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【明晰さとは】

師匠との対話していると「なぜ、わからない事をわからないままにしておかず、自分の知っている(経験した)”もの”と思おうとしてしまうのか?」という話が度々出てくる。

先日も師匠は、あるSNS でこのような投稿をしていた。

“明晰さとは、ものごとをはっきり捉えられる能力だとすると、下段の左は、明晰ではないのか?
リンゴとダルマ。リンゴは、これまでの自分の経験の中にあって、知っているものだとする。ダルマは、これまでの自分の経験の中になく、知らないものだとする。説明を聞いても、なんだかはっきりしない。

このとき、ダルマのことも、知っているもの(たとえばリンゴ)であると思うおうとすることがあるようだ。なぜ、そんなことをするかというと、ハッキリしない事に耐えられないため、みたい。

だが、リンゴとダルマは違うものだ。理解度としては、ダルマをリンゴだと思う(下段右)より下段左の画像のようにぼやけた状態のダルマを捉えている方が、ダルマの理解ができていて、明晰だ。明晰であろうとして、明晰でないものがない状態になろうと努力しているつもりで自分にとってハッキリしないものをないことにして、ハッキリしているものだけにする(ダルマもリンゴだと思おうとする)罠があるそうです。”

新しい事(もの)に出会った時や新しい経験をした時、明確に表現することができないことはたくさんある。しかし、どうもこの世の中は「わからない」という事のままにしておく事を”罪”としてしまうところがあるようだ。「わからないという答えは存在しない」と見なされている。

先日、togetterで面白い記事を発見した。

まさに、師匠の言っている事と同じである。

赤い何かを見たら、「赤い何か」と、そのまま置いておかずに、その時自分が知っている(経験している)“りんご”に回収してしまう。
他の何かかも知れないという想像や観察をせずに、過去の経験の中で語ってしまう。

師匠は

「なぜ、そんなことをするかというと、ハッキリしない事に耐えられないため、みたい。」

と言っている。

そして

「理解度としては、ダルマをリンゴだと思う(下段右)より下段左の画像のようにぼやけた状態のダルマを捉えている方が、ダルマの理解ができていて、明晰だ。」
明晰であろうとして、
明晰でないものがない状態になろうと努力しているつもりで自分にとってハッキリしないものをないことにして、

ハッキリしているものだけにする(ダルマもリンゴだと思おうとする)罠があるそうです。

罠です。
罠にかかってはいけません(笑)

「わからない」をわからないまま、ぼんやりと眺め、その場に留まってじっくり観察(聴く)する事で、そのうち何となくわかってくるものなんしょうね。

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