【自作ホームズ・パスティーシュ①】ジェームズ・フィリモア氏の失踪
— ジェームズ・フィリモア氏の失踪 —
私たちが関わった事件は非常に多いので、手記にまとめるものを選択するのは容易ではない。あまり知られてはいないが、ロンドンを震撼させた『ホワイトチャペル地区連続殺人事件』や、今も謎が多い『黄金の秘密結社事件』にも彼は関わっていた。これらの事件については詳細が長くなるので、いつか語るべき時が来たら発表しようと思う。それにしても、シャーロック・ホームズが関わった事件の中でも、あの夜の事件は特に奇妙な事件だったと言えるだろう。
霧の立ち込めた通りを辻馬車の音が通り抜けていった。しばらくしてベイカー街221番Bのドアノックをたたく音がした。今晩は、あいにく大家は不在だ。夜も十時をとうに過ぎている。私は積み上げられた調査書類を漁っている大きな背中に困惑の表情を向けた。
「依頼人かもしれない。うまく対応してくれ。」
仕事をしている友人は、こちらに背中を向けたまま無愛想に答えた。私はやれやれと腰をあげ、玄関のドアを開けた。そこに立っていたのは、大きな鞄を抱えたご婦人だった。
「こんばんは。申し訳ないですが、こんな時間です。どうかまた後日……」
「あの……あなたがホームズさんですか?」
もちろん、私はシャーロック・ホームズではない。しかし、婦人の視線は私のやや後方斜め上に向けられていた。
「ホームズは私です。」
いつの間にか後ろに立っていた。
「驚かせないでくれ。あの婦人、先ほども申しましたが、今日はもう……」
私がお引き取り願おうとすると、鞄を抱えた婦人は、切羽詰まった表情で訴えかけてきた。
「ホームズさん、どうしても聞いていただきたいお話があるのです。どうか、お願いします。」
婦人の表情は怯え、目にはうっすらと涙が浮かんでいる。少し息も切れ、興奮気味のようだ。
「ワトスン。察するに、このご婦人は一刻を争う事態のようだ。中で話を聞く分には構わないだろう。」
私は少し驚いた。だが結局、彼の考えに従う事にした。何か危険な匂いを感じたのだろう。私の尊敬する友人にはその嗅覚があるのだ。そして、その事は私が一番よく知っている。いろいろな冒険をした相棒だ。その危険な匂いに誘われ、私たち二人は危ない橋をたくさん渡ってきたのだ。
相棒は、ご婦人の荷物を持ち、階段を上がり居間へと案内した。
居間では、羊皮紙の写本、さまざまな言語で書かれた専門書、何に使うのかも分からない実験器具、不気味な顔をしたアフリカの呪術人形、有名な判事の訃報を伝える新聞などが、乱雑で無秩序な様相を呈していた。
「申し訳ございません。二人で探し物をしていたもので、少々散らかっております。」
私は、盗人にでも入られたかのような部屋の状態をわびた。
「構いませんわ。」
依頼人は居間のありさまに少し困惑の表情を見せながら答えた。依頼人のご婦人は自身の名をメアリー・フィリモアと名乗った。
「長旅でお疲れでしょう、フィリモア夫人。お茶でも出したい所ですが、あいにく今晩は家主が不在なのです。ところで、フィリモア夫人。あなた、バースに行っていましたね。」
依頼人は驚嘆した 。
「どうして、それを?」
「簡単な事ですよ。あなたは大きな鞄を抱えている。そして動きやすいようにヒールのないブーツを履いている。どこかへ遠出をしていたのは明白です。」
それくらいは私にもわかった。しかし……。
「えーと、ホームズ。なぜバースという具体的な場所まで特定できたのだ。」
私が尋ねると、彼はふっと笑って言った。
「フィリモア夫人の上着だよ。」
「とても美しいお召し物だが……」
「注目すべきは横の裾部分だ。しっかりとした折り目がついている。長時間座ったままの姿勢でいたのだろう。その際、裾に折り目がついてしまったのだ。十分や二十分ではない。少なくとも二時間以上、列車の座席に座っていたのだろう。」
「なるほど。だが、観劇をしていたのかもしれない。」
「ワトスン、君はオペラを見に行く際、こんな大きな鞄を持って行くのか。そして、さらなる決め手となったのは彼女の指だ。よく観察しなさい。」
「失礼でなければ、拝見させていただけますか?」
私はフィリモア夫人に断りを入れ、指を観察した。細く長い指がすらりと伸びている。私の武骨な指とは大違いだった。爪も奇麗に切り揃えられていた。
「ふむ、彼女はきれい好きで几帳面な性格だ。」
「ああ、恐らくその通りだろう。しかし、左手に付けている銀の指輪の表面がわずかに黒ずんでいる。」
「あら、いつの間に。」
フィリモア夫人も気づいていなかったらしい。
「昔から汚れていた可能性もあるが、見ての通りフィリモア夫人は髪のセットや爪の手入れも行き届いている。長年、指輪の汚れを放っておくとは考えにくい。恐らく指輪の汚れは、最近付いたものだ。」
「しかし、ホームズ。一体どうして?」
「汚れは黒ずんでいるし、よく見ると指輪全体がやや黄ばんでいる。これは恐らく硫化だ。銀は硫黄と化学反応を起こすと黒っぽく変色してしまう。フィリモア夫人は指輪をつけたまま、温泉に入ってしまったのだろう。ロンドンから汽車で二時間以上の温泉地と言えば、思い浮かぶのはバースしかない。」
「さすがですね、ホームズさん。その通りです。」
フィリモア夫人は驚嘆と感心の入り混じった声で言った。私も彼の特技を何度も見ているのだが、毎度感心させられてしまう。類まれな観察眼と長年の経験による推察により、一目でその人物の職業などを言い当ててしまうのだ。ある時は、靴を一目見ただけで相手が潜入中の警官だと見抜いた。手を見ただけでスリの女を見抜いたこともある。彼は職業柄自然と身につく能力だと話したが、私には到底まねできない。
「さて、フィリモアさん。何があったのか、お伺いしてもよろしいでしょうか。」
依頼人は口を開いた。
「私は、ホームズさん、そしてワトスン先生のご活躍を承知しています。お二人は英国中で多くの事件を解決されていると聞いています。」
「ええ、まあ。」
私たちは曖昧な返事をした。あまりにも広範囲に知れ渡っているため、最近では反応しにくくなっているようだ。
「実は、私の夫が行方不明になったのです。それでこうして恥を忍んでお二方に相談しに来たのです。」
「恥ずかしがる事はありません。私が扱っているのは殺人事件ばかりではありません。探し物を見つけるのも私の仕事です。」
その言葉を聞くと依頼人は安堵し、事の詳細を語り始めた。
「うまく話せるかどうかわからないのですが、要領を得ない部分があれば申し訳ありません。まず私の夫は、ジェームズ・フィリモアと申します。元軍医で、今はスコットランド・ヤードで顧問を務めています。そんな夫が行方不明になったのです。」
「続きをお願いします。」
私が続きを促すと、フィリモア夫人は続けた。
「ここ一週間以上、夫は全く自宅に帰っていません。二日目までは、いつものことだと心配もしていませんでした。しかし、さすがに一週間ともなると話は別です。そこで私はヤードの皆様にお力添えを賜りたく伺いました。しかし……皆様、私の話に全く取り合っていただけないのです。」
「何か事件性がないと判断されたのですか。」
「はい。夫はヤードでの評判もよく、真面目な人間でしたから、自ら行方をくらます理由がありません。知り合いの警部さんがおっしゃっていたのですが、ヤードは最近起こっている強盗事件の調査でお忙しいとか。」
「もしかして、その知り合いの警部というのはレストレードですか。」
「そうです。ご存じなのですか。」
「ええ、私とこちらのワトスン博士はいくつかの事件で彼のお世話になったのです。」
スコットランド・ヤードのレストレード警部は、とある事件でホームズと知り合ってからというもの、ささいなことでもよく相談に来ているという。彼の捜査はホームズの後塵を拝することが多いようだが、私からすればヤードの中では、なかなかに侮れない人物だ。ふと横を見ると背の高い痩せた男が、手を口元へと持っていった。これは、彼が考え込む時に行う癖だ。
「あなたは最近、何かご主人の身辺に変わったことに気づきませんでしたか。たとえば誰か女性の影があるとか、またはお金の動きが普段と異なるとか。」
「いいえ、何も。夫は仕事も家庭も真面目すぎるくらいの人ですから、そんなことがあればすぐに気がつきます。それに、夫がヤードの顧問になる前までは、家庭の家事のほとんどは私が行っていました。今でも私ができない時は家政婦さんにお願いしていますから、夫が家事をすることはありませんわ。」
「バースにはどうして。あそこは貴族たちの保養地ですよ。」
「バースは夫の生まれ故郷なんです。夫の父は早くに亡くなりましたが、義母はバースで観光者向けのお土産屋を営んでいました。義母はまだ働ける年齢ですが、今はもう土地を売ったお金でゆっくり過ごしています。もしかしたら夫がそこにいるんじゃないかと思い、いてもたってもいられず汽車で向かいました。結局、無駄な努力に終わってしまいましたが。」
「なるほど。とにかく、ジェームズ氏について調べる必要がありそうですね。今日はもう遅いので、さっそく明日の朝から調査をしようと思います。」
「そういえば、もう一つ気になることがあるんです。」
「ほう、何でしょう?」
「一週間前、夫が出勤した後のことですが、夜遅くに電報が届いたのです。その電報の内容がどうしても引っかかるのです。」
「一体、何と書いてあったのですか?」
私は続きを促した。
「内容はこうでした。『さようなら、美しくて残酷な方、VR』」
「いたずらにしては手が込んでいますね。」
「はい、それで私はヤードの方たちにも相談したのですが、やはりいたずらだと思われてしまいました。しかし、不安で堪らないのです。明日にでも夫は殺されてしまうのではないかと……」
「ホームズ、この文章は何を意味してるのかな? ある種の遺書と受け取れる様だが。」
「うむ、フィリモア夫人。この『美しくて残酷な方』あるいは『VR』というイニシャルに何か心当たりはありますか?」
「全く心当たりはありません。ただ、もしかするとイニシャルは、Victoria Regina、つまりビクトリア女王のことかもしれません。あそこの壁にも百発の銃弾でVRと書かれていますね。」
ここ英国では女王への敬意を込めて、郵便ポストや店の壁にVRと書く風習がある。この居間の主はそれを銃弾で書いたようだ。私にはすっかり理解できない敬愛の示し方だ。
「なるほど。それならばホームズ、この『美しくて残酷な方』とは女王のことなのだな。」
「いや、すべては憶測だ。電報の文章の意味、それどころか事件の全体像も全くもって謎だらけだ。ワトスン、どうやら失踪する前のジェームズ・フィリモア氏の行動を調べる必要がありそうだ。このようなつかみどころのない事件では、より多くの情報が必要になる。我々やフィリモア夫人でさえ知らないジェームズ氏の秘密が事件の輪郭をより鮮明にしてくれる。情報は強力な武器になるのだ。」
「フィリモア夫人、まだお話になりたいことがありますか。よろしければ明日にでも、あなたのご自宅を訪れさせていただきたいのですが。」
「ええと、もう充分です。こんな時分ですから。今日は失礼します。」
フィリモア夫人は懐中時計を見つめながら言った。時計の鎖の先には、どこかの国の硬貨が付けられている。すでに日付が変わりそうな時刻になっていた。
「突然押しかけてしまったのに、本当にありがとうございました。」
そう言うとフィリモア夫人は立ち上がり、玄関の方へと向かった。
「待ってください!」
相棒が大きな声でフィリモア夫人を引き留めた。
「おかしいな。何かが変だ。」
彼の手が口元へと動いた。
「どうした、ホームズ。」
「よく考えると何かがおかしい。フィリモア夫人、なぜあなたはこんな時間にわざわざ訪ねてきたのだ。我々もよく知っている通り、ロンドンの夜は危険だ。」
「それは、一刻を争う事態だったのだろう。君が言ったのではないか。」
「確かに、私は夫人の様子を見てそう思ったが、夫人の話にはおかしなところがあるのだ。」
フィリモア夫人は階下へと向かう階段の前で何も言わず立ち止まっていた。
「ジェームズ氏が失踪したのはいつだ。今朝や今晩ではない。一週間も前のことだ。探偵に依頼するなら昼間に訪れる方が自然じゃないか。」
「確かに。あ、しかし、自殺をほのめかすような電報があったじゃないか。」
「電報が届いたのも一週間前の夜遅くだ。もしその時点で夫人がジェームズ氏の自殺を疑っていて、なおかつ警察にも取り合ってもらえなかったとしたら、なぜ、翌日にでも探偵を訪ねない。夫人は一週間もたって、なぜ今晩ここを訪ねたたんだ。」
「言われてみればその通りだな。」
夫人はなおも無言でこちらに背を向けて立っている。
「電報の話も奇妙だ。」
「『さようなら、美しくて残酷な方、VR』。確かに意味はわからないが、何か引っかかるのか。」
「『VR』というイニシャルだ。」
「夫人がさっき言っていたように、女王のことではないのか? あるいは事件に関係のある人物の名前かもしれない。」
「違う。あれだ。」
彼は壁を指さした。壁には、銃弾が打ち込まれたと思われる穴が無数に空いている。その穴がVRという文字を形作っていた。
「確かにそこの居間の壁には、『VR』と書かれている。いや、なんと書かれているかは大した問題じゃない。夫人は言っていたな。『百発の銃弾でVRと書かれていますね。』と。なぜ一見しただけで、百発の弾痕とわかったのだ?」
「ああっ!」
私は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
「夫人は玄関と扉を開けた時、君に『「あの……あなたが、ホームズさんですか。』と尋ねた。我々とは初対面のはずだ。当然この居間に入った事もないはずだ。」
私は居間の壁の弾痕を見つめた。確かに一見しただけでは、八十発なのか九十発なのか、あるいは百発なのか私にも分からない。
「バースの話もおかしい。ジェームズ氏を探して実家を訪ねるのは自然な事だろう。しかし、夫人は温泉に入っている。旦那がどこを探しても見つからないという状態で、ゆっくり温泉に浸かろうとは、私なら思わない。」
名探偵は、夫人の元へゆっくりと歩み寄りながら訪ねた。私もそれに続く。
「フィリモア夫人、あなたは、何者だ?」
その時、何者かが玄関のドアを強くノックする音がした。
「おい、開けるんだ! 中に居るのは分かっている!」
聞き覚えのある男の怒号が二階の居間まで響き渡った。私は何が起こっているのか、そして、どうしたらいいのか分からなくなってしまった。相棒は、また爪をぎりぎりと噛んでいた。この状況を逃れる方法を必死で思案しているようだ。
「おい、その女を捕まえろ!」
相棒が言った。私はすぐさま階下へ逃げようとしていた女の元に駆け寄り、羽交い絞めにする。ポケットからナイフを取り出し女の首に当てる。女は怯えていた。
「大人しくこのドアを開けろ!」
間違いない。レストレードだ。あの男の声だ。ばれてしまった。私は恐怖で脱力する女を抱えたまま、ジリジリと居間へ後退りをした。
「レストレードだな! こっちには人質がいる! この女が殺されたくなかったら、今すぐ捜査員を全員どこか遠くへ追いやるんだ!」
相棒が怒鳴る。爪を噛みながら、血走ったぎょろりとした目が左右に動いていた。せっかくのでかい儲け話だったのに、こんな所でまた捕まるわけにはいかない。
「なんだって! よく考えろ! その人に危害を加えてみろ。さらに罪を重ねる事になるのだぞ!」
「よく考えるべきはお前だ、レストレード! この女を生かすも殺すも、その決定権はこちら側にあるんだぞ!」
相棒の言葉にレストレードは、言葉を失ってしまった。
「今から俺たちは玄関に向かう。人質も一緒だ。誰も俺たちに手を出すな。こうなったら探し物は諦める。部屋を荒らしはしたが、何も奪っちゃいない。俺たちを見逃すんだ!」
相棒の要求にレストレードは、少し間を置いてこう言った。
「……分かった。要求を飲もう。」
さすが、私の尊敬する相棒だ。どうやら大金は貰えなさそうだが、捕まらずにすみそうだ。もうあの地下の牢屋に入るのは御免だ。陽の灯りが入らず、ジメジメとしたカビだらけの冷たい石の床、パサパサのパンと味のない汁、もう二度と嫌だ。
「よし、行くぞ!」
相棒がゆっくり一階へと向かう階段へ向かう。私も人質の女を抱えたままそれに続こうとした。その時、後頭部に強い衝撃が走った。思わず人質に突きつけていたナイフを床に落としてしまった。視界が斜めになり、地面が近づいてくるのが見えた。私は何が起こったのか分からず相棒の方を見る。ゆっくりと地面に倒れ込んでいく痩身の男の姿が見えた。
「もういい。十分だ。」
ホームズの言葉に私は朗読を止めた。ここは、ベイカー街221番B。玄関を開け、一階のハドスン夫人の部屋から一七段ある階段を登った二階にある名探偵の居間だ。この部屋に、当時ロンドン市内で注目を集めていた二人組の強盗が侵入した事件から数カ月がたっていた。部屋はすっかり片付けられ元のあるべき姿を取り戻していた。シャーロック・ホームズは暖炉の前の椅子に座っている。階段の前にはスコットランド・ヤードのレストレード警部もいる。
「あの事件のことを思い出すと、今でも腹が立ってくる。」
いつだって冷静沈着な名探偵が珍しく感情をあらわにしている。
「はっきり言って取るに足らない文章だ。加えて、僕に成りすましていた背の高い方の強盗は、何て愚かな推理力なんだ!」
「それは私も同じだよ、ホームズ。この偽ワトスン博士はまったく私に似ていない。これじゃまるで『名探偵の間抜けな助手』じゃないか。」
二人組の強盗は不法侵入により勾留されたが、たいした物は盗んではいなかったため、思いの外早く出所していた。そしてあろうことか、あの夜の事件のいきさつを手記にして三流犯罪雑誌に送りつけようとしていたのだ。二人組の強盗が根城にしていた賃貸の事務所を捜査していたレストレードが草稿を発見し、わざわざ私 —本物のジョン・H・ワトスン— の元へ届けてくれたのだ。
「しかし、ホームズ、君の機転のおかげであの二人組を無事に捕まえることができたじゃないか。」
レストレードが言った。
「いや、私のおかげではない。二人を捕まえることができたのは、あの人の功績だよ。」
ホームズが階段の方へと目をやる。
「その通りだな。」
私も同意する。お茶を持ったハドスン夫人が階段を上がり私たちのいる居間へやってきた。強盗に立ち向かった勇敢なご婦人は言った。
「三人とも、お茶でもいかがかしら。」
ハドスン夫人の淹れた紅茶を啜りながらレストレードが口を開いた。
「せっかくだから、もう一度、あの夜の事件のことを思い出してみようじゃないか、ホームズ。」
「……そうだな。正直に言うと乗り気ではないが、興味深い事件だったことは間違いない。」
ホームズは、紅茶を一口飲み下すと当時のことを思い出したのか、ゆっくりと話し始めた。
「あの日私は徹夜で調査をしていた。その疲労からか椅子で眠り込んでしまっていた。玄関の鍵も開けっぱなしだった。するとそこへ二人組の強盗が忍び込んできたというわけだ。私が目を覚ますと目の前には拳銃とナイフが突きつけられていた。二発ほどの拳も頂いた。」
「まったく。鍵をかけないなんて何て不用心なんだ。」
レストレードが呆れた口調で言った。
「あの日は、知人と一緒にバースへ旅行に行っていたハドスン夫人が帰ってくる予定だった。重い荷物を持っているハドスン夫人が家に入りやすいように、あえて鍵をかけなかったのだ。なんにせよ鍵を閉め忘れた事で、あの二人の手助けをした形になってしまったのは私の落ち度だ。」
「あえて鍵をかけなかったというのは本当か、ホームズ。単に忘れただけではないのか。」
私が言うと、ホームズは少しムッとした表情を見せた。
「とにかく、私は捕まってしまった。あの二人組の強盗が探していたのは《索引》だった。」
《索引》とはホームズが作成した人物リストのことである。ホームズは長年にわたり、あらゆる人物に関する記録を要点とともに整理し、いつでもどんな問題、どんな人物を聞かれても即座にそれに関する情報を得られるようにしていた。米国出身コントラルト歌手から海軍参謀少佐まで、あらゆる人物がリストに記載されている。
「どうやら二人には依頼主がいたようだ。その《索引》を高額で買い取る約束だったらしい。奴ら、依頼主が何者なのかについては決して口を割らなかったがね。」
レストレードが呟いた。ホームズが続ける。
「銃を押しつけられた私は寝室へと連れていかれた。私が口を割らないと分かっていたのだろう。奴らは私を縛った後で、ゆっくりと居間を物色するつもりだったようだ。私は縄で縛られる直前に、二人に一つ提案をした。『私を縛るのは構わない。だがその前にこの部屋空気が悪いようだ。そこの窓を開けさせてくれ。』とね。幸運な事に彼らをその要求を呑んでくれた。」
「なるほど、窓を開ける隙にあの時計を外に投げたのだな。」
私の言葉にホームズは窓の方を指差しながら答えた。
「その通りだよ、ワトスン。『赤毛連盟』事件の際に、ジェイベス・ウィルスン氏がお礼にくれた懐中時計だ。寝室のキャビネットの上に置いてあったものだ。私は懐中時計に血を付け、彼らの隙をを見て窓の外に投げたのだ。」
「それをハドスンさんが拾ったのですね。」
レストレードが尋ねると、静かに紅茶を飲んでいたハドスン夫人が答えた。
「ええ、私はちょうど小旅行から戻ったところでした。すると、家の前の道路に血のついた懐中時計が落ちているのを見つけたのです。ホームズさんが以前解決した事件の依頼人からもらったものだとすぐに分かりました。鎖には中国の珍しい硬貨が付いていましたから。」
「私はその日の夜にハドスン夫人が帰宅することを知っていたので、警告の意を込めて時計を投げた。『私は今危険な目に遭っている、警察に知らせてくれ』と。通行人が落とした品と思われないように、特徴的な時計を使ったのだ。しかし、ここで不運にも奇妙なすれ違いが起きてしまった。そうですね、ハドスン夫人。」
「ええ、二階の窓を見ると、明かりの中に二つの人影が見えました。ホームズさんとは明らかに違う人影だったので、もしかしたら近頃、巷を騒がしている強盗じゃないかと思いました。私は近くを通った辻馬車の御者に幾らかのお金を渡して警察に連絡するよう頼んだのです。」
「それで、本署に御者が通報に来たのか。しかし、なぜ家の中に入ったんだ? どうしてそんな危険な行動を……」
レストレードの疑問にホームズが答える。
「それが『奇妙なすれ違い』だったんだよ、レストレード。私が投げた懐中時計の鎖には中国の硬貨がつけられていた。ジェイベス・ウィルスン氏が中国旅行をした際にお土産で買ったものだ。それを拾ったハドスン夫人は意図を読み違えてしまったんだ。硬貨と時計……。『Buy time —時間を稼げ—』とね。」
「なるほど。それでハドスン夫人は依頼人のふりをすることにしたのか。」
私の言葉を聞くと、ホームズは続けた。
「ああ。私は寝室で手足を縛られ、猿轡を付けられていた。ドアの向こうからハドスン夫人の
の声が聞こえてきた時は気が気ではなかったよ。」
「すみません、ホームズさん。」
ハドスン夫人が心の底から申し訳なさそうに謝った。
「謝らないでください、ハドスン夫人。私が紛らわしいメッセージを送ってしまった結果、あなたを危険な目にあわせてしまった。謝るのはこちらの方です。」
ホームズがハドスン夫人を慰めた。
「しかしホームズ、なぜ強盗の二人組は君と私のふりをしようとしたのだ?」
「ハドスン夫人の顔を知らない強盗たちは、ハドスン夫人を本物の依頼人だと思った。一刻を争う事態かもしれない依頼人を下手に断って怪しまれても困ると思ったのだろう。ノッポの方の男はそういう勘だけは働く様だったからね。いっその事、家主のふりをして適当にやり過ごそうと思ったのだろう。まさか御者を通じてレストレードに通報がいっているとも知らずにね。」
「ふむ、確かにのっぽの男の方はなかなか頭が切れるのかもしれない。君の特技と同じようなことができるようだった。」
私がそう言うと、ホームズは頭を振りながら言った。
「それは違う、ワトスン。あの男は答えを知っていたんだ。レストレード、奴らは何も盗んでいないと言っていたが、押収物の中に財布があったな。」
「ああ、そうだ。ハドスンさんの財布だ。」
レストレードが答えた。
「のっぽの男は階段を登る際に、ハドスン夫人の旅行鞄から財布を抜き取っていたんだ。」
「抜け目のないやつだ。」
私が言うと、ホームズは苦笑いしながら言った。
「まったくだ。そしてのっぽの男は財布の中に旅券を見つけた。バース行きの汽車の半券だ。温泉に向かった事を知っていれば奴が偽の推理を組み立てられた事はそれほど驚くべきことではない。のっぽの男はハドスン夫人の黒ずんだ指環を見てすぐに『バースの温泉で変色してしまった』と分かった。しかし、それは温泉に行った事を知っていたからだ。」
「なるほど。それにしてもハドスンさんの機転も素晴らしかった。咄嗟に架空の人物や情報をでっち上げるなんて。」
レストレードが言うと、ハドスン夫人が口を開いた。
「私に思いつくのはそれぐらいでしたから。」
「いや、立派ですよハドスンさん。ところで、ジェームズ・フィリモアという人物は知り合いの誰かですか?」
レストレードがたずねると、ホームズが割って入った。
「レストレード君、君が偽名や架空の逸話を作るとしたらどうする? 恐らく頭に浮かんだ有名人や知人の人名リストから適当なファミリーネームとファーストネームを組み合わせるでしょう。逸話についても、他人から聞いた話をあたかも自分の逸話のように話すんじゃないか。教養のない彼らには分からなかったらしいが、ハドスン夫人が時間を稼ぐためにでっちあげた電報に出てくる『さようなら、美しくて残酷な方』というのは、シェイクスピアの『十二夜』に出てくるシザーリオがオリヴィアに言い放った台詞だ。偽名についても例外ではなく、その場で目に入った人物と自分の知っている人物の名前を組み合わせたんだ。あの日、居間のテーブルの上には海事高等法院の最後の判事を務めたロバート・ジョセフ・フィリモア卿が亡くなったという記事が一面に載っていた。ハドスン夫人はその新聞が目に留まったのでは無いですか?」
「ええ、ホームズさん。その通りです。メアリーというのはもちろん、あなたの奥様の名前ですよ、ワトスンさん。」
「などほど。では、ジェームズというのは?」
私が尋ねるとホームズは、呆れた顔をした。ハドスン夫人は、くすくすと笑っている。レストレードは私と同じく理解できていなようだ。
「何を言ってるんだ、ワトスン。それは君の事だよ。」
ホームズにそう言われて、私は思い出した。ジョン・H・ワトスン、私のミドルネームであるHは、《Hamish ヘイミッシュ》の略だ。《ヘイミッシュ》をロンドン風に発音すると《ジェームズ》だ。
「なんという事だ。気が付かなかった。言われてみればジェームズ・フィリモア氏の元軍医という経歴も私と同じだ。」
私がそう言うと、ハドスン夫人が私に言った。
「でも、ワトスンさんには悪い事をしてしまいました。あなたとメアリーの名前を勝手に拝借してジェームズ・フィリモア氏を作ってしまったのですから。」
「何をおっしゃるのですか、ハドスンさん。私はあなたの機転に感服しましたよ。」
私の言葉を聞くとホームズは私の方に向き直り言った。
「ハドスン夫人だけじゃない。ワトスン、君の機転がなければ奴らを捕まえられなかったよ。」
あの日私は自宅で就寝の準備をしていた。そこに、ヤードの警官が慌てた様子で訪ねてきた。221Bに何者かが侵入しているかもしれないという通報を受けたレストレードが警官を寄越してくれたのだ。私は辻馬車に乗り急いでホームズとハドスン夫人の家へと向かった。221Bに到着すると数人の警官がいた。レストレードは玄関前で侵入者と交渉をしている所だった。ハドスン夫人が人質に取られているらしい。なんてことだ。私はホームズの寝室がある二階の窓が見える家の裏側に回った。窓を凝視すると微かに血痕が付いているのが見えた。間違いない、ホームズは寝室にいる。私は排水管に足をかけ、二階の窓の飾り枠に手をかけた。幸せ太りなのだろうか、自分が思っている以上に体が重い。結婚してから増えた体重をなんとか持ち上げ、僅かに開けられた窓に上半身を押し込めた。音を立てないように寝室に転がり込むと、そこには縛られたホームズがいた。私は強盗に悟られないよう気配を殺し、ホームズを縛っていた縄を外していく。猿轡を外し終えるとホームズは大きく深呼吸をして私にこう言った。
「やあ、ワトスン。」
その後起こった事は、強盗の手記に書かれていた通りだ。ホームズと私は強盗が階下に気を取られている隙に忍び足で背後に周り、寝室にあった陶器の置物で彼らの後頭部に強烈な一撃を食らわせた。
「大丈夫ですか。ハドスン夫人。」
ホームズがハドスン夫人を介抱する。私が玄関の鍵を開けるとレストレードが突入してきた。強盗はその場で逮捕された。それがあの事件の顛末だ。
紅茶を飲み終えたレストレードが、そろそろ仕事に戻ると言い帰り支度を始めながら言った。
「とにかく、ハドスンさんが無事でよかった。そしてホームズ、ワトスン博士。君たちはあの愚かな二人組の命も救ったんだ。」
「どういう事だ? レストレード。」
私の問いにレストレードは笑いながら答えた。
「このご婦人にもし何かあったら、あの二人はロンドン中から命を狙われていただろうからね。」
私とホームズはその言葉に思わず笑みを浮かべた。勇敢なご婦人は、照れくさそうに俯いていた。