永川玲二「意味とひびき————日本語の表現力について」 (日本文学全集30「日本語のために」)/中村昇「哲学者は何を言っているんだ?」 27.日本語と哲学(1)」
☆mediopos-3153 2023.7.6
歳を重ねるにつれ
じぶんの使っている日本語が
いかに貧弱かということを
実感させられることが多くなる
若い頃はそうした貧弱さを
難しそうな言葉やカタカナ語を使うことで
気づかないでいようとしていたのだろうが
さすがにいつまでも鈍感で脳天気ではいられない
ずっと広告の仕事をしてきた関係もあるが
そこではやたらとカタカナ語が多用される
しかも最近のWeb関係となると
ほとんどアルファベットの略語ばかりが
暗号のように飛び交うことになる
ほとんどがアメリカンなマーケティング用語であり
それらを使ったコミュニケーションをするのは
言語使用において豊かな現象であるとはいえない
日本語はかなり特殊な言語現象でもあり
表記においてもひらがな・カタカナ・漢字
そしてさらにはアルファベットを組み合わせて表現される
しかも縦書きも横書きも自由にできる
漢字の読み方も漢音読みと訓読みがあり
しかもその読み方は特に地名や名前など当て字も多く
慣用としてか読めないもものばかりだ
また西洋的な主語・述語的な理論のなかで
日本語の文法もかなり歪になっているが
昨今少しずつ理解されてきているのは
「日本語には主語がない」という事実である
今回とりあげた
永川玲二「意味とひびき————日本語の表現力について」は
そんなに新しい論考というわけではないが
「「幕末から明治にかけて日本の知識階級は
まことに多彩な、ぜいたくな言語生活をしていた」
ということから論じ始められている
漢文・いわゆる現代でいう古文・和歌・戯作(都々逸)など
「彼らは何種類もの文体を、
場合により必要に応じてみごとに使い分け」ていたのである
しかも幕末から明治からは
オランダ語や英語などもそれなりに浸透してくる
当時は現代に比べて情報量としては少なかったかもしれないが
基礎的な教養のフォーマットを学んでいた
いわゆる論語の素読などもそのひとつだが
そうしたことを通じてかつて西欧において
ラテン語を学ぶことが必須であったように
漢文を使って意思疎通することができたのである
現代ではそうした時代に培われてきたものは
すでに多くが失われてしまっている
教育の場そのものがきわめて一面的になり
英語という実用言語習得を除けば
現代の日本語習得及びそれに基づいた使用は極めて貧しい
現代はある意味で
フォーマットにとらわれない自由を
獲得したともいえるのかもしれないが
「守破離」的にいえば「守」なしで
「破」から出発してどこにも行けなくなってしまっている
というところが多分にあるかと思われる
最初にふれたように
そんなじぶんの日本語の貧しさを
なんとかしたいと切実に感じざるをえない
さて「トイ人」で
中村昇「哲学者は何を言っているんだ?」が
連載されているが
その27回目は
「日本語と哲学(1)――母語さえも「他者」である」
まさに日本語そのものを
「他者」ととらえることで
あらためてじぶんの使っているそれを
再構築する可能性のきっかけとなる
その最初に
ヨーロッパの言語で哲学するのではなく
日本語で哲学しようとするときに
「無人島に一冊だけ本をもっていっていいと言われたら」
ということで挙げられている本がある
まず道元の『正法眼蔵』
そして『三浦梅園』
現代では大森荘蔵『流れとよどみ』
である
ほとんど御意!である
このところ『正法眼蔵』は常に身近に置いてある
『三浦梅園』もつい最近その研究書を手に入れた
大森荘蔵はここ数年再チャレを試みている
中村氏とはほぼ同世代なので
ある種の問題意識を共有しているのかもしれない
「考える」といっても
それはどんな思考のフォーマットをベースにして
行っているかによって
その思考の形はずいぶん異なってくる
和辻哲郎の「日本語と哲学の問題」も
それを実感するためには欠かせない論考である
若い頃は和辻哲郎は
そのバイアス部分ばかりに目がいって
敬遠していたところがあるが
和辻哲郎から学べるのはむしろこれらである
たとえば「風土」ということについても
これはある意味で
ハイデガーが「フォルク」としてしか考察できなかったものを
日本で展開させたものだともいえる
むしろハイデガーがドイツ語及び西洋語のなかで
格闘していたことを日本語のなかで進めている感もある
ともかく日本語を使っているにもかかわらず
日本語を理解できずにいるじぶんを
少しでもなんとかせねばの日々である
■永川玲二「意味とひびき————日本語の表現力について」
(日本文学全集30「日本語のために」河出書房新社 2016/8)
■中村昇「哲学者は何を言っているんだ?」
27.日本語と哲学(1)――母語さえも「他者」である(「トイ人」2023.06.23)
(永川玲二「意味とひびき————日本語の表現力について」より)
「幕末から明治にかけて日本の知識階級はまことに多彩な、ぜいたくな言語生活をしていた。彼らは何種類もの文体を、場合により必要に応じてみごとに使い分ける。手紙ひとつ書くにも、たとえば相手が女なら、
一ふでまゐらせ候 寒さつよく候へどもいよゝゝおん障なくおん暮めでたくぞんじまゐらせ候・・・・・・(久坂玄瑞より妻へ)
男どうしなら、
玄瑞君も益慷慨過浪至京師愉快々々、京師之事事実可悦可懼実に天下之安危於是決矣・・・・・・(高杉東行より久坂玄瑞へ)
おなじ国語とは思えないほど異質の文体だが、彼らはかくべつの努力なしに両極端を使いこなす。しかも、こまやかさとか勢いのよさとか、それぞれの性能をよく生かしているのだ。手紙ばかりではない。感興の発するままに彼らはときに和歌を、漢詩を、俳句をつくり、ときに今様、都々逸をひねる。べつに文学マニアではない多忙な武士や町人が、千数百年にわたり多元的な文学伝統の遺産をほとんどすべて身近なものと感じ、即座にそれを活用するという事態は、世界の歴史にもめずらしいだろう。
文体や詩形の豪華な衣装箱のなかから、そのときどきの感興の色あいに応じて彼らはいちばんいい柄をえらぶ。もちろん、ひとつの文体だけでは言いつくせない微妙な心境もあろう。そんなとき彼らは、ちがう柄で二枚三枚と、器用にかさね着をする。
(・・・)
彼らのこうした器用さの源泉として、大ざっぱにふたつの事情がかんがえられる。まず、和漢の古典に関するかぎり、彼らが現代の知識階級よりずっとたしかな素養をもっていたこと。そして、彼らが使いわける文体や詩形が、いずれも高度のマナリズムに固まっていたこと。
さまざまな観念、イメージ、情緒、語法、リズム、主題などが、彼らの教養のひきだしのなかではすべて整然と分類してある。天下国家の問題はおおむね漢文脈のなわばり、恋愛や情事はもちろん和文脈だが、まじめな恋愛なら短歌、粋人の浮気ていどなら都々逸をそれぞれ本籍地とする。だから、たとえば三十一文字で特定の風物を歌おうとすれば、その季節、背景、気分などはほぼ自動的にきまってくるし、語句やイメージにも便利な既製品がたくさんある。あとは多少の変奏と順列組み合わせの作業だけ。ひとかけれの文才がもしもそれに参加すれば、かなり詩らしい詩ができあがるだろう。
こうした高度のマナリズムは、多くの人間がらくに詩をつくるための必要条件であり、その必然的な結果でもある。科学時代の中国、十六世紀末のヨーロッパなどにもおなじような状況があったし、だからこそ絶句、律詩もソネットもひろく知識階級の日常生活にとけこむことができた。」
「現在、ぼくたちが使っている三種類の文字(ひらがな、漢字、カタカナ)は日本文明の三つの地層をぞれぞれ的確に象徴している。やまとことばと、漢語と、近代ヨーロッパ語と。人類の言語のなかで、これ以上露骨に系統のちがうとりあわせを見つけることは容易ではない。地理と歴史のたわむれによって大胆きわまる交媒実験が二度もくりかえされ、ひとつの文明とその言語が残った。
(・・・)
現代の日本語では、よくこなれた言葉で正確に語ることは不可能にちかい。もちろん話題にもよる。感情や感傷の表現にはすばらしい言葉が多いけれども、いくらか大げさな問題について自分の意見を正確にのべようとすると、とかく耳なれぬ漢語、カタカナ語がとびだす。ひとに嫌われるだけなら覚悟すればいいが、ここでも二者択一はそれほど簡単ではない。」
「能率的な方法がひとつだけある。やっかいな言葉を使わないこと、それなしでは考えにくい問題を考えないですますことだ。ついでに、そんなことを考えるのは西洋かぶれ、時代おくれ、非生産的なインテリの証拠なんだと、りっぱな口実をみつければ一石二鳥だろう。しかし、生産的愛国的な別のインテリが、もし純粋な日本語(と漢語)で多少とも正確な文章を書こうとすれば、やはり意外な垣根にぶつつかるだろう。」
(中村昇「哲学者は何を言っているんだ? 27.日本語と哲学(1)」〜「日本のとんでもない哲学者」より)
「この連載の最初の方に、ヨーロッパの言葉で哲学していくのは、とにかく大変だといった愚痴を書きました。西洋哲学では、「理性」だの「論理」だの、われわれが普段交わしている母語による会話では、絶対に使わない単語を使っているからです。でも、だからといって、日常の言葉だけで「哲学」できるのか、といったら、これもまた難しい。ずいぶん前に、私の「真の母語」である佐世保弁だけで哲学するブログを始めましたが、あっという間に挫折しました。
「日本にも、とんでもない哲学者はいます。個人的な好みだけで言いますが、まず鎌倉期の道元。もし無人島に一冊だけ本をもっていっていいと言われたら、「一冊ではなく、四冊にしてくれ」とタフなネゴーシエイションをして、岩波文庫の『正法眼蔵』(編注:道元の主著)全四冊をもっていくと思います。」
「そして、江戸期の三浦梅園。江戸時代に、こんなとんでもない形而上学者がいて、しかも、九州の大分にずっと住んでいたというのを知ったときには、心底驚きました。この人の『玄語』とも、いずれじっくりつきあいたいと思っています。そのような至福の時間を、死ぬまでに、つくることができるでしょうか。」
「さらに最近で挙げれば、大森荘蔵先生の『流れとよどみ』。この本の深い哲学的思索と、このうえなく流麗な日本語は、私にとっては垂涎(すいぜん)の的です。『流れとよどみ』のような文章を書けたら、私の人生の目標の一つは達成されたと思いそうです。『正法眼蔵』や『玄語』とは、かなり異なる系統の本ですが、「日本語で哲学する」お手本といってもいいと思います。」
(中村昇「哲学者は何を言っているんだ? 27.日本語と哲学(1)」〜「対象と言語の関係」より)
「「日本語で哲学する」ということを、はっきり意識したのは、和辻哲郎の「日本語と哲学の問題」(『続日本精神史研究』)を読んだときでした。」
「この文章は、昭和四年(1929年)に書かれたものです。ドイツ留学から前年帰国したばかりですので、この文章には、ハイデガーの影が色濃く落ちています。Daseinやbesorgendといったドイツ語が、原語のまま書かれていますし、日本語についての細かい歴史的な考察も、ハイデガーのドイツ語やギリシア語の語源学的な説明の影響かも知れません。とにかく、ハイデガーの姿が、ここかしこに垣間見えるのです。」
「和辻は、まず、われわれが母語によって、ものを考えていることを指摘します。これは、ごく当たり前のことですが、われわれが文章を書くときや何かを話すときは、特定の共同体の特定の言語(多くの場合は母語)を使っています。どんなに普遍的で抽象的なことを話すときでも(たとえば、哲学)、それを表現するのは、限定された特殊な一言語(母語)なのです。これも、実はとても不思議なことです。
どれほど一般的なことであっても、全人類が共有している普遍言語で話したり書いたりすることは、できません。そんなものは、どこにもないからです。われわれが使っているのは、いつでも特定の限定された一言語なのです。」
「和辻も、つぎのように言っています。
それぞれの特殊な言語を離れて一般的言語などというものがどこにも存しないことは、何人も認めざるを得ない明白な事実である。(『和辻哲郎全集 第四巻』岩波書店、1962年、509頁)」
「このように考えれば、最も身近な「母語」でさえも、つきつめれば自分自身の言葉ではなく、「他者」なのですから、母語ではない英語やドイツ語などを日本語に翻訳したものは、さらに遠い存在だということがわかるでしょう。」
「そうはいっても、やはり、「他者」のなかでも、私にとっては最も身近な「他者」である日本語を、もう一度、哲学の言葉として見直してみようというのが、いまからやろうとしていることなのです。」
(中村昇「哲学者は何を言っているんだ? 27.日本語と哲学(1)」〜「日本語の特徴」より)
「和辻は、日本語は「もの」を言い表す際に、そのあり方(単数か複数か、一定か不定か、一例か一般的か、男性的か女性的か等)には頓着せず、ただ「それが何であるか」を形式的に表現するだけであり、そしてそのことは誰がどのようにその「もの」を認識しているか(悟性的認識)を重視しないという日本語の性格を示している、というのです。」
「しかし、同時に日本語の長所もまた、つぎのように指摘します。
樹木は本来一本でもあれば多数でもある。そのいずれかに片付けてしまうのは樹木の本質に忠なるものではない。樹木が一本であるかあるいは多数であるかは樹木の数の問題として樹木に関して考えられることである。たから樹木そのものにおいては単数多数の別のない方が事態に忠実なのである。同様に性の別は、人間存在にあっては、不可的な限定によって初めて生ずるものではない。男女は根本的な区別である。従って男女、父母、夫婦、兄妹というごとき名詞自身が性の別を本質的に含意するのであって、ことさらに冠詞をもって示すを要しない。もし名詞自身がこの別を含意しないならば、冠詞によって男女の別を付加するということは無意義である。従って名詞が性の別を持たない方が事態に忠なのである。さらにまた動詞に、人称の別のないことは、人間の動作が個人的・社会的なものとして、いずれかの人の立場に固有するものでないことの了解を示すのである。我が見るのも汝が見るのも見る働きとして同一であるならば見るという動詞は形を変えるに及ばない。—なおその他の点についても同様のことが言えるであろう。しからば日本語の非分別性は、悟性による綿密な分別を加えなかったがゆえにかえって真実なる存在の了解を保存するものと言えるであろう。(同書、514頁)
このように和辻は、日本語の特質を、実に鮮やかに示しています。一見「悟性的認識における不熱心」(512頁)という特性を日本語の文法がもっているようだけれど、それは、他面「真実なる存在の了解を保存」しているというわけです。
こうして和辻は、さらに「の」や「に」といった助詞のもつ「余韻」の「交響」(516頁)の複雑さや、過去形を表す多数の助動詞の「濃淡差別」(517頁)など、日本語の文法構造の「異常」な「進歩」(518頁)にも言及していきます。」
◎中村昇「哲学者は何を言っているんだ?」
27.日本語と哲学(1)――母語さえも「他者」である(2023.06.23)
(トイ人)