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[短編小説]素顔を晒して

 ***

 ――目が覚めたら、そこは不思議な国でした。

 ファンタジー要素を伴なう童話によくありがちな、物語の始まり方。

 何度も何度も読み触れて来た決まり文句ながら、見知らぬ土地に立った主人公の身に何が起こるのだろうと、早くページを捲りたいという衝動に駆られるものだ。
 古今東西ありとあらゆるファンタジーに触れ、そのことを嬉々と語る私は、「清美って、ほんと本好きだよね」と周りから言われることが多い。実際その通りだと思っている。自分でも度が付くほどの本好きだと認めている私は、まだ大人の年齢に至っていないことをいいことに、よくファンタジーの世界に行くことを夢見ていた。いわゆる異世界転移というものに、恋焦がれていた。

「だけど、本当に起こるなんて思わないよ……」

 いくら夢見ていたとはいえ、あまりにも現実離れした景色を目の前にしてしまうと、私の身も心も竦む。夢は遠くから見ているからこそ楽しいのだと、現実を突きつけられた気分だ。

 見渡せど見渡せど、見える景色は樹海。不安を駆り立たせる動物の鳴き声、背筋を凍てつかせるような不穏な空気。

「不思議すぎるでしょ、流石に」

 余裕を持ったような独り言に聞こえるかもしれないけれど、私の胸中は穏やかではない。
 このまま樹海に放置されたら、私の命はすぐに尽きてしまう。

 今まで触れて来たファンタジーノベルの知識を総動員した。だけど、ダメだ。どの知識を使おうとしたところで、空想は空想。私に特殊能力があるわけでもないし、奇跡的に突破口を見出せるわけでもない。すべて現実的ではなかった。

 太陽を見ようとするも、生憎の曇り空。大方の方角が分かれば、この樹海から抜ける道しるべになったのかもしれないのに、この方法も潰れた。

 転移したのもどうやら着の身着のままで、今の私は何も持っていない。

「あれ、これ詰んだ……?」

 あらゆる可能性を考慮しても、この樹海から抜け出す方法を見出すことが出来なかった。

 どうしよう。私にはまだやりたいことがたくさんあるのに。

「君、大丈夫かい?」
「ひっ」

 思わずカエルの鳴くような鈍い声が、私の口から漏れた。

 顔を包帯でグルグル巻きにした人物が、私の前にいたからだ。その声色から男性だということが窺えた。

 包帯男は、苦笑を交えながら頬を掻く。

「僕を見た人は、みんな同じ反応をするんだ。でも、このままでいることを許してほしい。この国で、僕の顔は異物そのもの。顔を晒せば、国中から忌み嫌われるようになってしまうからね」
「は、はぁ」

 私は頷くことしか出来なかった。ここにいる理由も頭の中で整理が付いていないのに、包帯男の事情を慮る余裕などない。

 先ほどまで樹海を抜け出すことだけが問題だったのに、目の前にいる包帯男が敵か味方かという問題まで生じてしまった。

「ついてきて。君の世界まで案内するよ」
「私の世界って……、あなたは何を知ってるんですか?」

 私にとってまだ敵かどうかも判断していないというのに、包帯男から発せられた言葉がまさに蜘蛛の糸そのものに感じられ、私は無心に縋りついた。
 一方、私の縋りつく心境に反して、包帯男はやんわりと首を横に振った。

「期待しているところ申し訳ないけれど、僕も詳しくないんだ。だけど、君みたいな人に出会うことが多くて、そういう人達から話を聞いたところ、僕が住む世界とは違う世界があることを分かったんだ」
「ああ、そういうことですか」
「それで、この国に古くから残ってる禁忌を元に考えると、君の世界に戻るためにはこの樹海を抜けて僕らの住む町にある神殿に行く必要がある」
「禁忌?」

 その言葉に心臓が跳ね上がったのを感じた。危険が伴なうから禁忌として扱われているのではないか。
 しかし、私の心配をよそに、包帯男はまるで既に見て来たかのように確信を伴なって言う。

「ざっくり説明すると、他とは違う世界に迷い込んでしまうから、神殿の奥に足を踏み入れてはならないとされているんだ」
「なんだ、別世界から来た私にはピッタリな条件ですね」

 禁忌と言われたから身構えてしまったが、さすが異世界だ。こういうところは、ご都合主義に感じられる。帰る方法があることに、胸をホッと撫で下ろした。

 だけど、私の楽観的な希望は、次に語る包帯男の言葉によって容易く打ち砕かれてしまう。

「そう簡単に事は進まなくてね。手順を間違えてしまうと、異空間に閉じ込められてしまうんだ。異空間に閉じ込められた者は、この世界にも新しい世界にも行けなくなってしまう」
「つまり、実質的に死ぬってこと……?」

 包帯男は静かに頷いた。

「しかも、その詳しい手順も知らないと来ている。わざわざ禁忌を犯してまで異なる世界に行こうとする者はいないからね。利点があるのは、君みたいに異なる世界からやって来た者だけだ」

 禁忌に足を踏み入れたことで、もしも自分の身に何か起こったらと考えると、前に進む足が竦んでしまう。

「どうしようか? もちろん無理強いはしないけれど」

 あくまで包帯男は、選択を私に委ねようとしてくれている。

 暫し私は考える。
 考えた結果、仮にここで包帯男の言葉を無視してもこの広大な樹海の中を一人で生き抜く自信はない、という当たり前の事実に至った。

 選択肢が何もない私は、

「分かりました。ついて行きます」
「ありがとう」

 と、包帯男の後に従うことにした。

 ***

「着いたよ、キヨミ」
「ありがとうございます、デイジーさん」

 長く深い樹海を抜けると、私の眼前には大きな壁が聳え立っていた。この世界に来てから三日ほど経ったけれど、人工物を見るのはこれが初めてだった。ファンタジーの世界ではよく見る建築物に、場違いにも私の心は少しだけ跳ね上がった。

 ちなみに、デイジーさんというのは包帯男の呼び名ではあるけれど、本名ではない。三日三晩を共にしたけれど、本名は分からないままだった。と言うのも、互いに名前を知らないと不便だろうと思い、自己紹介をした時に「僕に名前はないよ」とやんわりと言われてしまったのだった。

 よほど私は驚いた表情を浮かべていたのだろう、

「名前っていうか、記憶がないんだ。気付けばこの町にいてね。樹海に迷う人を助けることを使命のように思うようになってた」

 不思議な話だったけれど、この世界ではよくあることなのかなと思った。

 名前を呼べないことは不便だと思い、包帯の英訳でもあるバンデージの一部を取って「じゃあ、デイジーさんって呼んでいいですか?」と聞いてみると、「良い名前だね、ありがとう」と快諾してくれた。
 それからデイジーさんと呼ぶことが定着したのだった。

 デイジーさんは包帯グルグル巻きの見た目に対して、紳士的な人だった。樹海の中で出会ったのがデイジーさんでなければ、何事もなくここまで辿り着くことは出来なかっただろう。

「あ、そうだ。キヨミに一つ言わなければいけないことがある」

 門に掛けていた手を止めて、デイジーさんが私を振り返った。「何でしょうか?」と、先を促す。

「ここでは、他の者と目を合わせてはいけないよ」
「目?」
「身内同士では起こりえないことだけれど、この国に住む者は、他種族に対する思い入れがない。目を合わせた者を、獲物と認識して、彼らの満足がいくまでに襲い掛かる」

 デイジーさんの話を聞いて、ゾッと震え上がった。獣に近い習性を持っているのだろうか。「や、野蛮な人種なんですね」と言うことしか出来なかった。頬が引き攣るのが、自分でも分かった。「そうだね」と、デイジーさんが首肯した後、

「あと、この世界では光り輝く物が高価とされているんだ。キヨミみたいな種族のキラキラとした瞳は、まさに高価に取引されてしまう」
「鏡、ってないんですか?」

 ふと気になった疑問を言葉にしてみた。

「かがみ?」
「自分の姿を客観的に見るための道具、って言うのかな。そういうのってないんですか?」

 もし鏡があれば、光り輝く物に対する価値基準も薄れるだろうし、相手も自分と同じく生きている者だという実感が湧いて、そんな野蛮な行動は起こらないのではないだろうか。

 あと、今の私がどれだけ汚れて疲れた顔をしているのか、単純に知りたい。

「うん、ないよ」

 私の疑問は容易く否定されてしまった。

「この国の判断基準は、他人だ。他人から見て相応しいかどうかが、全ての基準になっている。だから、多くの銀貨の中に銅貨が一枚混ざっていたら弾かれるように、周りから浮いた物はすぐさま敵と見なされてしまう。そんな世界だからこそ、包帯の下の素顔を白日にさらすのは、僕自身も恐れていることなんだ」

 デイジーさんは苦笑しながら言う。

「さぁ、そろそろ行こう。ひとまず僕の背中について来て」

 扉を開けたデイジーさんに、私はついて行くことにした。

 中に入った先に広がるのは、これまた外観に相応しいファンタジー然とした街並みだった。
 露店も充実していて、多くの人が交流をしている。

 そして、奥の中心部に聳え立っている一際異彩を放っている建物が、神殿なのだろう。樹海の中でデイジーさんが話してくれていたように、十分ほど真っ直ぐに進めば辿り着けそうだ。

 見た感じ、ちゃんとした文化が広がっていた。
 日本には相応しくないかもしれないけれど、海外であれば十分に存在しそうな風景だ。

 ――ただ一つを除いては。

「……人がいない」

 デイジーさんの背格好は、人の形をしている。

 だから、この世界に住む人を想像する時は、あくまでも人としての形状で考えていた。野蛮という話を聞いても、人間としての範疇を超えることは一度もなかった。

 だけど、ここに生きる者は、人とは全く異なる異形そのもの――むしろ怪物と恐れられるような見た目をしていた。二足歩行以外の共通点は、存在しない。

 自分の考えの甘さを痛感した。
 私はどこかで期待していて、私にとって都合の良い演出を頭の中で描いていた。都合の悪い可能性は、目を瞑って考えようともしなかった。

 目を背けていた現実と向き合ったことで、私の心は乱されている。

「大丈夫?」

 私を気遣ってくれる声が、微かに耳を捉えた。私は小さく頷くことしか出来なかった。先を進むデイジーさんの後を、恐る恐るついて行く。

 往来のど真ん中を進むにつれて、だんだんと好奇の目に晒されているような感覚を味わう。その好奇の目を一身に浴びていると、恐怖心が募り出していく。

 蛇のような鋭い眼光、虎のような獰猛な牙。生身の人間ではあり得ない特徴。少しでも足を止めれば、私はたちまちこの化け物達に殺されてしまうのではないか。

 妄想と呼び捨てるにはあまりにも現実感を伴なった空想が、更なる恐怖心を増幅させていく。

 そして、その恐怖心の終着点は――。

「着いたよ。ここが神殿だ」

 神殿の前に構えている石像は、異形そのものだった。

「禁忌によると、神殿の奥の祭壇に異世界へと通じる道が存在しているみたいだ」

 デイジーさんが指さしながら案内してくれる。初めて会った時から見えない顔。その包帯の奥の素顔はどうなっているんだろう。私は、想像する。想像してしまう。

「ここまで来れば、もう少しだ。きっと帰れる……いや、帰らせてみせる」

 ここ数日で聞き慣れた少しくぐもった優しい声。なのに、私の脳裏に浮かんだ彼の姿は、この町に住む者以上の化け物だった。古今東西の小説や絵画に出て来た怪物の特徴の、禍々しい部分を掛け合わさっている。

 そもそもデイジーさん自身が言っていたではないか。

『この国で、僕の顔は異物そのもの。顔を晒せば、国中から忌み嫌われるようになってしまう』

 デイジーさんの言葉を、文字通りに紐解けば、彼の顔は化け物そのものという裏付けだ。

 恐怖心が拭えなかった。
 どう自分に言い聞かせても、心の中の嫌悪感が湧き出しては、私に纏わりつく。

 決壊してしまったダムの水は収拾がつかないように、思考の流れは止まらない。

「だから、大丈夫だよ。安心して僕に付いて来てほしい」

 それに、だ。

 この先の神殿に待つ現世へと帰る方法は、この国では禁忌として伝わっている。

 帰れる希望を抱いていたけれど、少し冷静に考えればリスクしか伴なっていないことは明らかだ。
 リスクという考えに思い至ったら、もうダメだった。

 何も疑うことなく後について来た私は、今や心の外に追いやられている。

「……キヨミ?」

 何も言葉を発さずに立ち尽くす私を気遣うように、デイジーさんは振り返った。

 包帯の奥の顔は見えなくて、やはり信じることは到底叶わない。目の前にいる人物こそ、私の全てを奪おうとする怪物かもしれない。

「ごめんなさい。やっぱり私はついて行くことが出来ません」

 私は頭を下げた。「え?」と、デイジーさんは心底不思議がるように声を漏らした。少しだけ良心の呵責を感じたけれど、それも心を許させるための作戦だと、強く言い聞かせる。許して神殿に踏み入れた瞬間、私は命を奪われてしまうのだ。

「でも、ここまで案内してくださって本当に嬉しかったです。ありがとうございました」
「あ、ちょっ」

 私はデイジーさんの制止を無視して、神殿とは正反対の方向へと必死に逃げた。

 来た道を必死に駆け抜けると、デイジーさんとは違って、目に見えて分かる化け物然とした者達が、私のことをジッと見つめていた。足を止めたら殺されると思って、私は更に走るスピードを上げた。

 樹海からここまでせっかく案内してもらったのに逃げる形になってしまって、申し訳のなさもある。
 それでも私は自分の命を優先したかった。この世界を脱する方法は分からないけれど、全ては命あってこそだ。命尽きれば、そこで何もかもが終わってしまう。

 だから、逃げる。逃げて、逃げて、逃げ切らないと、私は帰れなくなる。
 こんなところで死にたくない。
 もっと美味しいものを食べたいし、もっと色んな物語を読みたい。なんなら私自身の手で物語も書き綴ってみたい。

 私には現世に帰ってやってみたいことがたくさんあった。

 ***

 生きるために逃げたはずなのに、私は真逆の立ち位置に晒されている。

 誰も見向きもしないような薄暗い路地裏で、六人の人外の姿をした怪物に囲まれていた。

「な、なんですか?」

 答えなんて決まり切っていると分かりながら、私は彼らに向けて質問を投げかけた。
 しかし、怪物達から返事は帰って来ない。互いに視線を交わし合いながら、化け物然とした顔に冷笑を刻ませるだけだ。

 身の毛もよだつような恐怖心が私を嬲る。

 どうしてこうなってしまったのだろう。
 デイジーさんを信じられなくなった私は、彼の前から一目散に逃げ出した。もう少しでこの町から抜け出せると言ったタイミングで、何もなかった路地裏から腕がニョキっと伸びて来て掴まれた。

 伸びた腕に抗えないまま連れて行かれた先が、今ここという訳だ。

「……このことだったんだ」

 この町に入った時、『住民と目を合わせたら、獲物として認識されるようになる』とデイジーさんは私に忠告していた。

 いつ目が合ってしまったのだろう。逃げた時? いや、デイジーさんと別れてからは、一刻も早くこの場所から離れるため、脇目も振らずにただただ走った。誰とも目を合わせなかったはずだ。

 自問自答しながら、実は私は心の中で明確に答えを導き出していた。

 私はデイジーさんの背中についていきながら、ずっと周りのことばかりを気にしていた。恐怖心を抱きながらも、内から湧き出る好奇心に抗うことが出来ず、私は彼らの様子を盗み見ていた。
 その時、蛇のような獰猛な視線と交錯してしまったのだ。

 実際、目の前にいる怪物達の姿は、蛇のような容姿をしていたり、虎のような容姿をしていたり、猿のような容姿をしたりしている。
 デイジーさんの背中に従いながら、私が視認した怪物達だ。

「……自分のせいだ」

 このような結果に陥っているのは、私に向けられた言葉を心の底から信じることが出来なかったからだ。
 なんと浅はかだったのだろう。

「私なんて美味しくも何ともないですよ」

 一縷の望みを掛けて、私は彼らに向けて命乞いをした。もちろん私の言葉は届かない。受け答えをしないことで、あえて恐怖心を募らせているのだろうか。
 けれど、怪物同士では言葉を用いてコミュニケーションを取っているように見えた。

 そこで私は一つの可能性に思い至った。

「この世界で、異物は私……」

 それは当然のことだ。私はこの異世界に突然迷い込んでしまった。

 異世界に迷い込んでから、私はデイジーさんとしか話していない。デイジーさんとは普通に話せていたから、日本語がこの世界での標準語となっていると思っていた。いわゆる、ご都合主義な考えだ。

 だけど、今こうして現地民と接して、根本的に言語が違うことが分かった。意味が通じないのであれば、返せる言葉なんて存在する訳がない。

 なら、何故この世界に住むデイジーさんとは普通に言葉を交わし、意思を交し合うことが出来たのだろう。

「デイジーさんも、違う……?」

 自分のことを『異物そのもの』と言っていたデイジーさんの言葉の意味を、深く深く考え込む。

 見た目だけが違うのではなくて、種族そのものが特殊だったのではないか。どうしてその可能性に今まで至れなかったのだろう。

 デイジーさんが特殊なのか、はたまたデイジーさんも私と同じ立ち位置なのか。

 そこまでは分からない。記憶がない、と言っていたから、本人さえも分かっていないのだろう。
 どちらにせよ、私の推測を確認する術は、最早どこにもない。

「デイジーさんは、私にとって必要な人だった……?」

 言葉が通じないことを良いことに、私は言葉をつらつらと発していく。
 だんだんと思考がまとまっていく感じがした。

 デイジーさんはこの世界の中で異端そのもので、だからこそ迷い込んだ私にとって何よりの味方だった。
 その味方を、私は裏切ってしまったのだ。
 最後まで信じることが出来ず、その手を放してしまった。

 昔から私はそうだ。
 自分自身に向かう善意を、私は完全に信じることが出来ないでいる。

 現実世界は、童話のようにキラキラとしていない。自分を引き立てるためであるなら他者を蹴り落とすのも良しとする風潮、そういった自分至上主義の汚い考えのもとで成り立っている。
 心を許して優しくしてしまっても、結局のところ傷つくのは自分なのだ。
 ならば、自分から距離を置いた方が良い。そうすれば、裏切られる心配もないし、仮に裏切られたとしても痛みが少ないから。

 いつしか私は人と向き合うことを止めていた。心から信じることが出来ず、空想ばかりに耽っていた。

 その性格が、私を窮地に追いやる。
 私自身を殺すだけではなくて、私に良くしてくれたデイジーさんまで傷付けてしまった。

「ごめんなさい」

 今さら過ちに気が付いたところで、もう遅い。

 私は帰れない。こんな良く分からない土地で、良く分からない怪物に殺されて、生を終えてしまうのか。
 あまりにも不条理だ。こんな世界、来たくて来たわけじゃない。嫌だな。

 でも、因果応報か。私は自分に良くしてくれた人すらも信じることが出来なかったのだから。

 だけど、せめて。

「デイジーさんに、ちゃんと――」

 ――ちゃんと謝って死にたかった。

「ギャオアッ!」

 声にならない怪物達の叫びが、私の独り言を阻む。後悔は言葉という形にすることすら許されないのか。

 命を狩る爪が、私に襲い掛かることを感じ、目をギュッと瞑った。

 その瞬間――、

「ちょっと待った!」

 ここ数日で何度も聞き慣れたくぐもった声が、暗がりの中に差し込む一筋の光と共に響き渡った。


 ――目が覚めたら、そこは。

「うっ」

 その後に続く、この状況を適切に表現できる言葉を、僕は持ち合わせていなかった。自分の中の語彙力が著しく少なくなっていることに、否が応でも気付かされる。

 いや、語彙力だけではない。どうしてここにいるのか、僕はそもそも何者なのか。
 全てのことが不明瞭だった。

 状況判断をするため、周りに目を向ける。僕は荘厳な雰囲気を醸し出す空間にいるようだ。

 記憶の片鱗にも引っかからない場所だった。何とか思い出そうとしても、頭の中が靄が掛かったように何も浮かんではくれない。

 一つだけ分かるのは、

「……誰か来る?」

 唯一残っている思いを手繰り寄せようとした時、誰かの足音が耳に響いた。
 皮肉にも、誰かの足音を聞いて思ったことが、僕の中に唯一残っている思いだった。

 ――僕の姿を、誰にも見られてはいけない。

 根拠も何もない思い。それが正しいのか、また正しいとしてどう実現するのか、迷い逡巡するも足音はどんどんと近付いて来る。

 僕の手には偶然にも包帯が握られていた。咄嗟に浮かんだのは、この包帯を顔にグルグルと巻けば、誰にも顔を見られることはないということだった。

 そう思った僕は、気付けば包帯を巻くことにした。

「おわっ、こんなところに?」

 突然の来訪者は、目を見開かせたと同時、純粋に驚いた声を上げた。驚愕した声を上げられたものの、そこまでの嫌悪感は示されなかったので、表に出さないように安堵の息を漏らした。

 それから僕は彼と打ち解け、神殿と呼ばれるこの静謐な空間の秘密を聞いた。
 何でもこの空間には、望む者を異空間へと誘う力があるらしい。しかし、方法を間違えれば、二度と外の空気を吸うことの叶わない亜空間へと飛ばされてしまうため、禁忌として伝わっているらしい。

「知らずにいたのか? 迷わなくて良かったな。ほら、俺達がいるべき場所はここだ」

 神殿を抜け出すと、この街について説明してもらった。

 多種多様な見た目をした種族が住んでいたが、自身の顔を知る者は誰もいないらしい。どうやら、この世界には自分を写し出す方法がないのだ。他者の反応を見て、自分が周りに溶け込んでいるか否かを知ることが出来る。

 そして、もしも周りの中で明らかに異なる容姿を持つようだったら、獲物として認識され、言葉にするもおぞましい仕打ちを受けるらしい。

「もう一つ注意しておくべきことがある。壁の向こうの樹海には近付かないようにするんだ。樹海には時折化け物が現れるらしい」
「一から説明してくれて助かったよ。えっと、君は?」
「お前が好きなように俺のことを呼べ。それがこの世界でのルールだ」

 結局名前も知ることのなかった彼とは、この最初の出会いの後、再会することはなかった。

「……樹海、化け物」

 彼と別れた僕は、樹海について無性に気になっていた。どうしても僕には無関係でない気がしたのだ。だから、僕は彼の忠告を破って樹海へと出向くことにした。

 樹海の奥へと進むと、とある生命に出会った。
 町で見る者とは違い、守ってあげたくなるような華奢で弱々しい姿をしていた。当然、化け物というイメージには到底結び付かない。

 その姿を見て、一つ呼び起こされたことがある。

 ――この存在を守るために僕は生まれた。

 記憶も何もないくせに、すでに最初から僕の心の中にあったかのようだ。そして、不思議なことに、突然現れた存在を助けるためには神殿に連れて行く必要があることも直感的に分かった。

 心を突き動かす衝動に身を委ね、僕は彼に声を掛けた。

 しかし、包帯に覆われた僕の姿は、彼にとって化け物のように思えるようだ。
 善意でもって接しているのに、彼は僕を拒んだ。
 拒まれたとしても、僕は何度も樹海に足を運び、か弱い存在を助けようとした。

 いつも結果は変わらなかった。誰であろうと、僕の姿を一目見た瞬間に顔を恐怖に歪めた。こうして拒まれることが、何度も何度もあった。
 酷いときは、純粋に信じるフリをして従って来ながらも、町の前まで辿り着いた瞬間に手のひらを返すように攻撃をされたこともあった。

 何を信じていいか分からなくなってしまった。
 助けたいと思う存在からも攻撃され、町にいても顔を隠し続けなければならない僕は、一体何者なのだろう。

 自分自身を見失いかけた。

 だけど、それでも僕がやるべきことは変わらない。

 樹海で迷い込んだ者を助ける。

 それだけが、僕という存在を確立させる道しるべのようだった。

 否定され拒まれながらも、僕は何度も樹海に足を運んだ。

 そんな中、僕はキヨミと出会った。

 最初は不審そうな表情を浮かべていたキヨミだったが、最終的に僕の言葉を信じて、ついて来てくれた。樹海から国に向かう道中、色々と話が弾んだのは初めてだった。
 僕の全てに変えてでも、必ず帰らせてあげたいと思うようになった。

 そして、神殿の前に辿り着き、あと一歩といったところで――、

『ごめんなさい。やっぱり私はついて行くことが出来ません』

 いつもと同じ結果が待ち受けていた。

 キヨミも僕のことを信じられなくなってしまい、背中を向けるようになった。

 予兆はあった。
 この国に入った瞬間から、キヨミの顔も体も強張るようになった。この国に住む者達の容姿と特性に恐怖心を抱いてしまったのだろう。

 そのことを分かっていながらも、神殿にまで辿り着くことを優先させてしまい、僕はキヨミへの配慮を忘れてしまっていた。樹海から従ってくれたことへの過信もあった。

 神殿の前で一人立ち尽くしながら、僕は考える。
 離れていくことは慣れていた。いつもと同じ展開だ。けれど、一つだけ違ったことがある。

『ありがとうございました』

 そうキヨミはお礼を言ってくれた。
 その言葉一つで、キヨミが心優しい人間だということが分かる。

 ここで追いかけて行っても、キヨミから更に冷たい目を向けられることは分かっていた。自分が傷つかないためには、深く追わない方が懸命だ。

 それでも。

「どこにいる、キヨミ」

 僕は必死にキヨミの姿を探して走った。

 しかし、キヨミが去った方角に行っても、キヨミを見つけることは叶わなかった。僕が動揺した時間が長かったことに加え、キヨミの足は思いの外に速かった。

「あいつら、今日も上玉を捕まえてたな」
「羨ましい限りだ」

 そんな時、僕の耳に下世話な声が響き渡った。
 あいつらが誰を指し示し、上玉が何を指し示しているかはすぐに分かった。

「どこに行った?」

 僕は彼らを問い詰める。

 普段とは異なる必死の剣幕に驚いた彼らは、「あ、あっちだ」と指を向けた。僕はその方角に向かって、迷いなく走る。

 キヨミを助けるためなら、なりふり構っている余裕はなかった。


「ここが神殿の最奥だよ」

 神殿の奥に位置する祭壇は、人智を超越したような空気が流れる不思議で静謐とした空間だった。訪れてまだ数十秒も経っていないというのに、私はこの場所に意識を持っていかれていた。
 確かにここでなら何が起きても納得が出来てしまう。

「……すごい」

 月並みな感想が私の口から漏れ出してしまう。

 樹海で目が覚めてから禁忌とされる神殿の最奥まで、こうして五体無事に辿り着けるようになるとは思わなかった。
 特に、デイジーさんの元から離れてからこの国の住民に襲われた時は、命が潰えることさえも覚悟していた。

 けれど、全てを諦めたその時に、デイジーさんが私の前に現れた。

 コンマ数秒でもデイジーさんが駆け付けてくれるのが遅かったなら、獰猛な爪によって私は切り裂かれていた――、それくらい切羽詰まった状況だった。
 突然のデイジーさんの声に動揺した住民たちは、一瞬何が起こったのか理解出来ないように、動くことが出来なかった。

 その僅かな隙をついて、デイジーさんは私の手首を掴んで、その場から連れ去ってくれた。
 まるでずっと恋焦がれていた物語のヒロインになったような気分だった。

 今度こそはデイジーさんの背中だけを見つめながら、往来を駆け抜けて神殿の前まで来た。デイジーさんの手の力が弱まりかけたことを、手のひらでハッキリと感じ取った私は、ギュッと力を籠めた。弱く離れそうになっていたデイジーさんの手は強さを取り戻し、更に神殿の最奥まで進むこととなった。

 言葉はいらなかった。デイジーさんの優しさも、私の言いたいことも、全てこの手のひらを通じて感じ合えていた。

 紆余曲折を経ながら、ようやく辿り着いた神殿の最奥。ここから私は現世に帰ることが出来る。
 この世界に来てから、たったの三日ほどしか経っていない。けれど、それ以上の時間の経過を私は身に感じていた。

 少しだけそう感慨に浸っていると、

「……ぁ」

 私達を繋いでいた手が、名残惜しそうに緩やかに離された。

 背中だけを見つめていたデイジーさんが、私の方を向く。
 包帯の奥を想像して、私は一度デイジーさんのことを裏切ってしまった。けれど、今はもう恐怖を感じることはない。

 私達は真っ直ぐに向き合い、

「キヨミが帰るための手順は、ここにある」

 そう言い放ったデイジーさんは、自身に手を添えていた。「ここ?」、私は首を傾げた。

「ここで目が覚めて以来初めて戻って来て、思い出したことがある。この包帯に、異世界へと転移させる方法――、つまりキヨミを戻らせるための方法が全て書かれているんだ」
「包帯の裏に文字が隠されている?」

 デイジーさんは首を縦に振った。

「だけど、僕も実際に試すのは初めてだ。成功するか失敗するか、正直なところ分からない。……それでも、僕のことを信じてくれる?」
「もちろんです」

 私に迷いはなかった。

 一度裏切ったくせにどの口が言えるんだ、という指摘は拭えないけれど、私はもうデイジーさんを信じると決めた。

 一度失ったはずの命だ。仮に戻れず、異空間に飛ばされたとしても後悔はない。

 私の覚悟を見たデイジーさんは、包帯の奥で確かに柔らかな微笑を浮かべた。

「あと、もう一つ大事なことを確認したい」
「なんでしょう?」
「包帯に記されているということは、包帯を解かないといけないということだ。そして、包帯を解くということは、その……」

 いつも堂々としていたデイジーさんの声に、少しだけ躊躇いが生じた。デイジーさんが言いたいことは全て察することが出来た。
 この人はどこまで優しいのだろう。

「大丈夫」

 誰よりも優しいのに、誰よりも傷付いて来たデイジーさんを喜ばせてあげたい。

「どんな姿でも、私はデイジーさんを信じています」

 本心からの言葉を、私はデイジーさんに伝えた。

「ありがとう」

 包帯の奥で、息が漏れる音が聞こえた。同時、デイジーさんは包帯に手を掛けて、解いていく。

 幾重にも巻かれた包帯は、まさに自身を守るための防護服のようだ。

 一度は向き合うことを拒むほどに恐怖した、デイジーさんの素顔。その顔が明らかにされようとしているのに、不思議と恐怖心はどこにもなかった。

 全ては私が生んだ妄想が、勝手に恐怖心を助長させただけだ。勝手に想像して、勝手に判断して、勝手に見限ることは、自分本位でしかない。

 包帯を取った先にいたのは――、

「……私?」

 私の姿だった。ここ数日見ることはなかったけれど、私の顔を見間違えるはずがない。

「ううん、違う」

 デイジーさんは、私じゃない。
 鏡のように透き通った瞳にいの一番に惹かれてしまって、私だと勘違いしてしまった。けれど、視点を変えると、目鼻口が整った美丈夫がそこにいる。特徴的な瞳を除けば、デイジーさんの顔は、人間と同じだった。

 だけど、どうしてだろう。

 デイジーさんと向き合っていると、私は自分自身に向き合わされているような錯覚に陥る。

「……そうか」

 包帯に視線を落としていたデイジーさんは、そこに記されていた異世界へと転じるための方法を解き終えたようだ。

「別の世界に行くための方法は、真実な自分と対峙すること」
「え?」
「この世界では稀有な自身を写し出すものと向き合うことで、別の世界へと誘うことが出来る、とここには綴られている。つまり、キヨミの世界でいう鏡と向き合うことが必要なんだ」

 禁忌を犯してまで他の世界に行きたい輩などいない。この禁忌は、この世界の住民を恐れ忌ましめるためのものであると同時、私みたいに迷い込んだ者に向けて与えられた救いのメッセージだ。

 そもそも、この世界には鏡という存在はなかった。鏡のように自身を写し出すことが出来るのは、唯一デイジーさんの瞳のみ。
 初めから、デイジーさんという存在が必要不可欠だった。

「ここは、自身すらも信じられなくなった者が訪れる場所。周りに惑わされず、己を信じ直せば、再び世界は交わる。……読んでみたけど、ここの部分は僕には理解が出来ないな」

 包帯に綴られている言葉を、デイジーさんが更に読み上げることで、確信に変わる。
 世界の成り立ちまでは分からないけれど、この世界は、私のために存在している世界だ。

 私はこの世界に来る前の自分を思う。

 空想世界に恋焦がれるがあまり、私は誰のことも心から信じることが出来なかった。そして、そんな自分が私は嫌いだった。
 それが、どれだけ自分自身を浅ましくさせていたのか、この世界で過ごした今なら痛切に分かる。

 今はもう、心で向き合うことの大切さを知った。

 元の世界に戻った時、私は堂々と向き合うことが出来る。人にだって、自分にだって。

 たったそれだけを認めるために、私はここに訪れた。

「デイジーさん、ありがとうございました」

 私は大きな挙動で頭を下げた。この感謝の思いが、全部伝わるように。

 デイジーさんは整った容姿で、柔らかな笑みを浮かべた。

「お礼を言うのは僕の方だ。キヨミのおかげで、僕の存在理由を果たすことが出来た」

 その一言で、どれだけデイジーさんが苦痛な目を受けて来たのかを察した。あえて言及することはしない。

 デイジーさんの想いを果たすことが出来たのは、私でよかった。

 そう心に抱きながら、私はデイジーさんを見つめる。
 時が止まっているかのようだった。

「触れて」

 そして、全てに終止符を打つために、デイジーさんが優しく包み込むような声音で甘く発した。
 全ての意図を察している私は、手を伸ばす。デイジーさんの瞳に映る私も、手を伸ばしている。その顔に迷いはない。

 手を伸ばして、指先に確かに触れ合った感覚が残ると――。

 ――目が覚めたら、そこはいつもの日常でした。

<――終わり>

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