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20240911(メメントモりたくない話)
私はタナトフォビアである。
物心ついて、人は誰でも漏れなくいつか死ぬ、と知ったその時から、ずっと死が怖い。
おそらく4歳だか5歳位だったと思うが、初めてそれを強く意識した時、突然泣き出した私に驚いた母はどうしたのか、と訊ねた。いつか死ぬのが怖い、と答えた私に母は少し失笑ぎみに「そんなのずっと遠い先の事だから今から怖がらなくていい」と言った。
親とは言えども子にもいつか訪れる死という運命をどうすることも出来ないのだから、母のその答えは気休めでしかないがそれ以外の正解もなく、誰でもそう答えるほか無いだろう。しかし当然だがそれは私にとって気休めにすらならなかった。
私の場合死んで消滅することよりも、いつか訪れる死のその瞬間が恐ろしかった。これで死ぬのだ、と実感するその時のことを想像すると恐怖で気が狂いそうになった。この「気が狂いそうな瞬間」に発作的にパニックに陥り、耐えきれずに叫び出すこともあった。
大体夜寝床に就いて、眠りに落ちるか落ちないかの半覚醒状態でそれは突然訪れる。突然叫んで飛び起き、のたうち回って寝床を這い出してしばしば家族を驚かせた。どうしたのかと訊かれても本当の事を話すことも出来ず、怖い夢を見たと言って誤魔化していた。
大人になってもそれは続いたが、20代から患っていたうつ病が30代半ばになって寛解に向かい始めた頃、いつの間にか発作は出なくなっていた。
死の瞬間の恐怖については、「考えないように努める」という事が出来るようになった。しかしだからと言って克服出来た訳ではない。初めて死を意識して泣いたあの時から40年の時間が過ぎて、実際問題として死はその距離を確実に詰めて来ている。あちこち体に不調が出て来て老いを実感することも多くなり、「ああ、少しずつ身体が壊れていっていつか死ぬのだ」と否が応にも意識せざるを得なくなる。
自分の死は勿論だが、身近な大切な人達の死も恐ろしい。初めて「この人がいつか死ぬという事に耐えられない」と強く思ったのは母方の祖母だった。
祖母は私が30歳の頃に亡くなった。臨終に立ち会うことは出来なかった。恐れていたその日が来て、心を切り刻まれたように辛く苦しかったけれど、いつしかその悲しみも時間の経過とともに癒えていった。
今は母を失うことが何よりも恐ろしい。母は私にとって間違いなく地球上で最も大切な人だ。私がこの世に生まれてからずっと、誰よりも惜しみなく愛情を注いでくれた人である。もしいつか母がこの世から居なくなったら、私の心は完全に壊れてしまうかも知れない。
終活という言葉をよく耳にするようになった。高齢化に向かって突き進んでいく社会を最早誰も食い止められない今、死を迎えた時に極力周囲に迷惑をかけることがないように、生きているうちから「死の準備」をしておくことがエチケットですよみたいな風潮が出来上がりつつある。
言いたいことは理解できる。この世界は残酷なので人が尊厳ある死を迎える為にも必要なリソースというものがあって、もうこの社会はそのリソースを確保し続ける事が出来ないのだ。
だから死にゆく者達が、死ぬための努力をしなくてはならない。
最近五木寛之氏の「生きるヒント」を読み始めた。これまで私は五木氏の作品を読んだことがなく、この有名なエッセイが初めて読む五木作品になる。
さりげない品格の高さが伺える文体で、そこに綴られる価値観に多少の違和感を抱いたとしても決して不快にはならない。相当人間力が高くないとあんな文章は書けないと思う。ベストセラーになったのも頷ける。
まだ読破はしていないが、このエッセイの中には度々死についての話題が出て来る。五木氏曰く、人はなるべく若いうちから死について考えておくべきだという。決して避ける事が出来ない以上、死と向き合う意識を持つべきだという考えは至極賢明なことなのだろう。
だけど私は死について考えたくない。死と向き合いたくない。発作こそ出なくなったが死の事を考えると今でも怖くて叫びだしたくなる。こんなにも怖いのに向き合える筈が無いのだ。
だから終活とやらもやった方が良いのだろうとは思うが全く気が進まない。「生きるヒント」の中で事あるごとに為される五木氏の提言にも、「しんどくなるからいやです」と声を大にして言いたい。
しかし私のように独り身で晩年を過ごすことが確定している人間こそ、ちゃんと死と向き合ってその準備をしておくべきなのだろう。
そう思ったからこの記事を書くことにした。こんなにも包み隠さず自らの「死に対する考え」をアウトプットしたのは初めてのことだ。
これをきっかけとして、少しずつ死を考えることへの抵抗を減らしていけたら、と思う。
おそらく恐怖は無くなることはないから、怖いまま向き合っていくのだ。あと何年生きられるのか分からないが、さながら目を力ずくでこじ開けられながら見たくないものを延々見せられ続ける拷問のような気持ちで、私は死の準備という苦役に取り掛かるのである。
※みんなのフォトギャラリーから、猫助さんのイラストをお借りしました。
ありがとうございます。