伊藤 和磨『痛みが消えていく身体の使い「型」』
☆mediopos2903 2022.10.29
自由のために
型を学ぶ
型とは
「型にはめる」というような
決まり切った固定的な鋳型に
みずからを流し込むようなものではない
芸能の型も
先人がそこに
さまざまな智慧と技を盛り込むことで
その基本がつくりあげられた
まずはそれを学ぶことで
その生きた型を
みずからのものにするのがいい
じぶんだけで
型を生み出すのは難しい
新たな言語を創り出すようなものだからだ
まずは基本となる言語を学び
使いこなせなければ
その言語を新たに展開させることはできない
型がなければ
それを破ることはできない
ましてそれを超えることもできない
まさに「型なし」
型のない個性はない
個性とはある意味で型そのものだ
まず型をまねぶ
もちろんそれだけでは個性にはならない
型をじぶんのものにしなければならない
じぶんのものにするということは
まねを超えてゆき
みずからの型をつくるということだ
その型もまた
鋳型のようなものではない
常に変わり続けていきながら
それそのものが型となって展開していく
自由になるということは
「型なし」になるということではない
(誤解された自由の多くはまさに「型なし」に他ならない)
型を超えてゆくということだ
■伊藤 和磨『痛みが消えていく身体の使い「型」』
(光文社新 光文社 2022/9)
「型には智慧と技が盛り込まれています。
型は運動効率と安全性を最大化します。
型を持つと反射的に動けるようになります。
型があれば型を破ってもおかしなことになりません。
型を知ればいつでも基本に立ち返ることができます。
型なしでは大事を成すことが困難になります。
型を極めることはひとつの道を極めることになります。
型は鍛えるものではなく一生磨きあげていくものです。」
「型にはめると個性が消えてしまうのではと危惧する人もいますが、それは違います。
ひとつの型を何千回、何万回と練習するのは、状況に応じて的確に身体を動かせるようにするためです。型がしっかりとしていれば、態勢が崩れても軸とバランスを保つことができるのです。」
「多くの人は、姿勢が大事だとわかっているつもりでも、基本の姿勢を教わったことがないため、型なしの状態で生活しています。型が身についていなければ自分で整えることもできません。
また困ったことに、型なしの姿勢は身体には有害なのですが、神経系を働かせる必要がないため感覚的には辛くなく、いくらでもそのまま過ごせてしまうのです。その代わりに身体には深刻なダメージが蓄積していきます。」
「私たち日本人の姿勢や立ち居振る舞いのルーツを知るには、日本人の身体文化について理解する必要があります。なぜなら、日本人の身体技法は他のどの国の民族とも異なるからです。
「精神」「自然」「身体」という単語は、いかにも日本的で頻繁に使われていますが、江戸時代より前には存在していませんでした。これらの言葉が渡来したのは、明治維新以降のことです。
当時の言語学者たちが、それぞれspiritus=精神、natue=自然、corpus=身体と訳し、それが定着したのです。
江戸時代の初期までは、「からだ」は「死体」のことを意味していました。
「亡骸」や「もぬけの殻」が、語源になっているといわれています。
一方、生きているからだのことは、「身」と呼んでいました。身を焦がす・身構え・身支度・身を委ねる・身を粉にする・骨身に染みる・身が引き締まる・身につく・身につまされる・身に余るなど、身を使った表現はたくさんあります。
「身になる」「身を滅ぼす」とはいっても、「からだになる」「からだを滅ぼす」とはいいません。
明治維新を境にして、心身が未分化だった日本人の身体観が、「身」と「体」に分化されるようになりました。
今では「身体がだるい」「身体の調子がいい」「身体を鍛える」「身体を診せる」「身体を休ませる」など、自分の身体を対象化して、客観的に捉えることが普通になっています。
肉体だけを表していた「からだ」から、魂(精神)と肉体を一体として表すようになったのです。」
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