中島 隆博『荘子の哲学』
☆mediopos2767 2022.6.15
荘子の「胡蝶の夢」の話は
荘周が夢を見て蝶となったのか
蝶が夢を見て荘周となったのか
という単純な話ではない
そこには「物化」という
変容の問題が論じられている
そのことに気づかせてくれたのは
中島隆博『荘子の哲学』だった
(文庫になったので
あらためてとりあげることにする)
この「物化」で重要なのは
世界の変容が考えられていることである
論じられることが多いのは
胡蝶の夢は自他が融合した
万物一体の世界であるとする
「万物斉同」的な同一性だが
「荘周と蝶には必ず区分があるはずである。
だから、これを物化というのである」とある
「物化」とは
ひとつの世界に二つの立場があるのでも
変化にもかかわらず同一的な実体があるのでもなく
複数の世界を超えた視点に立っているわけでもない
荘周は荘周として荘周とその世界以外ではなく
蝶は蝶として蝶とその世界以外ではない
にもかかわらず
生のあり方が変容し
他なるものに化するとともに
世界そのものもまた変容するということである
そしてそこには
儒家的な教化は存在しない
ただみずからが他なるものに変容し
同時に世界も変容するという
「道徳なき自由」がある
「道徳なき自由」としての「物化」は
過去のみずからを問うことはない
「到来する未来の出来事に自らを開き、
「この世界」の変容に賭ける」思想である
そこには過去を顧みないという限界はあるものの
未来へとみずからを開くという可能性がある
生を得るということも
「物化」による変容であり
死を得るということもまた
「物化」による変容である
その変容は生のなかにおいても起こり
死のなかにおいても起こり得るだろう
そしてまた「我」と「汝」のあいだにも
起こりうる変容であるといえるのかもしれない
このように荘子のテキストは
さまざまなイマジネーションをかきたててくれる
最高の物語集であるということもできる
本書のプロローグのいちばんはじめにも書かれているが
『荘子』好きを挙げよといわれたら
湯川秀樹を思い出さずにはいられないという
その素粒子理論も『荘子』によって育まれた
想像力ゆえの果実なのかもしれない
■中島 隆博『荘子の哲学』
(講談社学術文庫 講談社 2022/6)
(「第2部 作品世界を読む 物化の核心をめぐって」〜「第三章 物化と斉同――世界そのものの変容」より)
「万物をその物たらしめる超越的原理としての「道」は、この世界に偏在し、それを逃れるものはないかのように見える。ところが、『荘子』においては、物がその物であるという本質の側から世界を見る見方とは別に、物が他の物になるという生成変化の側から世界を見るという見方がある。(…)
『荘子』において、ある物が他の物に生成変化することは、「物化」と呼ばれていた。」
「荘子は、「これ」という近傍あるいはこの世界に根差すことをまずは重視している。その上で、「これ」が「あれ」に変容し、「あれ」がもう一つの「これ」として立ち現れる事態を見ようとしているのである。(…)
荘子の「斉同」とは、「これ」と「あれ」が絶対的に区別された上で、「これ」が「あれ」に変容する事態(「物化」)を記述するための概念なのだ。恵子の「斉同」が、「これ」と「あれ」を超越する視点を取り、空間的・時間的な区別を無にしていくのだとすれば、荘子はあくまでも「これ」に内在し、「これ」を変容させて、「あれ」としていく「物化」の議論の延長である。
言い換えるなら、従来の解釈が、「物化」を「斉同」に基づいて理解しようとしてきたのに対し、本書の解釈は。「斉同」の方を「物化」に引き寄せ、「物化」と「斉同」を同じ事態を別の角度から見た議論として考えようとしているのである。」
(「第2部 作品世界を読む 物化の核心をめぐって」〜「第四章 『荘子』と他者論――魚の楽しみの構造」より)
「超越的原理としての「道」が基礎づける意味の宇宙に、「物化」という変容は穴を穿っていった。それは、「このわたし」が「このわたし」のままでありながら、しかし全く別の他の物になることで、本質の同一性が崩されるからである。しかも、万物流転を超越的な視点から見るという従来の「斉同」観においては、「物化」は「この世界」における諸アバター(変身)でしかなかったのに対し、「物化」の中に「このわたし」だけでなく、「この世界」までもが変容するラディカルな可能性を見るとすると、超越的原理としての「道」そのものが変化するとまで言えるだろう。」
「『荘子』秋水篇の最後にある「魚の楽しみ」をめぐる恵子と荘子との論争を取り上げよう。(…)
(『荘子』秋水篇)
荘子と恵子が濠水のほとりに遊んでいた。
荘子が言う。「ゆう魚〔はや〕が出でて遊び従容としているが、これは魚の楽しみである。
恵子が言う。「きみは魚ではないのに、どうして魚の楽しみがわかるのか」。
荘子が言う。「きみはわたしではないのに、どうしてわたしが魚の楽しみがわからないとわかるのか」。
恵子が言う。「わたしはきみではないから、もとよりきみのことはわからない。きみももとより魚ではないのだから、きみが魚の楽しみがわからないというのも、その通りである。
荘子が言う。「もとに戻ってみよう。きみが「おまえは魚の楽しみがわからない」と言うのは、すでにわたしがわかっていることをわかっているから、問うたのである。わたしはそれを濠水の橋の上でわかったのだ。
(…)
興味深いことに、荘子はまずは恵子のトートロジーを反復することによって、それに反駁しようとした。(…)このトートロジーは原理的に自己の中に閉じこもることができないということを示したものだ。荘子は、トートロジーを反復することで、それを破綻させようとしたのである。
ところが皮肉にも、そうすることによって荘子はかえってこのトートロジーを延命させてしまう。つまり、この論理が、他者においてもなお維持され生き延びていくほど強力であることを照明してしまったのだ。(…)
「わたし」の経験は、このような自己の経験の私秘的な固有性にすべて収れんしてしまうものではない。荘子が最後の箇所において行った反論は、自己の経験の固有性を領有してしまうトートロジーの罠を何とか抜け出そうとする試みであった。」
「「魚の楽しみ」であれ、「死の楽しみ」であれ、「わたし」が他者と深く関係し、一つの世界に没入し享受することではじめて、垣間見られる経験なのだ。それは、あらゆる社会性の手前にある原—社会性であると同時に、あらゆる社会性を変更しうる可能性の条件である。それは主体が知覚することで能動的に獲得するような体験ではない。先行するのは他者であるが、その他者は影の中にある。影の中の他者に気がつくかどうかは、あらかじめ決められてはいない。しかし、いったん気がつくと、近さが作動し、「わたし」が析出され、受動性の経験としての「魚の楽しみ」や「死の楽しみ」が現れるのである。
そのとき、「わたし」と他者との間には何が生じているのだろうか。「魚の楽しみ」や「死の楽しみ」を享受するときに、「わたし」はそれ以前とは全く異なる世界を生きている。「わたし」は、魚が気持ちよさそうに泳いでいる世界を生きているのであり、妻が亡くなった世界を生きているのである。(…)
「このわたし」と「この世界」は他者との近さにおいて成立するものにほかならなかった。そうである以上、それは決して自同者の閉域ではない。それは、他者に開かれているとともに、「私」を自同性から解放するものでもある。」
(「第2部 作品世界を読む 物化の核心をめぐって」〜「第五章 鶏となって時を告げよ――束縛からの解放」より)
「「物化」においては、「このわたし」とともに「この世界」もまた変容していた。では、「物化」の究極において、「このわたし」と「この世界」はどうなるのだろうか。」
「「物化」の究極において言及されたのは、「古くから言われていた」言葉である「懸解」であった。「懸解」という言葉は、『荘子』養生主篇にも見えていた。
(『荘子』養生主篇)
たまたま生まれ来たったのは先生が生まれてくる時であったのだし、たまたま死に去ったのは先生が死ぬ順であったのだ。時に安んじ、順におれば、哀楽の感情も入ってこない。古くはこれを、「帝の懸が解ける」と言った。
(…)ここで、束縛しているのが「帝(上帝、天)」であることがわかる。「懸」(…)が「逆さ吊り」を意味することを踏まえると、「懸解」とは、天から逆さ吊りにされている人間が、その束縛を解かれるということである。郭象はそれを、「懸が解かれると、性命の情が得られるはずである。これが養生の要である」と解釈していた。要するに、「物化」の究極においては、物とのあらゆる結びつきが解け、「このわたし」がまったくの自由を手に入れ、その生を享受できるのである。
この自由は、(…)「何事に出遇っても感情は動揺せず、束縛を受けることがない」とも違うし、(…)「あらゆる境遇を自己に与えられた境遇として逞しく肯定してゆくところに、真に自由な人間の生活がある」ともいささかそぐわない。そうではなく、これは「物化」が垣間見せてくれる自由であって、物との結びつきが解けて、「このわたし」があらゆる出来事の可能性に受動的な仕方で開かれているということなのだ。」
「ここにあるのは意味付けからの解放としての自由である。しかしながら、これは他方で、道徳を欠いた自由である。というのも、未聞の未来へ開かれているとはいえ、過去において生じてしまった、その限りではもはや消すことのできない出来事の過去性を切り捨てることで、過去への責任という契機がまったくないからである。『荘子』においては、暴力(…)に対してそれを反問する道徳的な場面はない。(…)
過去と未来の非対称性を考えるとき、『荘子』の想定する自由は、あくまでも未聞の未来に到来する出来事に開かれたものであって、過去に生じた出来事に対しては背を向けたものだ。(…)
これはおそらく、『荘子』の毒であり、「物化」の思想の限界でもあることだろう。それは、過去の時である「あの時」を扱うことのできない、「この時」の思想だからだ。それを道徳なき自由と呼ぶことができるだろう。とはいえ、「物化」の思想は、到来する未来の出来事に自らを開き、「この世界」の変容に賭けるものでもある。それをドゥルーズが、スピノザを通じて、「喜びの倫理」と呼んでいたことを思い出そう。そうすると、『荘子』において問われているのは、過去の出来事に対する悲しみの道徳を退け、未来の出来事に対する「喜びの倫理」に向かう自由ということになる。
(…)
鶏となって時を告げよ。」
●目次
プロローグ
■第1部 書物の旅路 『荘子』古今東西
第一章 『荘子』の系譜学
第二章 中国思想史における『荘子』読解――近代以前
第三章 近代中国哲学と『荘子』――胡適と馮友蘭
第四章 欧米における『荘子』読解
■第2部 作品世界を読む 物化の核心をめぐって
第一章 『荘子』の言語思想――共鳴するオラリテ
第二章 道の聞き方――道は屎尿にあり
第三章 物化と斉同――世界そのものの変容
第四章 『荘子』と他者論――魚の楽しみの構造
第五章 鶏となって時を告げよ――束縛からの解放
エピローグ
参考文献ガイド
『荘子』篇名一覧
学術文庫版へのあとがき
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