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神の叡智

病勢も非常に強く
長い間苦しんだ。
葛藤していたときより
「悲しい納得」に至ってからの方が
まだマシだったが
私の中で葛藤は
時に表面化し、
時に心の底に沈んだ澱となって
コントロール不能状態となった。

苦渋に満ちた日々。

なぜだ。
なぜ父は死んだか。
なぜ私は生きているのか。
なぜこのような苦しみに喘ぐ日々を送っているのか。
どんな意味があるというのだ。

神は、この問いには
一切答えなかった。

「悲しい納得」から
そのまま月日が6年流れた。

   *   *   *

ところが。
6年経過したある日、
非常に気になる小説があって
それを読んだ。
「ありふれた祈り」というミステリーだが
このタイトルには
牧師の妻である女性の葛藤が表されている。
心から祈るなどできない、
どうしても祈るなら
せめてありふれたものにしてくれ、
という彼女の叫びそものの、
それがこのタイトルだ。
これは私そのものだった。

その時のことは
すでにここに書いた。

簡単に振り返る。

なぜだ、と問う私に
「神の叡智」
の存在が差し出された。
ずっと「なぜだ」と問うてきた。
しかし、実は、
父の死を経験した私は
実は問われていた。
私の方が「人生に何を差し出せるか」
を問われていたのだ。
不条理を引き受けて、
人生の責任を負うべきなのだ。
それが神に応えるということ。

この経験は生涯忘れ得ないものとなった。

この日以来、
私の探究が始まった。
答えは、きっとここにある。
このnoteは、その記録であって
すでに過去の記事となって
残っている。

   *   *   *

「ありふれた祈り」の衝撃から
ちょうど一年後のこと、
職場のボスが召天した。
この人にならついていきたいと思える
尊敬すべき上司だった。

ちょうど職場は
大きな組織の改編、
というより、
一度廃止→大きく立ち上げる
というタイミングで、
大きな事業に取り掛かっている
その真っ最中だった。

私はボスの下で働く副ボスで
実質上私は自動的に
ほとんどボス的働きを
することとなってしまった。

それだけは嫌だと、
若い頃から言っていたのに。
この不条理。
一体なんなんだ。
叫びたかった。

しかし、私は答えをすでに持っていた。
私が「人生に問われて」いるのだ。
この役目を負うことが
その問いへの答えになるのだ。

たくさんの困難と涙、
不条理な思い、
ハードな労働が続いた。

しかし私はなんとか耐えた。
答えを知っていたからだ。
知らずに苦しんだ月日の方が
よほど苦痛に満ちていた。

病勢はなんとか
コントロール下に置くことができ、
自分の調子を自覚して
薬物の調整を行うようになった。
大きな問題が起きると
当然調子を崩したが
なんとか持ち堪えた。



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