【短編小説】愛想のいい男・25枚 (電子書籍の落丁分を無料公開)
(本稿は『短編小説「目撃者たち」他四篇』に含まれるはずの原稿でした。1話丸ごと誤脱させてしまいましたので、デジタルスタッフが責任を取ってここに公開します。本文 9,623字)
「愛想のいい男」
あまのじゃく子
くぐもった空の下、悲しげな犬の泣き声が聞こえてくる。二月も半ばを越え寒い日が続く。日中の気温もほとんど上がらないまま、夕暮れの刻をむかえた。
居間のエアコンは、昼過ぎからつけたままにしてあるが、隣の私の部屋までその暖気は届かない。設計の都合で五・五畳となった自室の小ぶりの炬燵で、通販カタログの『美味特選』を見ながら、夕飯のメニューをあれこれ考えていた。三人の子どもたち、いや、もうみんな大人だが、それぞれの好みを思い浮かべてみる。都内の大学に通う長男はウナギや焼き肉が大好きだ。隣町の高校に通う次男は刺身や焼き魚を好む。川口市内で塾講師をしている長女は香辛料の利いた中華が好きだ。
不意に居間の電話が鳴った。もしかして「夕飯いらないコール」かもと期待しながら、炬燵布団を跳ね上げ、居間へ急ぐ。
「もしもし、さくら介護センターの田中ですが」
電話の主は、ゆったりとした口調で舅の異変を知らせ始めた。
「無理だよ。仕事があるんだ。キミが行ってくれよ」
昨年の四月から苫小牧に単身赴任している夫は、不機嫌そうに言う。私はこれまでの経緯を簡単に説明する。舅は「要介護1」なので週二回の訪問介護サービスを受けており、身の周りの世話や買い物などをやってもらっていたのだが、もう一人暮らしは限界で、四日以内に舅をつれて「バンビ立花」へ行き面接を受け、気に入れば直ちに入所出来る。この有料老人ホームは、さくら介護センターの田中さんから、ほんの少し前に紹介された所であると。夫はなかなか承諾しない。仕事、仕事の一点張りだ。トドメを刺すしかないだろう。
「仕事は他の誰かに替わってもらえるでしょうよ。親の介護は一人息子の一番大事な仕事、その第一歩なのよ。はやく松山へ飛んで行っておじいちゃんを説得してちょうだい」
そう言ってもまだ、キミが行ってくれと騒いでいる。
やっぱり、本音を言おうか。
「わたし、去年の夏、がんの再発が見つかって手術を控えてるのよ。体調も良くないし。そんなことより、おじいちゃんは息子が来るのを今か、今かと待ってるのよ」
「分かった、行くから」
やれやれと、私は一息ついた後、バンビ立花の施設について一気に話した。
介護センターの田中さんの電話を受けてから、一週間が経ち、夫から経過報告の電話があった。
「参ったよ、実家のさ、玄関開けたらオヤジが、『きょうは、来なくていいと言ったはずだが。用があるときは介護センターに電話するから』、そう言ってぼくの目の前でピシャリと玄関を閉めたんだ。『ぼくだよ、勇一だよ』と何度も叫んでやっとわかってもらえた。やっぱり施設に入れて正解だった。ろくに食事をしてなかったらしくて、ずいぶん弱っていたから、の大林さんにね、よく頼んでおいたよ」
報告は、延々と続く。大吹雪の中、必死で新千歳空港に辿り着いたものの、飛行機は飛ばず、毛布にくるまり空港で一夜を明かし、翌朝、羽田経由でやっとたどり着いたと思ったらオヤジは息子の顔を忘れていた。なんとか思い出してもらえたが、耳が遠くて話が伝わらない──。
今にして思えば、さくら介護センターの田中さんの電話が始まりだったのだ。
「えっ、義父がうずくまっていたの……」「なんかこう、臭うんですよ。お風呂とか入ってないみたいで。でも、お金のことはよく分かるみたいなんです。だから、頼まれた品物の代金はきちっともらっています」
「そちらにいい施設はないでしょうか」
「結構、あるとは思いますよ。ただ、どこもすぐの入居は無理ですねえ。二、三か月は待つと思いますけど。ご自身でネットを使って探してください」
ああ、最近は、ネット検索が大はやりだ。じゃあ、後でゆっくりパソコン開いてみようか。いやいや、それでは遅いのではないか。それに遠く離れた愛媛松山の老人ホーム、何を基準に選べばいいのか。そう思った瞬間、私のなかで何かが弾けた。
そして、気がつくと自分でもびっくりするほど悲痛な声を上げていた。
「田中さん、お願いよ、どこでもいいの。義父を受け入れてくれそうな所、紹介して」
相手は黙ったままだ。ホテルや温泉旅館ならともかく、有料老人ホームの善し悪しなど介護職であってもすぐに返答出来るものでもないだろう。
しかし、私はすっかり冷静さを欠いていた。
「ひとつでいいの、ひとつ。そこを手がかりに探すから。ヒントでもいいから教えて」
電話の主は、ああ、そうだと呟いてから、
「お世話していた方が、最近入られたのがバンビ立花という所ですねえ。立花町いうとこにあります。空いているかどうか分かりませんけど」
立花、聞いたことのある地名だ。私が四年間過ごした松山市の西にある町。しかも幼友達がその地に嫁いでいる。
よし、夕飯の支度の前にすべて片づけてしまおう。早速、幼友達に電話する。
「ハーイ、飯塚でーす」
と、彼女の声は相変わらず元気だ。商売の方もうまくいっているのだろう。
「バンビ立花って知ってる。
私も声のトーンを上げた。
「知ってるも何も、うちの敷地の隣よ。去年出来たばかりでの、姑と見学したんよ。良かったけど、姑は持病があったから、そこやのうて医者と看護師が常駐してる所に入ったんよ。ちょっとばかし、割高ではあるけどね。
そう、いい所なのね、と私は友子の話に大いに気を良くし、
「また、あとでゆっくり電話するから」
と、言いおいて、すぐバンビ立花に電話を入れた。
「バンビ立花」の施設長・大林はまるで温泉旅館の番頭のような受け答えをする。
「はい、一室だけ空いておりますね。介護認定を受けていれば、すぐにでも入所できますから。でも、その前に面接をお願いしてます」
病気になった時の対応、食事や外出の世話、そして、肝心の費用のことなど、私は矢継ぎ早に質問した。大林は丁寧に答えてくれた。ことの成り行きに戸惑いながらも、大林に礼を言った。
「ああ、ほんとに助かります。四日以内に、夫と舅が面接に伺いますのでよろしくお願いします」
「はい、はい、お待ちしています」
受話器を置き、ため息をつく。電話の田中さんは舅の夕飯を用意してくれたのだろうか。この正月、まだまだ一人でやっていけるからという舅の言葉を真に受けて、安心していた自分も迂闊だった。ここは一人息子である夫の出番だ。私は子どもたちの夕飯の支度は後回しにして、苫小牧の夫に電話した。そして一悶着の末、夫の松山行きを承諾させた。
面接と入所手続きのため、夫は二月には二度、それからは毎月一回、羽田経由で松山へ飛んだ。私は娘と二人、三か月に一度くらいの割合で新幹線を利用し義父に会いに行くようになった。
二泊三日で舅との面会を終えた夫は、律儀に経過報告の電話をしてくる。毎朝、施設に医者が来て、インシュリンの注射をしてくれるおかげでずいぶんと体調が良くなり、食欲が出てきたみたいだ──。
「キミも会っただろ、あの施設長の大林さん、どう思う」
そう言われて、私は首を傾げた。大柄で中年太りの体躯は健康そうに見えたし、人当たりも良かったので、施設長として及第点を付けていたのだが、夫の見方は違うようだった。
どうも信用出来そうにないんだけど、と言う。愛想が良すぎるんだよ。面会に行くと、にこやかに出迎えてくれるけど、何か裏があるように思えるんだ。
えっ、虐待でもするっていうの、と言うと、そういうのとも違うんだと、私の憶測を否定する。
そして、トドノツマリがこうだ。
でもまあ、あの仕事はなかなか大変な仕事だよね。誰にでも出来るというものじゃない。案外、いい人かもしれないよ。
一年後、単身赴任先が名古屋になった夫は距離が近くなったこともあり、半月ごとに、義父の面会に行けるようになった。そして大林と顔を会わせる機会も増えた。
舅の様子を知らせた後で、大林の活躍ぶりも伝えてきた。関西に新しくできる施設のスタッフの教育係に抜擢されたそうだよ。人望があるんだろうね。
一方、私は他のことが気に掛かり始めた。行く度にといっても、三か月に一度なのだが、男性スタッフが毎回替わっているのだ。舅の担当だと紹介された男性が、次に行くともういない。
姉妹施設に転属になったのか、辞めてしまったのか分からない。
舅の楽しみは、郵便局へ行ってお金を下ろすことらしい。入所当初は、スタッフと一緒に歩いて行っていたのだが、ここ数か月は足腰も弱ってしまい、最近はスタッフとタクシーで出かけるそうだ。
カードを作らなかった舅は、郵便局から帰ると、印鑑と通帳を枕の下に隠す。
ある時、大林は夫にこう告げた。
「施設では、やはり外部からいろんな方が見えますので、そのぅ、部屋に置いておく現金は二万円以内にお願いしております。出来れば、通帳や印鑑はご家族の方が保管していただけると、有り難いのですが」
分かりましたと、夫は早速、舅の部屋へ入り、
「おじいちゃん、規則なので預かっておくから、いいね」
と、枕の下に手を伸ばした。
ところが、舅はさっと顔色を変え、何をするんだ、失礼なと大声を上げ、印鑑と通帳を掴んで離さなかった。
「オヤジの唯一の楽しみを奪うのはかわいそうだ」
と夫はそのままにしておいた、と電話で報告してきた。
ところが、半月後、大林は夫に通帳を差し出してこう言った。
「これが、屑籠に捨ててありました。スタッフが見つけましたので、とりあえず私が保管しておったんです」
夫は通帳を手に取り、尋ねた。
「じゃあ、父は最近は郵便局へは行ってないんですね」
大林は愛想笑いを浮かべ、
「いやいや、実は困ってまして。毎朝、食事が済むと事務所へ来られて、ちょっと郵便局へ出かけたいからお願いしますと、じっと待っておられるんですよね」
はあ、それで、と夫は大林の次の言葉を待つ。
「朝はスタッフもいろいろ仕事を抱えておりますもので、昼から行きましょねと、説得するんですが、なかなか分かってもらえません」
「ご迷惑をおかけしているわけですね」
「いやいや、決して迷惑ではないんですがね、後で一緒に出掛けても印鑑を忘れてがっかりされることもしばしばあります」
と、大林は愛想笑いをする。
夫は少し考えてから、
「父が食事している時に、印鑑を取り替えておきます。なくしても大丈夫なように」
「それでね、親父の楽しみを奪ってもいけないと思って、通帳と印鑑を大林さんに預けておいたよ。そうすれば、安心だし、お金も好きなだけ下ろせるから」
と、夫は得意げに報告してきた。
「ちょっと待って、おかしいでしょ。いくらなんでも大林さんに両方預けるなんて、他人をそんなに信用していいの」
私は非難めいた声を上げた。しかし、夫は平然と言い放った。
「大丈夫だよ。大林さんが金庫に入れてくれたのを、ちゃんと見たんだから」
「バカみたい、他の人たちはどうしてるの」
そう尋ねると、夫は声を荒げてこう言ったのだ。
「本当にキミは疑り深いねえ。もっと、人を信用しないと。そういうとこ、キミはなってないねえ」
私は、適当に相づちを打ってから受話器を置き、すぐバンビ立花に電話を入れた。
そして、スタッフに他の入所者から印鑑と通帳をセットで預かっているかどうか尋ねた。どなたからも預かっておりませんと女性スタッフは答えた。
翌日、わたしは大林の反応を伺いながら、言葉を選んだ。
「お忙しいのに、義父の郵便局通いの付き添いなどお願いして、申し分けありません。今月末、わたしがそちらへ伺いましたときにお返し下さい。印鑑と通帳がなければ、付き添う必要もありませんでしょうから」
「分かりました、実は困っておりまして。ご主人がどうしても預かっていただきたい、そして一緒に郵便局へ行って、お金を下ろすという楽しみを奪わないで欲しいと頭を下げられましたんで、いやだとは言えませんでした」
大林はそんなイイワケを何回も繰り返したが、私はほとんど聞いていなかった。
施設長たる者が、情に流されていいのか。お金に関する限り、理不尽なことは毅然と断るのが筋というものだろう。
それにしても夫の頭の中はどうなっているのだろう。人を信用するにも程がある。金に苦労をしていない暢気坊主そのものだ。
夫の取った行動、すなわち大林に通帳と印鑑を預けたことが、やがて大林の身にささやかな悪意を呼び覚ますことになる。
義父が入所して二年の月日が流れた。その間に足腰は弱り、難聴はよりひどくなったが食欲はほとんど衰えることがなかったので、夫も私もさほど心配しなかった。個室で寝ているばかりでは退屈だろうと、面会時に電気屋を呼んでテレビを入れてもらい、ヘッドホーンも用意した。
夫も見舞いの度に大林から、丁寧な説明を聞き、安心して名古屋に戻って行った。
それから半年、夫は長かった単身赴任を終え、都内の本社に勤めるために埼玉の家に戻ってきた。
六月、日曜日の早朝、夫は大型バイクを駆って茨城へ出掛けて行った。十時を少し、回ったころ、バンビ立花の女性スタッフから、電話があった。
「今、市民病院で治療を受けています。喉に食べ物を詰まらせてしまって」
かなり慌てている様子。でも、救急車で行ったのなら安心だと私はほっと一息つく。三分後、大林の声に、私はショックを受ける。
「今、亡くなられました。ご主人の携帯は繋がりません」
「分かりました。こちらから連絡します」
夫は、電波の届かない所にいるらしい。さあ、大変だ、友子はいるだろうか、私は震える指で松山の幼友達に電話を入れた。
「まあ、久しぶり」
友子の明るい声に、私は一瞬戸惑う。
「とうとう、義父が亡くなったの。お願い出来るかしら」
「分かりました。いいお見送りが出来るようやらせて頂きます。今、どちらに」
「市民病院」
友子の口調がどんどん丁寧になっていく。「みなさんが来られるまで、ご遺体はこちらで大切にお預かりしておきますので、気を付けていらしてくださいね」
友子が嫁いだのは、立花町に旧くからある葬儀屋だった。
友子の長男は頭も良かったので三年ばかりの語学海外留学を終えて、家業の葬儀屋を継いでいる。幼い頃は食が細く、友子を心配させていたものだが、久しぶりに会うと、立派な体躯になっていた。
その長男、夫、私を交え、葬儀の段取りを打ち合わせていると、大林が大きな背中を丸めてやってきた。
舅の亡骸に手を合わせ、涙ぐんでいる。夫と私が駆け寄ると、
「ほんと、いい方でした。わたしがもっと注意をしていればこんなことにならなかったのに」
と、どこかで聞いたようなせりふを口にした。
何、それ。私は電話でことの次第を聞いていたので、大林の変にかしこまった態度に不信感を持った。舅は自ら食事を喉に詰め、静かに逝ったのだ。すぐ横で新聞を広げていた老人すら気付かなかった。状況はこうだ。
大林が食堂を右手に見ながら、廊下を進んでいった時には三人が食事をしていた。一階に二十部屋、二階に四十部屋あるのだが、大林はすべての部屋の入居者たちに朝の挨拶を済ませ、再び食堂に戻った時、顎を上げた舅を見つけたという。
大林やスタッフの不注意で、舅が死んだのではない。しかし、大林は自らを責めているという態度をこれ見よがしに繰り返す。
裏があるのだ。私や夫から、
「あなたのせいじゃない。あれは事故ですから」
そんな言葉を引き出すための演技なのではないかと、私は勘ぐった。
が、夫の反応は全く違っていた。
「あんなに悲しんでくれるなんて、大林さんは、いい人だねえ。施設長だけあって、責任感も十分にある」
あの笑みの裏に隠された大林の本性が知りたいと思う、私は間違っているのだろうか。
義父の部屋の片付けを終え、私と夫は面会室で大林と向かい合って座った。
夫が退会手続きのサインと捺印を済ませると、大林はふっと肩の力を抜いていつもの愛想を振りまきながら、こう言った。
「いやあ、あの葬儀屋の飯塚さんと親しいとは全く知りませんでした。あすこの奥さんは立花町のご意見番なんですよ。実によくしゃべる方でして。そうそう、ついこの間、親父の葬式をやってもらいましたよ」
「それは、それは、どうもご愁傷さまでした」
と、私と夫はあわてて頭を下げた。
三か月ばかり経った九月の始め、夫と次男は実家の整理のため、小型車で埼玉から四国松山へ向かった。ゴミ屋敷と化した部屋から遺品らしき物や貰い物のウイスキーの瓶を探し出しては段ボール箱に詰め込んだ。
そして、帰り際、四年ばかり世話になった大林に礼の一言でもとバンビ立花に立ち寄った。珍しく、大林の姿はなく、女性スタッフに聞くと早退したという。
「何か、ご用件でもあれば、呼んでまいりますが」
「いえいえ、父が大変お世話になりましたので、一言お礼をと思いましたが、また来ることもありますので、今日はこのまま失礼します」
と、頭を下げた。
この時、女性スタッフは大林の早退理由を知らなかった。翌日の無断欠勤で、スタッフ全員がその理由を知ることになるのだが、大林はその日を境にぷっつりと姿を隠してしまう。
『お葬式の次にすること』というタイトルの本を買ってきて、夫は仏壇を買いに走り、手探りで法要や手続きなどをこなしていった。
そんなある日のこと、バンビ立花から一通の封書が届いた。
「平素は、格別のお引き立てを賜りありがとうございます。さて、この度、当施設において、元施設長大林□□が九月五日より所在不明となり、身辺調査いたしましたところ、会社の金銭を着服横領していた事実が判明いたしました。……」
知人が犯罪者になったことに私は軽い興奮を覚えた。これまでの人生にはなかったことで夫や子供たちはただ、人は見かけでは分からないねなどと言うだけであったが、私は大林の過去が知りたくなった。
舅の葬儀を終えて、バンビ立花の面会室で大林が葬儀屋を営む友子を、「ここら辺りのご意見番」だと笑っていたのを思い出した。
葬式の礼をかねて久しぶりに友子に電話をしてみたのだが、納得できる大林の情報を手に入れた。
実家は名のある旧家で、父親は勤勉さが効を奏し、県会議員を歴任後、副議長の職にあった。一方、大林が高校に入学した頃、母親が実家の老舗旅館を継ぐため別居生活に入る。このとき、長男は父親の元に残ったが、次男である大林は大阪の母親の元で学校に通うことになる。
煙たい存在だった父親から解き離たれ、大林は学業はそっちのけで繁華街をうろつき始める。母親の女将業は思っていた以上に多忙だったが、そのうち息子が旅館の仕事を覚えてくれるだろうと頑張っていた。しかし従業員の中には大林のご機嫌を取るために、ゲームセンターやパチンコに連れ出す者もいた。旅館の金庫から時おり二、三万をくすねても、大事には至らなかった。
酒やたばこを覚え、幾度か補導されたが大林は懲りることなく、深みにはまっていった。
やがて、不況の波は老舗旅館の経営を破綻させてしまい、母親は夫に泣きつくことになる。夫はとうに現役を退いていたが、人望もあったので、次男に堅実な職を探し出してきた。それが、有料老人ホームの施設長というポストだった──。
大林は日々の仕事を黙々とこなしていったが、性根まで入れ替えることは出来なかったようだ。
もし妻子でもいれば違ったかもしれないが、面白味のない仕事に嫌気が差し、ギャンブルに手を出し始める。友達もなかったから、すった金はスタッフから借りた。
そんな時、成り行きで入所者の家族から通帳と印鑑を預かることになる。
二か月ごとに振り込まれる年金や利子、証券会社からの満期償還金は魅力ある金額だったし、長男からの送金で残高は増えていった。
大林は預かった通帳を見るのが楽しみになり、あれこれ妄想し始める。
年寄りたちのご機嫌を取るなどうんざりだ。どこか海外のリゾートホテルでおもいっきり遊んでみたい。若いホステス相手にがんがん酒も呑みたい。金だ、金が欲しい。
食べて排泄して、寝るだけの老人にこれだけの金が必要なのか。郵便局へ一緒に行く必要などさらさらないではないか。もう、すっかり耄碌した頭で何が分かるというのだ。
大林は昼休みを早めに切り上げ、事務所の金庫を開け、預かっている通帳と印鑑を自分のバッグに入れた。
明日、出勤する前に駅前の郵便局に寄ればいい。なんと愉快なこと。要は金を下ろし過ぎないことだ。あの長男がやって来て、通帳の残高を見た時、言い訳出来る範囲の金であればいい。三百万円を超す金額だ。月に四、五万の引き出しなら目立たないだろう。埼玉からの入金は三か月に一回、百万もあるのだから。
厚手のカーテンを購入した、車椅子の修理に思いのほか、金が掛かったなどなど言い訳はいくらでも出来る。
ところが、一本の電話で大林の計画は流れてしまう。何かを察したらしい長男の嫁は、迷惑をかけてもいけないから、夫が預けた物は返して欲しいと言ってきた。
ここ数日、スタッフから返金を迫られており、大林は頭を抱えていた。そうだ、会社の金が眠っているんだ、金庫の中に。
十月の声を聞いても、いっこうに涼しくなる気配はなかった。私は姪の結婚式に出るため新大阪へ向かったが、夫は喪中のため欠席となった。一人旅など、何年ぶりだろう。いつだって三人の子どもや夫と一緒で気を遣い、疲れるばかりであったから、今度の旅は嬉しい限りだ。
在来線に乗り換える前にトイレに行っておこうと、広い構内を探したが見つからない。
駅員に聞いてから、コーナーを二つ曲がり、視線の先にトイレのマークを見つけた。
が、その下に立っている男の姿に唖然となった。似ている。大きな浅黒い顔、腹の出具合いも、大林にそっくりだ。目を細めてじっと見て、やっぱりと確信した。
携帯を取り出し、バンビ立花を探しながら、警察のほうが先かなどと考える。
その時、女性用のトイレからふらっと老婆が現れたが、足元がおぼつかない様子。すかさず大林が老婆を支え、抱きかかえながらゆっくりと改札口へと歩いて行った。ふうと大きなため息とともに、私は携帯をバッグに仕舞った。
姪は相変わらず痩せていた。キレイというより痛々しい感じさえする。十二年前、父親すなわち私の兄はクモ膜下出血で倒れ、要介護となった。ところが、兄嫁は新興宗教に凝り、全国を飛び歩いてばかりだったから、姪には地獄の日々だった。昨年、兄が亡くなり、姪はやっと自分の幸せを手に入れることが出来たのである。
私は、式の間ずっと涙が止まらなかった。
たった二日家を空けただけなのに、洗濯物は山のように溜まっており、キッチンのテーブルには郵便物やダイレクトメールが積みあがっている。
やれやれと腕をさすりながら、手をのばすと姪からの絵葉書を見つけた。
「信州の小さなホテルに来ています……」
良かったねえ、幸せになってねと口に出すと、式の様子が浮かんできて涙が出てしまう。
と、背後で電話の呼び出し音が鳴り、あわてて受話器を取り上げる。
「この度はたいへんご迷惑をおかけして申し訳ありません。昨日、松山市内の知人宅に潜伏しておりました元施設長の大林の身柄が拘束されまして……」
はい、はいと頷きながら、私は新大阪駅の情景を思い起こした。
年老いた母親を労りながら、どこぞの施設か親戚まで送って行ったのだろう。逃亡生活はちょうど一か月だったが、傍目にはやつれた感じはなかった。
魔が差したというのでもない。そうなる下地が若い時分からあったのだ。
実家から持ち帰ったウイスキーは、夫の酒好きに拍車をかけ、五、六年は保つだろうと言っていたのだが、半年ほどでほとんど空けてしまった。
夫は会社の定期検診に引っかかり、慶応病院に精密検査の予約を入れた。
『短編小説「目撃者たち」他四篇』所収(2013年)
『短編小説「目撃者たち」他四篇』目次
侵略の刻
うらぎり
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目撃者たち
当てつけと腹いせ
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