけ、昼間はずっと寝ている。
日中。汚い部屋。寝ている母親。私。
散らかり放題の部屋では、畳に落ちた服を一枚捲るとゴキブリが走り出す。
机の上のコップの中にはよくわからない虫が泳いでいる。

私は保育園に通っていたが、通園じゃない日の昼間はママと二人きりだった。
私の保育園がお休みだからといって、ママがいつもと変わることはない。
昼間のママはずっとこたつで寝ている。

ママが眠り出した頃、この間にお片付けをすれば褒められるんじゃないかと考えた私は、コップを片付けようといくつもあるコップのうちの一つを持ち上げた。
しかし、食器とゴミで溢れている机の上。
手の短い幼児が、器用にその中から一つだけ持ち上げるなんでことはできず、他のコップに当たってしまった。
そのコップが机から落ち、まだ中に入っていたコーヒーがこぼれる。
ゴンッ。というコップが落ちた衝撃で母親が起きる。
夜な夜な仕事をして、疲れている母親はいつも不機嫌だった。
転がったコップと、広がったコーヒーの染みを確認した母親は、私を殴った。

それから私は保育園がない日の昼間は、こたつの中にも入らず、畳の上に座って過ごすようになった。ママに怒られないように。

そんな私の楽しみは、ママの持っている着物のへこ帯を首から下げ、天女ごっこをすることだった。
きらきらとした細かいラメが施された淡い青色のへこ帯は、天の川のように美しくて、なんだか特別なものに思えた。
そしてこの部屋にある唯一綺麗なドレッサーの前に立って、天女になった自分を見て小躍りするのだ。
きっと鏡には、汚い部屋の中でへこ帯をひらひらと靡かせてうっとりした私と、それを見守る何匹ものゴキブリが映っていたことだろう。

ある時、母親がいない時間におばあちゃんが家を訪ねてきた。
散らかり放題になっている部屋を見ておばあちゃんは固まっていた。

畳が畳だと認識できないくらいに散らかり、
物を置くスペースなんてないこたつの机、
小汚い孫。

おばあちゃんはお部屋のお片付けをしてくれた。
洗い物もしてくれた。

洗ったお箸を引き出しに仕舞おうとしたおばあちゃんが、小さな悲鳴をあげた。

おばあちゃんに抱き抱えられて覗き込むと、引き出しには黒い粒々がたくさんあった。

しかし私はそれが何か知らない。
引き出しの中だけではなく、部屋に当たり前にある物なので気にも止めたことがなかった。

その後に続くおばあちゃんの言葉で知ったのだ。

「これ、ゴキブリの卵だよ。」

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