狂い咲く

 複数人での会話の際、大人の振る舞いとして、興味のない話題であっても関心を寄せたり、そのような表情をしてみせたり、的外れでないコメントを用意して、タイミングを見計らって発言をする。コメントを用意していてもいつの間にか別の話題に切り替わっていることもあり、上手く誰とも被ることなく、みんなにうんうんと言ってもらえるような発言ができた時はちゃんとこの会話に参加できているのだと安心、もしくは自己肯定感が高められる。私は異質ではございませんとでも言うように。
 出張帰りの新幹線の中で何も考えず、youtube見ていた。関連動画をサーフィンしている間に芸人の爆笑問題の太田さんとクリームシチューの上田さんが配信している番組の「太田上田」でゲストとして芸人の永野さんが登場している回にたどり着いた。ゴッホよりラッセンの人である。彼はその配信番組の中で爆笑問題の太田さんをお兄ちゃんと呼んでいてとても尊敬しているとのことだった。理由については以前出演したバラエティー番組で永野さんの暴走によってスタジオの空気は静まり返り、どうしようもない空気の中誰も手を差し伸べることもできないところ、唯一、お兄ちゃんこと太田さんだけが永野さんに追随するように暴走し、一緒にスタジオの空気を凍りつかせたという。太田さんにとっては何のメリットもないにも関わらず、暴走に付き合ってくれたことが嬉しかったそうだ。
「太田さんは共に死んでくれた。僕は共に死んでくれる仲間を求めている」と語り、続いて
「我々は仕事としてやっていない。この40分50分に賭けている。それをあなた(上田)みたいな人間はみんながわかりやすいことばでまとめて共感を誘って浅い笑いをとって、だけど誰も心から笑うことはない。テレビはどんどん平均的なものになっている」と上田さんとテレビ全体を批判した。

 永野さんの言葉に自分自身の振る舞いについて嫌気がさすのと同時に勇気づけられた。自分自身で居ていいのだと。

 高校からの友人である、あった彼と僕の知り合いの女性と三人で食事をしたことがあった。経緯としては長年恋人のいない彼から誰か女性を紹介してくれと頼まれ、以前に連絡先を交換した女性に事情を説明し、ご迷惑ではなければどうですかと連絡を送ったところ、美味しいお店に連れて行ってくれますかと返事が来たので、懸命に店を探し出し、三人で食事をすることとなった。
 当日、予約したバスク料理のお店の「アラルデ」で待ち合わせをしていたが、仕事の都合で僕が30分ほど遅れ、初対面の二人が顔を合わせた。比較的社交的な彼女は彼に対し、初対面の男女が交わすであろう、質問をいくつか投げかけたが、彼は「はあ」とか「うーん」とか曖昧な返事を返すだけで、出会ってから10分程会話、彼女のインタビューが続いた後、20分の沈黙が訪れたと後々彼女から聞いた。
 僕が到着すると、彼と彼女はフォアグラのショコラ、生ハムと無花果のマリネを食べ終えたところだった。
僕は久しぶりに会った彼女に挨拶をしてから、遅れたことを謝罪した。彼は「別に大さんがおらんくてもええよ」と言った。
 僕も彼女とはほぼ初対面に近い間柄でお互いの情報を把握しきれていなかったので確認作業のようにお互いの情報を一通り交換し、彼についても大まかに説明した。
 その後、ウニとオイルサーディンがのったピンチョス、かぼちゃとナッツの冷静スープ、焼いたイカの上にからすみがかかった料理などが運ばれてくる中で徐々に彼も閉ざしていた心も開きだし、三人の共通の趣味であった映画についての話題となった。
彼はスタンリーキューブリックが如何に前衛的な監督であったか、クリストファーノーランの作る映画が現代映画の完成形だとか熱く語り、僕は彼の解釈と目線が非常に好きで、話にどんどん引き込まれて行き、彼女はいまいち理解しきれないところもあったと思うが、わからない箇所は彼に質問し、必死に理解しようとしてくれた。とても良い人だ。
 一通り話し終えると彼は煙草を吸いに店を出た。
彼女と二人きりになったところで、僕が来るまでの間はどうだったのかと質問した。彼女は怪訝な顔をしながら、僕が来るまでの30分の様子を説明した。
 彼が戻ってくると、今彼女と話していた内容を彼に伝えた。彼は「無理して誰かと仲良くなろうと思わんし、仲良くなるタイミングって自然とあるから、だから最初は沈黙もあったけど、今はこうして仲良く楽しく話してると思ってるし、今は僕ばっかり喋ってるけど、僕が聞くこともあるし、ある程度の常識人としての会話のテンプレートみたいなんがあると思うけど、僕は僕の話したい事、聞きたい事、タイミングとその時の気持ちがあるからそれを優先する」といった。僕は心の中で感動したが、彼のように真っ当に生きることはできないだろうと思った。

 社会人になってから、「共感」する必要性と便利さを知った。一方的にならず相手の価値観や考えを理解しようとする心。特に利害関係の一致しない相手にこそ「共感」や理解しようとする気持ちが必要だと思った。そのような考えに至ってからは人から悪い印象を抱かれることはなくなったと自分では思っているし、むしろ好感を持たれやすいとさえ思っている。たぶん。そのような自分に味をしめて、誰かと話す時「うんうん」と共感してみせたり、相手の考えていることを想像し、適切な答えを頭の中で創り出し、相手の求めるタイミングで発する。
 共感することや相手を理解しようとする心は必要で大切だが、そのような時の僕は相手への敬意は少なく、ただおかしくないかおかしいか、正解か間違いかの軸で発言を考えただけの好感を持たれることに囚われた囚人である。

 もちろんそういう会話が必要なときもあるが、それがすべてではないし、もっと心を打ちあうような、青臭い表現になるが、魂が震えるような、身体の芯にずしんと響くような言葉を欲したいし、相手の心を刺すような言葉を放ちたい。大げさかもしれないがただその瞬間に賭けたい。
 平均的な価値観に囚われ、そこを追い求めすぎると、本来自分自身が求める価値観や感動に対して何も思わなくなる。そんな柄でもないのに立ち回りが小器用にできるようになり、ごまかし方を覚えてしまって、なかなか自分が何を考え、思い、どうしたいのかさえいまいちわからなくなってきているが、二度と訪れることのないその瞬間とその人と自分自身がいる空間で自分自身のためだけに発言することがあってもいいのではないかと思った。私は異質なので殺せるもんなら殺してみてくださいませ。そのような精神で狂い咲きたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?