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[短編小説]リカバリー

 1

 いつも満たされない感覚が、私の胸を覆っていた。

 たとえば、近くに親しい人がいるのに、世界で一人ぼっちになっているような感覚。
 たとえば、声を張り上げて自分を主張しても、誰にも気付かれずに無視されるような感覚。
 たとえば、自分の嫌なところによって空いた心の穴から、私を形成する何かが零れていくような感覚。

 生きていて物足りない感覚が、私の胸には常に付き纏っている。

 だから私は求めていた。

 降りしきる雨が溜まって、やがて海になるように。

 そんな風に満たされれば、どれだけ楽に生きられるのだろう。そればかりを願っている。

 ***

「心音、考えすぎじゃない?」

 生きていく中で言葉にし難い赤裸々な感情を、幼馴染であり一つ上の先輩で、お姉ちゃんのように親しみを抱いている成田聖香――聖ちゃんに話したら、そう笑って一蹴された。梅雨空から避難して来た多くの人で賑わうカフェの中だとしても、聖ちゃんの笑い声はとてもハキハキと聞き取りやすく、私の耳は迷いなく聞き取ってしまう。

「笑いごとじゃないよ、聖ちゃん」

 渾身の悩みを笑われたことで、私は聖ちゃんに頬を膨らませて遺憾を示す。
 普段周りに対して心を開かない私だけれど、聖ちゃんに対してだけは自分を開けっぴろげに曝け出すことが出来る。

「あはは、ごめんって」

 謝っているくせにまだ笑う聖ちゃんだけど、責める気にはなれない。むしろ、聖ちゃんらしいと思って、これ以上言及することを止めてしまう。

 聖ちゃんは、昔からそういう人だ。
 子供の頃から、環の中心だった。運動も勉強も学年の上位に入って注目を浴びることはもちろん、何より可愛い。大学に入学してからの一年間で、聖ちゃんは更に垢ぬけたように思える。

 だけど、聖ちゃんの魅力は、そんな目に見えるところではない。
 誰に対しても負担を感じさせないフランクさ。他人を気遣える優しさ。人を夢中にさせる話術。一つ一つの動きから佇む、どことない自信。などなど。

 挙げればキリのない内面の性格一つ一つによって、聖ちゃんの周りにはいつも笑顔が絶えない。
 私とは違って、聖ちゃんはいつも太陽のように輝いていた。

 本来であれば、私みたいな暗い性格をした人間が仲良く出来る相手ではないだろう。
 なのに、こうして休日にまで仲良くしてもらえるのは、家が近所で、親同士が元々友達だからだ。多分、聖ちゃんと私を構成している歯車一つでも狂っていたら、私は聖ちゃんと仲良くなることは出来なかった。
 私の何十歩も先を進む聖ちゃんの背中を、いつも尊敬の眼差しで見つめていた。時折振り返っては、わざわざ私の隣まで駆け寄ってくれる聖ちゃんの優しさが大好きだった。本人は無意識で行なっているところが、なお憧れを抱く。

「でも、心音も大学入って二か月経つでしょ? 流石に友達は――」

 聖ちゃんにジーッと視線を向ける。「まぁ、まだ出来ないか」、肩を竦めると聖ちゃんはアイスティーをストローで啜った。

「大学に入ったら変われるって思ったのに……」

 環境が変われば、嫌でも変われると思っていた。だけど、今の私は高校時代のまま何も変わっていない。高校の何百倍もいる同級生達を前にして、誰に何をどう話しかけていいのか分からず、一歩を踏み出すことが出来ないのだ。

「うーん、人間そんな簡単に変わるものじゃないでしょ」

 聖ちゃんは、相手が誰でも自分の意見を言えてしまうし、冗談も言えてしまう。私の勝手な妄想に対しても、聖ちゃんは臆することなく違うと言える。

「想像してよ。心音が人の輪の中心に入っているところを」

 自分から人に話しかけて、活発的に行動して、自信に満ち溢れてキラキラしている姿――。

 だけど、想像の中ですら、輪の中心に立っているのは聖ちゃんの姿だった。昔から私の理想像は聖ちゃんしかいない。

 誰よりも一番近く聖ちゃんと過ごしているのに、悲しいことに私は少しも似ることがなかった。
 妄想ですら自分を主張出来ない私が、聖ちゃんのように自信を持って生きることは出来るのだろうか。
 多分この先頑張っても無理だろう。

「どうだった?」

 私は首を小さく横に振る、「正直上手く想像出来ないや」。

「でしょ。でも、心音は想像出来ないことをやりたいと願ってる」

 私は小さく頷いた。

 もしも引っ込み思案なまま社会に出た時、私はきっと社会に溶け込むことは出来ないだろう。周りからの評価に怯え、他人に合わせることに必死になって、自分らしく生きることが出来ない。
 それは、私が心の中で抱いている感覚が、更に助長されていくだけの人生を歩むということだ。

「変わりたいって、本気で思ってるの?」
「うん、思ってるよ」

 このまま自分の嫌なところを抱えながら生きるのは、嫌だった。

 真っ直ぐに答えたところ、聖ちゃんは不敵な笑みを浮かべた。そして、一人納得したように、「よしっ」と呟く。

「そしたら心音のために人肌脱ぎますか」
「……何を?」
「心音が自信を持てるまで、私が全力でサポートするよ」

 そう言うと、聖ちゃんはグラスを手にして、四分の一ほど残っていたアイスティーを気に飲み込んだ。

 雨が降りしきる外を窓越しに見つめながら、もうちょっとゆっくりしてもいいのになと思いつつ、私も残っていたアイスティーを飲み干すことにした。

 2

 ふと眠りから覚めて夢か現の間を彷徨う時、私の心は現実に戻ることを拒んでいる。

 どんな夢を見ていたのか憶えていないくせに、現実には存在しなくて、でも私の心が確かに見ていた風景に心焦がれてしまっている。もしも夢の中にずっと居られたなら、私はこんな想いをして生きてはいないだろう。
 だけど、目が覚めて一日を始めてしまえば、夢に縋っていた自分なんて忘れてしまって、なんとか必死に一日を生きている。

 きっと人生とは、そんな苦悩と妥協の連続だ。

 特に私のように性根が暗い人間は、目が覚めて早々に自分自身と戦争を始めなければならない。ついぞ勝って現実に帰還したと思ったら、もう一日の大半の体力を使い尽くしている。

「起きろー!」

 いつもの電子的な目覚まし音とは違って、誰かの肉声と全身を揺らす震動でもって、私は夢の世界から強制的に呼び起こされた。
 回数という概念を忘れるほどに聞いた声は、たとえ思考が微睡んでいたって理解出来る。

「せ、聖ちゃん?」

 だから、ここでの問題は、誰が起こしたかではなくて何で起こしたか、だ。

 私は寝ぼけ眼で、状況を判断しようとする。
 時計は六時、目覚める予定の二時間半前。そして、ジャージを着た聖ちゃんの姿。
 聖ちゃんがここにいる理由が、まだ結びつかなかった。

「ど、どーして私の部屋に?」
「おばさんに入れてもらった」

 聖ちゃんはブイサインを突きつける。「ついでに、軽く牛乳もらった」、聖ちゃんは満面の笑みで言う。

「え、いや、そうじゃなくて……」
「昨日言ったでしょ。心音が自信を持てるようにサポートするって」

 聖ちゃんとカフェで話したことを思い出す。
 基本的に内気な私が抱える悩みを打ち明けたところ、聖ちゃんは自信を持てるように手助けしてくれると言った。そして、カフェで解散した時、「とりあえず明日は朝から心音の家に行くね」と話していたのだけれど。

「こんな早いとは思わないよぉ」

 私は朝起きることを拒む駄々っ子のように布団を頭から被った。しかし、すぐに聖ちゃんはガバッと布団を引きはがした。微かな抵抗は、本当に微かに終わってしまった。

「ほら、いいから起きる。今から走りに行くよ。健全な精神は、健全な体に宿る。よく聞くでしょ?」
「え、走るなんて聞いてないよ。てか、今日はこれから雨が降るって……」

 昨夜に見た天気予報だと、確か一限の授業が始まる時間には雨が降ってしまうとのことだった。ベッドに潜ってからも、雨に降られるのは嫌だなぁと少しばかり悶々としていたのをぼんやりと思い起こす。
 だというのに、雨が降る予定なのに走り行くなんて嫌だ。そう視線で訴える。

「だから、雨が降らない内に走ろう! 今がチャンス!」

 聖ちゃんは満面の笑みを浮かべながら、親指を立てて答えた。

 そんな風に無邪気に言われてしまったら、断わることは出来ない。むしろ、聖ちゃんは私のために時間を出してくれようとしているのだ。尚のこと、断われない。流石に寝起きの頭かつ普段から否定的な私でも、それくらいは理解できた。

「さ、三分だけ待って」
「んじゃ、外で待ってるね」

 聖ちゃんが部屋を出ると、私はすぐさま着替え始めることにした。高校時代に体育で来ていたジャージがあったはず。バッと押入れを開け、二度と着ることはないと思っていたジャージを手に取る。同時、私は寝間着を脱いだ。高校時代のジャージが以前着た時の感覚と何ら変わりなかったことに、私は少しだけホッとした。

「お待たせ、聖ちゃん」

 予告通り三分ほどで着替え終わって家を出ると、ちょうど屈伸運動をしている聖ちゃんがいた。

「よし、じゃあ準備運動してから走ろうか」

 そして聖ちゃんの動きに合わせて体の一か所一か所を丁寧に伸ばしていき、体が温まったところで、走り始めた。

 一緒に走っていると見惚るほど綺麗なフォームで、聖ちゃんは私の隣を走ってくれる。
 聖ちゃんの靴はランニングシューズなのに、私の靴は少しだけ走りやすいスニーカーだ。
 隣に並んで走ってくれた聖ちゃんだったけれど、私が遅すぎてすぐに距離が開いていく。だいぶ離れたなと思ったら、聖ちゃんがスピードを落としてまた隣に来てくれるけれど、すぐに離れていく。そんなことの繰り返しだった。

「ひぃ、ひぃ」

 文字通りひーひー言いながら、聖ちゃんに置いて行かれないように走った。
 体は全然慣れておらず、たったの十五分ほどで私の体は悲鳴を上げていた。

「ひぃ、ひぃ」

 走り終わって公園のベンチで休んでいても、息が整う気配はない。

「あはは、体力ないなぁ」

 聖ちゃんは軽やかに笑いながら言う。普段から鍛えていることが、その余裕然とした振る舞いからも容易く窺えた。

 ベンチの横に設置されている自販機で、聖ちゃんはピッピッと二本分購入すると、

「どうだった? 走ってみて」

 ペットボトルを渡されがてら、そう問いかけられた。その表情は、梅雨の曇り空も吹き飛ばしてしまうほどに清々しかった。

「どうも……こうも……、疲れた、よぉ」

 聖ちゃんのように微笑みを携えながらスマートに応じられたなら良かったのに、運動慣れしていない私は途切れ途切れに返答することしか出来なかった。
 そもそも酸素が足りなくて、頭が働いていない。

 変わるための第一歩として、聖ちゃんが示してくれたのは体を鍛えることだった。

 少しだけ期待外れだったことは、聖ちゃんには口が割けても言えない。

 他人からアドバイスを貰えるなら、極端な変化を求めてしまうのは私のエゴだ。そういう自分中心なところも、嫌いなところだった。

「ほんと、意味あったの、これ?」

 この十五分という時間を見れば、体を鍛えるために走るというよりも、聖ちゃんと離れないように走っている、といった方が適しているかもしれない。
 正直なところ、ランニングを続けることで、私のメンタル面が変わるような未来が見えなかった。

「でも、朝早く起きると気持ちいいでしょ」

 聖ちゃんの笑顔の前に、「……」と私は答えに窮した。朝っぱらから走ったことに、清々しい気分を感じてはいない。けれど、毎朝感じていた寝起きの悪さを今日は感じなかったことだけは、確かだった。

 多分それは、早起きしたからとかではなくて、聖ちゃんが私の部屋にまで押しかけて起こしてくれたからだ。そのおかげで、起きるか寝るかという葛藤に苛まれなくて済んだ。

「じゃあ、これから毎日走ろうね」

 やると決めたら意外とスパルタな性格を聖ちゃんがしていることを、改めて知ったような気がした。

「う、うん。まぁ、晴れてたらね」

 雨雲が濃くなりつつある空を見ながら、逃げるようにそう言った。

 3

「聖ちゃん、こっちの掃除終わったよ」
「ありがと、お疲れ様」

 聖ちゃんが働いているカフェのバイトを紹介してもらい、一緒に仕事をするようになっていた。もちろんバイトという形で社会との接点を持つようになったのも、聖ちゃんの計らいだ。

「ごめんね、聖ちゃんも忙しい時期なのに」
「ううん、全然大丈夫だよ」

 聖ちゃんは教育係として、私がシフトを入れる時はだいたい一緒に入ってくれることが多かった。週三から週四で、四時間は働くようになっているから、結構多くの時間を拘束してしまっている。
 常に何かと忙しい聖ちゃんに、少しだけ申し訳のなさを抱いていた。

「お金も欲しかったしさ」

 聖ちゃんは親指と人差し指を合わせながらウインクをする。ユーモアの中に垣間見える周囲を気遣う聖ちゃんの優しさが、ほんのちょっとした仕草から伝わって来る。

「んじゃ、そのままレジの方お願いしてもいい?」
「うん、分かったぁ」

 レジに立つと、カフェの全貌が見渡せる。

 お客さん達の楽しそうな姿、よく見かける常連さんの本を読む姿。耳に神経を傾ければ、カップとソーサーが当たる音、氷の音、タイマーの音、そして笑い声。
 人と接するのは苦手だけど、ここから見る景色は気に入っている。

 そんな気分に浸っていると、

「ココちゃん、最近頑張ってるね!」

 常連のタカギさんが伝票を持って声を掛けてくれた。
 伝票にはいつものメニューであるホットコーヒー、四百円が記載されている。

「ほ、本当ですか?」

 後ろにお客さんが並んでいなければ話すことを許されているから、少しだけ話を広げてみる。

「うん、最初の頃よりも声もハキハキと出せるようになって、店に馴染んでるよ」

 嬉しかった。自分の中ではまだまだ働き始めという感じがして、仕事をこなすことに必死だったから、まさか褒められるとは思わなかった。

 最初に聖ちゃんから接客のバイトを紹介された時は、本当にどうしたものかと思った。
 嘘でしょ? 聖ちゃん正気? と心の中で何度ツッコミを入れたことか。
 実際、面接だって上手く話すことは出来なかったのに、「聖香さんの紹介なら、問題ないね」とその場で店長から採用告知をされてしまった。聖ちゃんの影響力が身に染みて分かった瞬間だった。
 バイトに採用されてから、最初は何度も失敗した。注文を間違えて受けてしまったり、お客さんと上手く話せなかったりした。けれど、聖ちゃんや仕事仲間、またお客さんにも支えてもらいながら、なんとか少しずつ仕事を憶えて来ている。

 今となっては、聖ちゃんにキッカケを与えてもらって良かったと思えるほどに、仕事を楽しめている私がいるのも事実だ。

「これならセイちゃんがいなくなっても、この店は安泰だね」
「残念、私はまだまだ居続けますぅ」

 タカギさんが声を出して笑ったところ、お客さん卓にメニューを提供し終えた聖ちゃんが話に混ざって来た。
 それから聖ちゃんとタカギさんは、軽口を叩き合うように雑談を交わし始めた。

 昔から聖ちゃんは誰とも打ち解け好かれやすい性格をしていたけれど、バイトという社会経験を積んで、更に磨きがかかったように思える。

 私と聖ちゃんは、幼稚園から大学まで同じ場所に通っている。しかし、学年が一つ違うため、聖ちゃんの生活っぷりを見ることはほとんどなかった。こうして同じバイトを紹介してもらって、初めて聖ちゃんと同じ時間を過ごしてみたが、改めて聖ちゃんの凄さが分かる。

 面接の時から感じていた聖ちゃんの人望の厚さだったけれど、同じ環境に身を投じて働いて、仕事仲間だけでなくお客さんからも慕われていることには純粋に驚いた。

 聖ちゃんと同じ時間をこのカフェで働いたとしても、私は聖ちゃんのような立場になることは叶わない。

「じゃあ、またね。セイちゃん、ココちゃん」

 いつの間にかタカギさんは背中を向けていて、聖ちゃんの後に続いて「ありがとうございました」と頭を下げる。そして、聖ちゃんも「引き続きレジよろしくね」と、私の背中に触れてからキッチンの方に戻っていく。

「……違う」

 一人レジに立つ私は、小さく首を横に振った。

 今の私は聖ちゃんと比較したことで、少しだけ気持ちを下げてしまっていた。聖ちゃんの凄さは、最初から誰よりも分かっていることではないか。聖ちゃんは人と打ち解ける天性の才能を持っているけれど、それに付随する努力も重ねている。聖ちゃんと比較して気分を沈ませたらダメだ。

 それにタカギさんも言っていたではないか。このお店に私は馴染みつつある、と。

 無理に背伸びをして転ぶことはない。これからも私は私のペースで頑張っていけばいい。

 レジに立ちながら、窓の外に広がる空を見る。梅雨の晴れ間が、私の心を満たしてくれた。

 4

 降りしきる雨は苦手だけど、お気に入りの晴れやかな色の傘を使えると思ったら、少しだけ雨の日も好きになった。

 雨の中すれ違う人は、みな鬱屈そうな表情をしている。濡れることに嫌気を抱き、人と人がぶつかり合いそうになることに苛立ちを募らせ、鬱屈とした重苦しい空気に息苦しさを覚える。

 かつての私もそうだった。抗えない自然現象に、ただ打ちのめされるだけだった。けれど、今の私は違う。私は微笑みすらも携えながら、雨の中を歩くことが出来る。
 いつも見ている景色も、私の心次第で見え方も捉え方も異なっているということだ。

 お気に入りの傘を差しながら鼻歌交じりに目指す私の目的地は、決まっている。
 目的地は、最近流行りの駅前に出来たカフェだ。そして、目的は、会いたい人に会うこと。
 ここ最近の中で、一番楽しみにしている予定だ。

「聖ちゃん!」

 多くの利用者がいる人気のカフェで、聖ちゃんの姿を見かけるや、一秒も惜しむように駆け寄って近付く。

「心音、久し振り!」

 久し振りに見る聖ちゃんの姿は、どこか大人びて見えた。いや、どこかではなくて、実際に社会人として働き始めているのだから、立派な大人だ。
 だけど、こうして私の名前を呼び迎えてくれる仕草は、昔から何も変わっていない。

「聖ちゃん、会いたかったよぉ」

 聖ちゃんの前だと、少しだけ子供っぽくなってしまう。

 大学の卒業を機に、私の近所に住んでいた聖ちゃんは引っ越して、この町から離れてしまった。聖ちゃんのお母さんから聞いた話だと、社会人になるのなら自分一人の力で生活してみたいとのことだった。
 聖ちゃんは誰もが知る有名企業に勤めていて、忙しく働いているらしい。

 そんな中、私のことを心配してくれた聖ちゃんから先月メッセージが届いて、こうして会う約束をしてくれた。

 聖ちゃんと気軽に会えなくなってから三か月も経っていないのに、会えなかったことの日を、たくさん話したかった。

「あ、あのご注文は?」

 可愛らしい制服を身に纏い、たどたどしく注文を聞きに来てくれる店員さんに、私はどこか微笑まし気な感情が芽生えた。多分この子は新人なのだろう。そんなことも、なんとなく分かるようになってしまった。

 私は柔らかな声音で「ホットコーヒーでお願いします」と答えると、初めて来るお店の中を見るように辺りを見渡した。

「キョロキョロしてどうしたの?」
「雰囲気の良いカフェだから、うちにも何か活かせないかなって見てた」

 聖ちゃんに紹介してもらったバイトは、まだ続いている。居心地の良い店だけれど、もっとお客さんに過ごしやすい環境にするためには何が出来るだろう、と考えは止まらない。

 そんな私のことを見つめながら、

「三年」

 ふいに聖ちゃんが言った。突然紡がれた数字の意味が分からなくて、「え?」と間の抜けた声が口から出る。

「ちょうど三年だよね。心音が私に相談しに来てから」
「――あ」

 三年前の梅雨時、元来のうじうじとした性格のせいで大学生活に馴染むことが出来なかった私は、聖ちゃんに相談した。

 聖ちゃんは突飛に思えるような提案を、私にしてくれた。
 最初は早朝に運動をすること。次の年には、バイトを通して社会と関わりを持つこと。他にも小さいことを、段階的にたくさん提案してくれた。
 何の意味があるのだろう、と疑ったこともある。

 けれど、続けていく内に自分自身の変化に気付くようになった。

 いつしか聖ちゃんが家に来てくれなくても、自発的に走るようになっていた。
 自分の意志で早起きしてランニングに出掛けて、聖ちゃんに出会えると、とても嬉しかったことを思い出す。
 バイト先でだって、聖ちゃんの後について教えを請わなければ何も出来なかったのに、今では自主的に動くことも出来てバイトリーダーの立場にまでなっている。

「そっか。もうそんなに経つんだね」

 本当に気付いたら、という感じだった。

 聖ちゃんの言うことならば、と必死に縋るようにその日その日を生きて来た。同じことをもう一度やるように言われても、私は多分出来ない。

 その瞬間を全力で生きて来たからだ。

 そこには打算も何もなかった。変わりたい、ただその一心だけが私を突き動かす最大の原動力だった。

 聖ちゃんに目を向けると、まるで聖母のような優しい眼差しを私に注いでくれていた。

『――想像してよ。心音が人の輪の中心に入っているところを』

 三年前、聖ちゃんにそう問われたことがある。

 問われた当初は、私の事を言われているのに、思い浮かべたのは聖ちゃんの姿だった。私の理想が聖ちゃんだったからだ。けれど、今は違う。たどたどしくも私の姿で、ちゃんと想像することが出来る。
 私の想像する私は、環の中心とまではいかないけれど、人が集まっている環の中に自ら進んで入ることが出来ている。

 本当は三年も経っているのなら、もっとあからさまな変化があってもいいのかもしれない。
 けれど、私はこれでいい。

 急な変化は、理に合わない。それは本物ではなく、キズを隠すためだけに見栄えを揃えたメッキを纏っているようなものだ。もしも暴風雨に襲われてしまえば、たちまちメッキは剝がれてしまうだろう。

「心音の話、たくさん聞かせてよ」

 ちょうどホットコーヒーも来たタイミングだった。

 私は聖ちゃんに促されるまま、色々な話を交わした。
 変わったこと、変われなかったこと、もがいていること、挑戦してみたいこと、将来のこと。私のことだけでなく、聖ちゃんのこともたくさん聞いて、とにかく話が尽きることはなかった。

 あの日に聖ちゃんに打ち明けなかったならば、ここまで話が弾むことはなかった。いや、そうじゃない。聖ちゃんが漸進的に変化が出来るように導いてくれなければ、今の私はなかった。

 昔の私は、心にたくさんのキズを負っていた。嫌な出来事が起こると、そのキズとなっている部分に染み込んで、更に私は痛みを覚えて蹲っていた。
 けれど、キズだらけだった私の心は、聖ちゃんのおかげで、削り、磨かれ、綺麗で滑らかな心になった。もちろんまだキズは残っているけれど、三年前に比べれば明らかに減っていた。

 キズが少なくなったおかげで、私は息のしやすさを覚え、楽に人生を歩めている。

「あ、聖ちゃん、見て」

 聖ちゃんとたくさん話して、カフェの外に出ると、雨空だったはずの頭上に晴れ空が広がっていた。

 この先も私の前に様々な問題が押し寄せる。生きていれば、多分避けることは叶わない。

 けれど、漸進的にでも都度解決していけばいいと分かったから、私は歩みを止めることはないだろう。

<――終わり>

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