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差別のボーダー、あとルーツの話。
2024年になりました。明けまして色々ありました。
今年も自分を含めた多くの人が穏やかに過ごせることを心から願います。
しょっぱなから難しくて多分答えのない話題になります。
最初に明記しておきますが、特定の個人や作品、あらゆるものを誹謗中傷したり批判したりする意図はありません。すべて私という「個」が書く自分の考え事です。
先日、映画「ゴールデンカムイ」にまつわる原作者のインタビュー記事がXにRPされてきた。
この記事を見た時に違和感を覚えた箇所が2箇所あった。
「自分が知る限り『ゴールデンカムイ』を嫌いと言っているアイヌはいない」とのことでした。
若いアイヌの方たちにも非常に良い影響を与えていると。
~中略~
なにより、アイヌルーツの方々というのは本来、役者業ではなく、工芸家として世に出ている方が圧倒的に多いので、適材適所として、この映画においては演技よりも、衣装や民具や村のセットの制作に大きく関わっています。決して映画というのはキャストだけで成り立っているものではありませんので、もっと一歩深い考えで、この映画を判断していただきたいですね。
私個人は創作や製品、サービスなどなど、あらゆるものに「完璧」というものはなく、必ず誰かには不便や不快が発生していると思っている。制作する人は忘れてはいけない根っこだと思っている。
現に、上記記事でも「良い影響を~」の後に「もちろんアイヌルーツの方にはいろんなイデオロギーの方がいらっしゃいますので~」と続いているので、多分原作者さんも同じような考えだとは思う。
問題はその後の「適材適所」だ。
アイヌルーツがあっても、なくても、多分自分の仕事に100%自分が「適材」だと思っているか、と言ったら絶対違うよね。
何より事情や背景を知らずに他人の職業を「適材適所」と言えるところ、良しとしてしまうことの驕りに驚いた。
言いたいことは想像の範囲である程度くみ取れるけど、その考え方は大きく危うい、アウトだなと思った。実際フォロワーさんたちも似たような反応だった。
ちなみに、記事を実際読んだ直後の自分の反応↓
創作に関わらず、すべての人に受け入れられることなんて不可能だし、現にうんざりするほど当事者にダメージ与えてる上でこの考え方を持っているのは傲慢だよなぁ。ちょっと見たくはなかったインタビュー記事っていうか作者の思想だよね
— バリ肩歳三🧠 (@meganebarikata) January 21, 2024
同時に、作品の監修者と面識のあるアイヌルーツの方が異議を唱えていたのも見かけた。
とは言いつつ、反面、原作者も、自分の作品だからこそ自信を持って、という思いがあったのだろうな、ともくみ取れた。
作品としての「ゴールデンカムイ」は実在した土地や世界を基礎とした、あくまで「創作」である。
と、私は見てたので、アシリパさんやアイヌという「民族」の描写もベースには監修も入っているけれど、あくまで「創作」だと思って心の中で無意識に線引きをしていた。
けれど、当事者の方ーー少なくとも異議を唱えてた方はそれを「消費されている」「軽視されている」と感じているようだった。
私の中の「現実」と「創作」のボーダーは危ういのか?
何より、傷つける意図はなかったものの、民族の関わる作品に気軽に触れてしまったのか?
と、悶々と考え、嘆いている方のその核心にあるものを少しでも理解したいと思ったのだけれど、ポストには深い嘆きと諦念、怒りが多く、そこから思いを掘り出すには自分が体力も気力も足りなかった。
今一度言うが、これは私の「思い」であり「感想」である。
アイヌルーツの方の感情や発言に批判的なものは抱いていない。
ただ、何かを深く知りたいとか、相手の「声」に触れたいと思った時にSNSという媒体は流動的すぎて向いてないな、とは思った。
で、その次の日当たりはこんな別のニュースもあった。
実際の番組を観ていないので何とも細かくは断言できないんだけど、これもこれで私の中に疑問が生じた。
別の番組では、青森のロケで、津軽弁で対応している現地の方に関東圏のスタッフさんが「何を言っているのか分からない」という感じの意思疎通が出来ない様子を笑い声のSEを流しながら展開していた。ワイプでスタジオのタレントさんたちも笑ってそのVTRを観ていた。
別の番組では、高齢者の方が回答者になるクイズもあったけれど、あれも笑い声のSEや反応だったと覚えている。
なぜ、沖縄だけが「差別」で、他の地域、高齢者などは「OK」なのだろうか?
第一、その放送は「一線で活躍してトレーニングも経験も積んだ俳優さんでも、自分のルーツの方言で話しかけられたら標準語で対応できるのか?」といった趣旨だったんだろうし、沖縄弁を嘲笑するようなものではなかったと想像する。(観てないので断言できないけれど)
思うに、そこに発生する笑いも嘲笑の類いでなく「実力のある俳優さんでも、自分のルーツの言葉は根付いてるよね」みたいな、ある意味で「故郷を忘れない根っこ」みたいな、ほんわかとしてものなんじゃないのか?
……と、個人的には思い、なぜ「差別」になるのだろうか? と疑問しか湧かなかった。
記事で制作サイドが謝罪を入れていたのも不誠実だと思う。そういう意図はなくと言うのなら、どういった意図で作ったのか説明すればいいだけでは?と思う。
話題が色々飛ぶけれど、そんなニュースなどに立て続けに触れたせいか、自分の中で「差別」とは、とか、ルーツとは、とかを長考していた。
私個人は複雑な家庭環境などもあり、生まれも育ちも関東だけれど、血筋的には違う(らしい)という程度の「ルーツ」感だ。
家族や親族とも縁遠く、あまり「血筋」とか「故郷」とかも価値観としては重きがない。多分、どこに暮らしてもそれなりに一人でやっていけるタイプ。
色濃く自分のルーツを大切にしている人とは対照的ではある。
だから、血の道的な意味で「差別」を肌で感じたことはなかったと思う。
けれど、アイヌルーツの方がいわゆる「外の人」を「和人」と呼んでいて、初めて「ルーツにおける差別ってこんな感じか」と実感した。
和人(シャモとも)、と書かれたポストを見た時、私の中でザラッとした嫌なものを感じた。自分は「日本人」だと思っていたし、第一「和人」って差別的意味を含む表現だと思っていたから。
アイヌの方にとっては「隣人」と言ったニュアンスなんだろうけれど、私は知らぬ人に「和人」と言われたら「日本人です」と返すと思うし、ちょっと嫌だなと思う。
だって、私個人は「和人」のように誰かの生活やルーツを壊したいとか、利己のために侵略したいと思っていない。
過去とは言え、誰かを脅かした「人」と同じ表現で「私」を指したら、それも「差別」にはならないのかなぁ。
何を「差別」と言うのか、多様性が唱えられるようになった今の世で複雑化しているし、個人の差もしみじみと実感する。
そもそも島国日本、民族として風習、とか考えると、外国のような考え方に100%持っていくというのも違うような、とも思う。
第一、私は「多様性」という言葉が大っ嫌いだ。何をそんな当たり前のことを今更声高に言うんだか。そんなもん、もうとっくに動物も植物もおこなっとるわたわけ!と、思ってるし。
何が正解で何が間違いなのかなぁ。
本当に数日こんなことをずっと考えているんだけど、しっくりする答えや道筋にたどり着けない。
悶々としつつも、自分の中で濃い「ルーツ」のある人が少し羨ましいなとも思う、根無し草の「私」でもあった。
私はどこへ辿りつくのだろうねぇ。