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職業論vsビジネス論 10 労働価値説というフィクション

 前回はストック(資産)の重要性を書いたけど、この資産の膨張(資本)が経済を破壊すると言って、煽ったのがカール・マルクスである。彼はまず古典派経済学(スミス、リカード)の労働価値説を前提にヘーゲル的弁証法を駆使して論理展開していく。労働は価値を生み、自己疎外されて商品へと転化していく(交換価値、使用価値、剰余価値、市場価値、希少価値、オークション価値)という価値論から出発する。

 まずは価値論から、商品への転化、これが資本へと変化していく現象を、ヘーゲルが展開した、意識(自己意識)から、他者の意識との矛盾を媒介にして、より高次の理性へと、成長発展し、主観と客観は統一されて精神から絶対知へと至ると述べる。より高次の理性への成長発展を描いていくわけだが(精神現象学、意識の成長と発展の学)最後は矛盾と否定に媒介されながら、絶対知に辿り着くという、「壮大なフィクション」を描いてるのだが、多くの具体論の分析も交えながら展開したので、理論好きの学生はこの弁証法の展開に皆、平伏してしまう。ただこの意識の措定そのものがヘーゲルの仮説であり、自己意識という架空の概念による、壮大なフィクションの伽藍を作り上げてしまう。

 このヘーゲルに学んだマルクスも、これにヒントを得て弁証法のレトリックを駆使していく。古典派が築いた「労働価値説」を出発点に価値論から論じ、労働価値が疎外され、数値化(貨幣化)されて商品に転化し、商品社会、市場社会を形成していくと論じた。ただヘーゲルが意識というフィクションから出発して、砂状の楼閣を築いたように、マルクスも労働価値説というフィクションから出発して、「資本論」という壮大な神話を築いてしまう。そもそも古典派(スミス、リカード)が主張した「労働価値説」が神話でありフィクションだったのだ。

 マルクスはヘーゲルに倣って、多くの具体的な現象を分析しながら論理展開していったので、具体性に弱く経験が少ない学者たちやインテリたちは、それだけで感嘆し、平伏してしまって、いまだにこの神話(フィクション)を元に、現代社会に挑もうとして延々と失敗を繰り返してしまう。まるで風車に向かうドンキホーテのようだよね。

 労働価値説は、労働のみが価値の源泉であるという主張から始まる。マルクスによれば疎外されて商品に転化するといい、スミス・リカードによれば、使用価値、交換価値に転化していくという素朴な議論が展開される。
 商品に転化する中で数値化(デジタル化)されて価格が設定され、交換価値に転化していくという訳だ。この過程でマルクスは剰余価値論を展開するし、商品で溢れかえる社会を客観的に描き、スミスは市場(マーケット)の存在を論証していく。

 そもそも、労働価値説が神話でありフィクションなので、経済学はマル経(共産主義・社会主義)も近経(近代経済学)も神話とフィクションの展開になってしまう。この労働価値説を検証することから出発すべきなのだが、それを振り返れない学者たちは、いまだに理論の中を、何の当てもなく彷徨ってるのが現状なのだ。(予測も分析も思いつきに過ぎないので、結果ハズレまくってしまう)。現実論としてはケインズの様な「貨幣論」から出発し、需要と供給、利子と雇用を論じた「雇用・利子、貨幣の一般理論」があるが、この流れでも、学者やインテリの虚弱な体験の無さと分析力の無さで、いまだに現代社会にはまるで通用しない、感想文と処方箋に終わってしまってる(ちなみに、この職業論とビジネス論はそれを補充していこうという試みでもある)

 マルクスに戻ると、労働価値、商品、剰余価値、貨幣、資本、蓄積(ここまでは宇野弘蔵の原理論が詳しい)という概念展開は、何度もいうが、労働価値説そのものが間違ってるので、学者やインテリは平伏してしまうが、多くの人々に違和感を与えてしまうし、不可解な結論を撒き散らす事になってる。これはマルクスの時からそうで、剰余価値と搾取、階級、革命論、レーニンに至っては前衛論、毛沢東は矛盾論と、実践家や政治家たちの雑な議論に収束してしまい、多くの戦争と死者を生み出すという結果を生んでしまった。つまりマルクスの理論は多くの学者やインテリを平伏させ、彼らに信奉されたが、反論される事もなく、最後は現実の歴史的展開によって否定されていくのだ。結果今は、ヘーゲル哲学と同様、古典としての「資本論」と「精神現象学」というテキストとなっている。その結果、「共産主義」は壮大なフィクションであり、理想論・観念論であったと認定されていくことになる。

 そもそも、哲学と経済学は、優秀なユダヤ人とアングロサクソンとゲルマンによって展開された、仮説の累積であり(宗教もユダヤ人が産んだ神話が元になっている)フィクションの歴史であって、ようやく20世紀に入って、フィクションから目覚めていく事になる。ケインズもそうだし、サムエルソンやクルーグマンもそういう人たちだ。労働に価値があるのではなく、労働によって生み出される、食料や作品や生産物によって、豊かな生活を営む人生と、人間と動物たちの共生と物語に価値があるのである。逆立ちしてる労働価値説の、幻想と催眠から目覚める事が大事だ

資本論は多くのインテリや学者を魅了して、今でもその呪縛から逃れられない人が多い。
 最後にドヤ顔で展開される「三位一体」説の否定。資本が利潤を生み、土地が地代を生み、労働が価値を生むという古典派を批判して、労働だけが価値を生みだすのであり、だからこそ資本は剰余価値という搾取の源泉を手に入れ、土地は地代という搾取を生んでいるだけだと主張したマルクスだが、労働もまた価値を生むわけではないし、そもそもそこが古典派の思い込みだったのだ。そこから剰余価値を導いたマルクスの誤謬は、この古典派に由来している。

 例えば、大谷の50号で打った、ホームランボールはなぜ6億6千万の価値を生むのか?NVIDIAの価値はなぜ520兆円なのか?労働価値説の信奉者は、この世界と現実を認めようとしないし、為替も株式市場もオークションも理解したくないのが現状だ。全ては資本主義という悪魔の所業であり、何となく肯定しながら、悪魔を撃退したいし、神の世を実現したいと祈り続ける信者として存在し続ける。 いつの日か終末が訪れ、彼らだけが方舟で生き延びるだろうと思い込み「終末論者」として環境を論じ、経済と社会をネガティブに論じ続けている。
 これを多くの人は、リベラリズムと呼んで、憐れみを持って見守っている

 以下次号


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