「佐渡島の金山」を巡る
今年7月に世界遺産に登録された「佐渡島の金山」を2泊3日、実質1日半で回ってみた。
自身、初新潟にして全く新潟市中心部には立ち寄らず、新潟空港から新潟港に直行し、そのまま船に乗って佐渡を目指した。
「佐渡島の金山」の概要
世界遺産「佐渡島の金山」は大きく分けて、2つの構成資産からなる。1つは「西三川砂金山」、もう1つは「相川鶴子金銀山」である。「相川鶴子金銀山」は、主として金が採掘された相川エリアと銀が採掘された鶴子エリアからなる。
「西三川砂金山」
川を堰き止め、水路を作り、その水路に山から採掘した土砂を流し込み、その土砂をめがけて堰き止めていた川の水を一気に流し込む「大流し」という技法で、土砂の中から砂金を採取していたとされる山あいの集落、笹川集落を訪問した。
集落には、能舞台のある大山祗神社(おおやまずみじんじゃ)や金山の世話役をしていた金子家の住宅・金子勘三郎家などが残っており、集落からは砕石をしていた地元のシンボル的な山・虎丸山が見える。また佐渡奉行所から派遣された役人が住んでいたとされる金山役宅跡には石垣が残っており、道を挟んだ現在畑となっている向かいの土地は金山役所跡と推定されている。
周辺を散策していたところ、何やら石塔が立っており、横にあった看板を見ると、旧金山地区と旧笹川地区との集落の境を示すもので、笹川集落は戦国時代末期には大量の砂金を上杉氏に納めていたらしい。
「相川鶴子金銀山」
相川エリア
相川エリアは、金鉱石を採掘していた鉱山のある上相川地区と鉱山労働者の住居や佐渡奉行所があった相川上町地区から成る。
上相川地区には、観光地化された有名な史跡佐渡金山があり、江戸時代に開削された手掘りの「宗太夫坑」と明治時代に開削された機械掘りの「道遊坑」を見学することが出来る。
相川上町には佐渡奉行所があった場所から登り坂の京町通が通っており、この通りの両側には鉱山労働者の住宅があったとされ、現在もその一部が残っている。そして坂がしだいに急になったあたりに旧相川拘置支所がある。
日中は無料で一般公開されているが、管理人はおらず、自分で鍵をはずし中に入るというスタイルである。
旧相川拘置支所の前には最近設置された案内板がある。いわゆる朝鮮人徴用工の問題について、日本が世界遺産登録の際に「金山全体の歴史に関する説明・展示戦略を強化すべく引き続き努力する」と表明したことに対する佐渡市が行った対応策のひとつである。周辺3ヶ所に設置された案内板のひとつが、ここ旧相川拘置支所の前にある。案内板の説明によると拘置支所が建てられる前に朝鮮半島出身者の労働者の独身寮があったというものである。
鶴子エリア
鶴子エリアは、相川エリアとは異なり、人里から離れた山の中にある。
訪問した日はあいにくの天気で、もちろんこんな山の中に来ている者は誰もおらず私一人だった。
スタートは鶴子公園から道路沿いに石碑と案内地図はあったが、あとは山の中を案内板を目印に登って行かなければならず、結構ハードな登山となった。最初に、代官屋敷跡を通り、そのあと鉱山町があったとされる鶴子荒町遺跡を通って、鉱区境界杭の案内板まで登ったが、その更に上にある坑道まで行くのはやめることにした。
関連する史跡
せっかくなので構成資産ではないものの国の史跡となっている2ヶ所を訪問した。
北沢浮遊選鉱場跡
ICOMOSから「江戸期における採鉱技術と社会文化システムを反映していない」として、資産範囲から除き緩衝地帯にするよう事前勧告を受け、最終的に日本政府はこれを受け入れ資産から除外した北沢地区の中心的な産業遺構である。
ちょうど佐渡を訪問した期間中、夜にライトアップされると聞き、朝と夜の二度訪れた。
大間港跡
明治時代、相川金鉱山から採掘された鉱石を船積みするために使用された港跡が北沢浮遊選鉱場の近くにあるということで、朝早く訪れた。
現在も石積みの護岸やトラス橋、ローダー橋脚、クレーン台座が残されている。
まとめ
観光地として見ると、やはり相川エリアということになる。
移動という観点からすると、両津港から相川エリアまで車で50分程度、両津港から西三川の笹川集落まで同じく50分程度、相川エリアから笹川集落までは40分程度と車無くしては点在する遺産を見て回ることは不可能である。
したがって、世界遺産「佐渡山の金銀」を巡るには事前にレンタカーの手配は必須であり、移動時間についても十分にみておく必要がある。
ちなみに今回私はこれら世界遺産関係の場所以外に、島の南にある宿根木という町も観光した。迷路のような細い道が張り巡らされた集落で、北前船が往来した港町で、鉱山町とは違った佐渡の風景を見ることが出来た。