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誰一人として

こんばんは。

最近はnoteを書きたい気分になることが多いです。

というよりは、以前よりも言葉が出てきて、それを残しておきたいと思うことが多い、です。

あわよくば、一人でもいいから読んでもらって、ふうんこんな人間もいるのか、と思ってほしい、という欲も、恥ずかしながら。

・・・

そう、今日のタイトルは「誰一人として」ですが。

誰一人として、誰かに自分を救ってもらえるような人はいないだろう、と思ったのです。

誰かの言葉が沁みるとか、話を聞いてもらうとほっとするとか、そういうこととは別の話で、

結局は、最終的には、みんな自分で自分を救うしかない、ということです。


私は、中学生くらいまではすごく刺々しくて、強さを求めていて(方向を間違えましたが)、誰かの言葉を借りたいと思ったことは無かったのですが、

高校以降、徐々に弱さに気づいて、受け入れられるようになって、刺も表からは姿を消して、ひとの話をたくさん聞くようになったところがあります。

刺々しくて、ひとも自分もひどく傷つけていた少し前の自分の影はすぐには消えなくて、それに気づいたからこその苦しみがありました。

過去の自分といまの自分を癒したくて、優しさを借りたくて、いろんな人の声を入れました。

それまで、あたたかいものが内側にあまり無かったので、借りてきた言葉であっても、相当に心をあたためてくれました。

やさしい人に、生まれ変われる気がしたのです。

すごく、すごく不思議な感覚でした。
言葉も感情も発するたび誰かを傷つけるような生き方をしていたのに、そうじゃないことも出来る、あれだけが私のすべてではなかったのだ、と。

うれしかったのです。


でも、やはり、借りてきたものだけでは、誰かの言葉だけでは、

たとえそれが近しい人のものでも、完全に自分を救うことはできない。

と、気づき始めました。

(気づいたというのも完全に主観なので、感覚の違う方もいると思います。そういう方はこの辺で離脱を。)


あたたかくなったと思った内側は、気づいたら冷えていて、時々ぱっと火がともるような瞬間があっても、すぐにまた小さくなる。

刺こそ出なくても、寒い日の朝に霧の中を歩いているような、あまり見えなくて手足も動かなくて、それでも濡れながら進んでいるような、合っているのか間違っているのか分からない感覚。

そうか、あのあたたかさは、誰かから借りたもの。もしくは、やさしい人がくれたもの。


あたたかさがうれしかったから、自分もできるだけ、人に配ろうとしていました。

それで少しずつ世界が変わるんじゃないかと、そんなことも思っていました。

でも、何ひとつとして、誰一人として、救うことはできない。

少なくとも、いまの私にはできない。


なぜなら、私はまだ刺を持っていて、いつだってそれが再生するから。
配ろうとしていたものは、そもそも借り物だったから。

どうしたらいいのか、分からなくて、助けてほしくて、また言葉を探してしまう。

自分の中に潜る前に、誰かの声を探してしまう。

たとえそれでまた、一瞬、あたたかくなったとしても、続かないのに。わかってはいるのに。

楽になりたいのでしょうか、本当は変わりたいのでしょうか。


自分でしか自分を救えないのに、私しか私の中にあたたかさを生み出すことはできないのに、まだ、借りたいのでしょうか。

本当に弱い。この弱さが悲しい。

でも、変わりたいと思っている、何とか寒さに耐えて進もうとしている自分に気づいているから、それだけは失わないように。

いつも迷う。自分の中に沈む過程は安心感があるけど、どこかで引き戻される。こんなことしてる場合じゃない、と。

きっと、すぐには無理なのでしょう。

人として生きることは、そんなに単純でも簡単でもないのですよね。

少しずつで大丈夫、と言ってくれたあの人の言葉を、いまは借りたままでいよう。


結局、借りるんかい、という落ちですけれども、こんな文で伝わるのでしょうか。

みんないろいろなので、意味わからない人の方が多そうですが、そんなことを言っていたら書けなくなるので、このままで。

読んでくださった方、ありがとうございます。

いつも拙い文ですみません。

いつも謝ってるじゃないか、とつっこまれそうですが、こんなの書いて申し訳ないなとは思っているのです。ご容赦。


それでは、おやすみなさい。