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【短編】大人の時間

 駅で人が倒れていた。40代か50代かの男性。身なりはみすぼらしくもなく小綺麗でもない。横になった人間を当然のようにスルーする人ばかりの現代社会、私と30代ごろのサラリーマンだろう男性一人がその人を介抱する。
「大丈夫ですか」
 私が言った。
「ええ、いや、はいすいません」
 意識はあるようだ。足元がおぼつかない男性はモゴモゴとそう言って、なんとか座りの姿勢になった。
「ご無理せず。すぐそこに椅子があるので、そこまでいきましょうか」
 サラリーマン男はそう言って、地べたに座った人の腕に自らの肩を通した。私も反対の腕に肩を入れる。
「いきますよ、せーの」
 サラリーマン男の掛け声でなんとか持ち上げ、椅子まで運ぶ。
「ああ、すいません、すいません、ほんとに」
 ゆっくりと椅子に座らされた男性は相変わらず言葉がおぼつかず曖昧なことを呟いている。
「体調は」
 サラリーマン男が聞いた。
「ええ、いや、あの、はい」
 変わらず会話にならない。
「駅員さん呼びますか、私改札まで行ってきますよ」
 私は自分の会社用バッグを肩にかけ直して言った。すると男性は顔を不安そうに上下に揺らした。
「あ、いや、大丈夫です。大丈夫なんです」
 椅子に座った男は言った。
「そうですか。じゃあ、本当に無理せず。ぼくは行きますから」
サラリーマン男はそう言って改札階に降りて行った。私も行こうかと思った。
「負けたんです」
 残された男性は小さな声で言った。
「は?」
 私はうまく聞き取れず聞き返した。
「いや、だから、パチンコで」





「あれ、ミヤちゃん今日も来たのかい」
「ビールください、あとお腹膨れるもの適当に」
「はは、あいよ」

 1年ほど前からお気に入りで使っている、ヤマさんと呼ばれるおじいちゃんが一人で切り盛りする居酒屋。店は広くないがその分ヤマさんの愛情がいっぱい詰まった空間で、掃除も行き届いているしトイレは男女別だし、何よりどんな料理も外れない美味しさ。仕事で疲れた時に来て、ヤマさんに話を聞いてもらいながらお酒とご飯で嫌な気持ちを吹き飛ばすのだ。今日はちょうど他のお客がいないタイミングだったようだ。
 うすはりグラスで来たビール。いつ頼んでも液体と泡の割合が完璧で惚れ惚れする。
「ちょっと、ヤマさんも飲んでよ」
 私はグラスを掲げて言った。
「今日はお疲れみたいだな」
 そう言って、ヤマさんは自分のビールも注いだ。うすはりグラスはグラス同士をぶつけ合うと怖いので、互いに軽く持ち上げるだけで乾杯をする。
「うわあ美味しっ」
私は思わず仰け反りながらビールを一気に半分飲んだ。
「いつでもうまそうに飲むなミヤちゃんは」
ヤマさんはそう言って、漬物を出してくれた。きゅうり、大根、なす。丁寧に漬けられたそれはドライなビールとぴったりな濃さで気に入っている。
「ホームレスの人たちの、行動の優先順位が許せない」
「いきなり鋭い話題だな」
「全員が全員そうってワケじゃないのよ、いろんな理由があってホームレスになっているんだから。でもたまに、いや結構見るじゃない、身なりが整ってないのに手元にはお酒とつまみがある人。そうじゃないじゃん。お酒買うお金ゲットしたんだったらまず新しい服買いなよ。銭湯行って体綺麗にしなよ。あんなに汚らしかったら助けたくても誰も近寄らないよ」
 ときどき私はこうやって、どうしようもない社会の課題を誰かに愚痴りたくなる。
 偉い人間になりたいわけじゃない。身を投げ打って日本中の困っている人を助けたいとか、ボランティアで課題解決の一助になりたいとか、そんな大義名分は特になく、でも生きてりゃ人並みに抱える正義感みたいなものがどうして私をイライラさせる。別に、ホームレスの人の身なりが綺麗になったとて私が彼らに直接的な救いの手を差し伸べることはないだろう。毎週公園に行ってハンバーガーを配り、社会復帰への架け橋になろうだなんてアメリカンなアイデアもあり得ない。ただ心が勝手にモヤモヤして、それをヤマさんにぶつける。
 カウンター越しに見えるヤマさんは黙々と野菜を切っている。ヤマさんはこうやって、明確な反応を返すことはほとんどない。私がそれを必要としていないことを理解しているからだ。ただ誰かにどうでもいいことを話したい。この話の解決策を見つけるのではなく、共感するわけでもなく、ただ聞き手になる。それを当たり前にやってのけるのは、長いこと客商売を真摯にやってきたヤマさんの力だと思う。
 適当な会話をポツポツとし、やがて厨房から小気味いい炒める音がしてくる。ごま油と豚肉の香りが一気に押し寄せ食欲を誘う。ちょっとしたところでヤマさんはこちらに小さい刺身盛りを出す。マグロ、イカ、アジ、タコ。どれも鮮度が良く、ヤマさんがお店で使っている福岡の醤油がよく合う。
「最近はさ、寛容さが足りてないと思うのよ。10年前とかはみんな心に余裕があってさ、ちょっとしたことなら“まあ仕方ないか”とか言って目を瞑ってくれたじゃない。それが今は何、もうあれがダメこれがダメ、あれが欲しいこれが欲しいって。全て自分の求める通りに物事がいくわけないじゃない、周りの人や環境を見て少し妥協して、お互い様だからって曖昧なところで許されていたのに。今はなんでも白黒、良い悪い、って勘弁してよほんと」
「難しいなあ、正しさを求めることは正しいことなんだけどな、でも息苦しくなることもある」
ヤマさんは言った。
「珍しいね、ヤマさんが意見言うなんて」
私は言った。
「俺はもう年寄りだからさ、変わってく時代に置いてかれそうで必死だけど」
音は豪快に、でも鍋を振るうヤマさんの手はとても丁寧で私はそれをぼんやり見ていた。
「良いんだよ、ミヤちゃんは良い子なんだから思った通りに生きればいい」
 もう良い子と言われるような年齢でもないから、照れくさい気持ちになる。でも、その言葉が温かくて嬉しかった。
「思った通りかぁ。難しいこと言うね、ヤマさんは」

 カラン、カラン。鍋をなでる音がして、料理が目の前に置かれた。
「お待たせ、はい焼きうどん」
 そう言ってヤマさんはビールを口につけた。ヤマさんは私にうまそうに飲むと言うけど、ヤマさんの方がかなり美味しそうに飲んでいるといつも思う。
「いただきます」
 焼きうどんの上でゆらゆらと揺れる鰹節はまるで私を誘っているようで、もはや官能的かんのうてきにすら見える。漬物も刺身も食べたのにさらにお腹が減るようだ。一口食べると、醤油の豊かな風味が口いっぱいに広がる。丁寧にカットされた野菜は口当たりがよく、それぞれの食感を存分に楽しめる。豚肉は、ヤマさんのこだわりで豚バラブロックをやや薄めに切ったもの。普通の豚バラ肉やロース肉より肉肉しさがあって嬉しい。
「いつ食べても美味しい」
私はちょっと汚いとわかってたが咀嚼しながら言った。
「知ってるよ」
表情を変えずにヤマさんは言った。
「うちではうまいもの食べて、うまい酒飲んで、どうでも良い時間を過ごせばそれでいいんだ」
至極単純で、優しさに溢れたこのお店が私は大好きだ。多分また、疲れた時にふらっとやってきて、美味しいご飯を食べて、ビールを飲んで、3日経てば忘れるような愚痴をこぼす。
「そういえばさあ、この前駅のホームで倒れてる人いたのよ」
「ほお」

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