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【短編】Woman in the mirror

   植野知里うえのちさとの家族は3つ上の兄の慧斗けいとと母の知慧ちえの3人家族だった。父は、小さい頃に出て行った。理由は知らない。知慧曰く、どうしようもない人だったと。慧斗曰く、父は英雄であったと。知里は知ろうともしなかった。知る必要がなかった、知慧は一生懸命働いて、子ども2人にこの社会を生きる術を、できるだけ教えた。そしてそれは、客観的にうまくいった。慧斗は中学でも高校でも優秀な成績だった。器用なタイプではなかったけど、人一倍努力しようとしたし、その努力をちゃんと形に出来る人間でもあった。知里は要領の良い娘だった。スポーツも勉強も、効率良く取り組んで周りから羨ましがられるようだった。
 知慧は3人で出かけることを好んだ。公園、スーパー、ショッピングモール、キャンプ。いろんなところへ3人で行った。知里もそれが大好きだった。優しい兄と、包み込むような温かさを持つ母。幸せだった。決して裕福ではなかったけど、3人は確かに過ぎてゆく一瞬の連続を、幸福で覆い尽くした。

 知慧は出かけるときに決まってやることがあった。線路にものを投げ入れるのだ。決して危ないものやぶつかったら大変なことになる重機器などではない。例えば空いたペットボトル。例えば鼻をかんだティッシュ。例えば読み終わった雑誌の切れ端。例えば限界まで使ったリップスティック。そういうものを、電車が来ないときに何も言わず突然線路に放る。知里はそれを見ていた。慧斗もそれを見ていた。ホームにいる周りの人は、驚くにしてもわざわざ直接注意をしようとする人はいなかった。ただ、その場にいる人達がそれを見ていた。知里は母の行動に対して質問をしたりはしない。知慧のそれはおかしな行動だと、社会のルールから明らかに逸脱したものだと理解している。理解しているがはみ出た世界の母がすることは、なぜか至極真っ当なことにも感じた。だから、知慧が線路にものを放るのをただ見つめるだけして、何もしない。何もしないのだ。
「夜、何食べよっか」知慧は言った。
隣に立っていた慧斗はスマホから目を離そうとせず、けれど確かな意志を持って答えた。
「ハンバーグ」
「知里は」
知里は用意されていたかのように自然な、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「私もちょうどハンバーグを食べたかったんだ」
「わかった、じゃあ今日はハンバーグね」
そう言って、この日も知慧はジュースの空き缶を線路に投げた。

 夜、食卓には知慧の愛で溢れたハンバーグが並んだ。プチトマトと海藻かいそうを混ぜたサラダと、昆布だしを丁寧にとったじゃがいもの味噌汁、五穀米、安くなっていたカツオの刺身。ラインナップの協調性はさておき、栄養バランスを考えた知慧の優しい料理。
「今日で、3人で食べるの最後ね。慧斗」
「ただ一人暮らしするだけだから、別にこれが最後ってわけじゃない」
慧斗はいつの日からかテーブルに持ち込むようになったタブレットから目を離さずに言った。知里は少し寂しそうに2人を見た。
「にいちゃんがいなくなるのは、ちょっと寂しいな。でも家が広くなるから楽しみでもあるんだけど」
「ちゃんと荷物はまとめたの、お母さん仕事で手伝ってあげられないんだから今日のうちに確認しておきなさいよ」
「おう」

 慧斗はまるで何事もなかったように家を出て、大人になった。やがて知里もその時が来て、家を出た。知慧と2人で過ごした日々はとてもゆっくりと時が流れて、でも確実に時間の潮流ちょうりゅうに乗った知里は先へ先へと進んだ。1人暮らし用の冷蔵庫を見に行った帰り、知慧は飲み干した緑茶のペットボトルを線路に投げた。知里はそれをぼんやりとした目で追いかけた。雑に投げられたそれは綺麗な弧を描くことはなく、宙で行き場をなくした居た堪れなさを抱いて線路に沈んだ。地面との接触で剥がれたラベルは、何かを乞うように天へと伸びたが、すぐに萎れる。知里は隣に立つ母の顔を見た。知慧はいつも通り、何も変わらない表情でただ自分より低い位置にあるモノを見つめていた。
「もう、終わりね」

 ふと聞こえた声は、きっと知慧から発せられたものだったが、知里は何も反応しなかった。いつも通り、何も起こってないようにただその場に存在していた。



 知里は5年振りに慧斗と会った。仕事帰り、JRから地下鉄に乗り換える道すがら、知らない番号から電話がかかってきた。どうやら今神戸で仕事をしていて、出張でこちらにきているようだった。知里は懐かしさで胸がいっぱいになった。
『ご飯に行こう、美味しいところを知っているんだ』
初めて兄妹で酒を飲む、という体験をした。それはドラマや漫画で見るような感動的なものではなく、ただ今までしたことがなかったことをたった今したのだという認識を飲み込んだだけの瞬間であった。
アラカルトで頼んで、前菜をあらかた口に運んだ時慧斗が知里をみた。
「俺は母さんと縁を切ろうと思ってる」
突然の展開に知里は驚いた。でもそれは「エッ」とか声が出るようなことではなくて、ただ心がぴくりとして、次第にざわざわと揺れ出した。
「どうして」
「母さんは完璧●●だったよ」
「何の話」
「何でもさ。しつけ、教育、料理、何でもさ。おかげで俺はひとり親家庭だったことにマイナスの気持ちを持つことは決してなかった。決して」
「そう、でもそれならなんで」
「母さんが母さんじゃなくなる時がある」
「それってどういうこと」
「そのままだよ。別に、母が母であることと、植野知慧うえのちえという女であることは同時並行的に実在するし、そういうことを咎めているわけじゃない。母が女になる瞬間だって、必ずあるだろうしあっていいんだと思う」
「そういう話をしているの?」
「違う、そういう話をしているんじゃないということを言いたいんだ」
「わかった。じゃあ、尚更どうして」
線路にものを投げること●●●●●●●●●●●」慧斗は言った。
「母さんが線路にものを投げるのが、俺はずっと嫌だった」
知里は慧斗の顔を見ながら酒を空にした。一杯目で頼んだシェリー酒は口に合わなくて、別のものを頼みたくなった。手を挙げて店員を呼ぶ。
「兄さん、どれにする」
「ワインにしよう、これがいい」
よく冷やされた白ワインはフランスの銘柄で、トロッとした舌触りと鼻に抜けるややスモーキーな香りが楽しい一杯だった。知里が兄の分を、慧斗が妹の分を注ぐ。チィン、と小気味よい音が響いて、2人は同時にグラスを口に運んだ。元の角度に戻ったグラスをゆらゆらと揺らして、慧斗はワインを香る。
「俺は、ずっと母さんにやめてくれって言ってたんだ、頼むよ、線路にものを投げないでくれ、って。ものがわからない幼児に話しかけるようにさ、何度も、何度も。母さんは、何でも話をよく聞いてくれた。そういうところが好きだった。でも、俺がその話をするといつも無視して、ゆっくりと酒を飲むんだ。ゆっくりと、ゆっくりと。それで、俺が何を言っても無駄だと思うと同時に酒を飲むのを止める。例えグラスになみなみと酒が残っていても、それを飲むことはないんだ」
「そうだったのね」
「お前はいつもそうだ。のらりくらりその場で一番楽な居場所を見つけてそこにさっと行く。母さんがペットボトルを線路に投げる時、口紅を投げる時、空になった錠剤のケースを投げる時。お前はただそれを見つめて、それで終わりだった」
「うん」
慧斗は決して怒っていなかった。ただ、言葉が彼の体の中から勝手に溢れて、それにストップをかけるつもりもないだけだった。
「あの瞬間、母さんがどんな顔をしていたかお前、見たことあるか。俺はいつも見ていたよ。いつも、いつも、いつも」
「3人で最後だった日も?」知里は聞いた。
「そうだ、3人で最後だった日も」慧斗は呟いた。
「あの日何を食べたか、どこに行ったか、どんな会話をしたかなんて全く覚えていないよ、本当だ。ミジンも覚えていない。でも、線路にものを放った母さんの顔ははっきりと覚えている」
いつの間にか運ばれていたメインディッシュは、もう湯気が立たなくなっていた。グラスの中身ばかり減っていて、知里はその都度慧斗と自分自身に注ぎ足した。
「どんな顔をしていたの」
「綺麗な女性の顔さ」慧斗は笑ってそう言った。
知里は冷めた料理を食べた。冷めたって美味しかった。でも、熱々のそれを食べるべきだったとも思った。
「それってつまり、どういう顔なのよ」
「いろんなことから、一瞬だけ解放されてたんだ、彼女は」
「解放か」
「そう、解き放たれて、自由にトぶんだ」
「一瞬だけ」
「そうだ、投げたものが地面についたらもう、終わり」
「本当に一瞬だね」
慧斗は、冷め切った料理に手をつけようとしなかった。その代わりなのか、ワインをあっという間に飲み干しては知里に注がせた。
「きっとそれが」慧斗は独り言のように小さく言葉をこぼした。
「それが、何」
「いや、何でもない」
しばらく2人は黙っていた。黙っている間も、知里は飯を食べ、慧斗はひたすらワインを飲んだ。

 会計を済ませ、店を出る。慧斗は国道沿いの道を指した。
「俺、ホテルこっちだから」
「私と反対だね」知里は真反対を指さした。
「会えてよかったよ、またな」慧斗はジャケットを羽織って振り返った。
「兄さん」知里が声をかける。
「おう」
「あの白ワインさ」
「なんだ」
「いえ、なんでもない。本当にもう母さんと会わないの」
「葬式は行くよ」
そう言って歩き出した慧斗を、知里は黙って見送った。ずっと見送って、やがて慧斗が見えなくなったあと、知里は1人、歩き出した。
「あのワイン、母さんが1人で酒を飲む時によく飲んでたやつだよなぁ」


 知里は結婚して子どもを2人産んだ。女の子と男の子。客観的に幸せな家庭だった。知里は3人でよく出かけた。3人で出かけることが好きだった。
「帰ろっか」
知里はそう言って、線路に空のペットボトルを放った。子どもたちは、何も言わなかった。

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