森川 亮『思考を哲学する』
☆mediopos2736 2022.5.15
すべてがノウハウ化され
マニュアル化される時代
「思考の方法」も知識として教えられ
それを習得しそれにもとづいて
みんなが同じように考えることが
学校教育や学問や社会教育となっている
それを疑うことさえしないで
積極的に求めさえするのは
洗脳の結果以外のなにものでもなく
管理社会をつくるための方法でしかない
教えられたことを学ぶのは
考えることではなく覚えこむことにすぎない
答えははじめから決まっていて
その答えを効率よくだせるということが
よりよく生きることにすり替えられている
ロジカルシンキングやクリティカルシンキングといった
論理思考系の本も基本的にマニュアル本でしかない
そこでも答えははじめから決まっている
それらを覚えこみ身につけることで
世の中でうまく立ち回ることはできるようになるのだが
そうした論理や思考からはほんらいの創造性が奪われ
教えられたところから出られないように
誘導されることになる
なぜそんなことになるのかといえば
なにか「基準」が与えられないと不安なたま
それを身につけることでうまく生きていこうとするからだ
多くの場合ひとは教えられたことを学ぶことに
じぶんのもてる力を注ぐことになる
知識が不要だというのではないが
決められた箱に決められた仕方で
収められているような
教えられ固定化された概念や思考はすでに死んだものだ
生きた思考はマニュアル化され得ない
著者はそのように
「幾重にも思考を停止させられ、あるいは奪われ、
結果的に放棄させられている状況下」のもとで
「思考」の根幹を問い直し
思考とはほんらい身体性に基づく行為であり
わたしたちはその身体で大地と繋がっているのだという
その大地は抽象的にではなく
歴史的・文化的なものによって培われてきた
「感情的、あるいは情緒的な基盤に依って立っている」
というところから思考を捉え直そうとするのだが
本書はそこで抽象化したまま止まってしまっている
タイトルは『思考を哲学する』となっているが
あまり「哲学」されているとはいえず
「よりよく生きたまえ、よりよく死にたまえ」
というような情緒的な終わり方をしている
「思考」の根幹を問い直しそこに身体性を見て
そこに歴史的・文化的な情緒の基盤を見ることは重要だが
そのことそのものをあらためて問い直しながら
さらに身体性を超えた霊性へと
問いを進める必要があると思われるのだが
本書の主眼は「思考の方法化が思考の空洞化をもたらす」
という警鐘を発することに眼目があるのだろう
わたしたちがいままさに直面している世界的な事件は
ある意味でわたしたちのそうした思考の陥穽に
気づくための恰好の機会だとも思えるのだが
国家もメディアも行政もほとんどが
反面教師としての役割を果たすのに忙しそうだ
そしてわたしたちの多くはそれを反面教師ではなく
マニュアルを教えてくれる教師のようにとらえ
従順にしたがったまま疑うことさえしないでいる
■森川 亮『思考を哲学する』
(ミネルヴァ書房 2022/4)
「ほとんどの人が思考の方法化が思考の空洞化をもたらす、などと考えてみることなどなく、それどころか、少なからぬ人が、それも知識人と呼ばれる人ほど、思考の技術のような「考える方法」を若者が(あるいは多くの人々が)習得することは有益だとすら思っているようなのです。あまりの単純さにほとんど絶望的だ、と思いました。それは、学問の死亡宣告そのものであり、社会の死亡宣告であり、ひいては人間の自殺宣言そのものでもあります。
それにしても、なぜこんなことになったのでしょうか。なぜこんな世界になっていったのでしょうか。————こう問うてゆくと、問題の根っこは近代そのものになるということに行き着きます。近代とは端的に言ってしまえばグローバル化ということでしょう。そして、このグローバル化とは昨今はやりの多様化ならぬ一様化をもたらし、あらゆるものの標準化をもたらします。その結果、世界の一部で生じた何かが遍く世界を覆い尽くし、世界中のどこでも同じような生活、同じような物品、同じような食べ物、そして同じような価値観になってゆくのです。この全体的な運動は結局のところ、人々の思考までも同じものとしてしまうのです。
こうした流れの中で、おそらく人間は一様化されて、金太郎飴のようになってしまうことでしょう。規格化された標準的なのっぺらぼう人間の大量生産ならぬ大量出現とでも言うべきところでしょうか。ただし、この段階に至っても、人々は自分が金太郎飴で、のっぺらぼうであることに気が付かないことでしょう。なぜならば、思考までもが標準化されているからです。つまり、より深いレベルで思考が奪われてしまっているのです。
かくして、思考することすら忘れた怖ろしく従順な群衆は、何の疑問も抱かずに、じつに易々と国家の言う通りに自らの体内に最新の薬物を注入しさえするでしょう。頭も身体もいわば規格の通りに標準化されるのです。もちろん、ここに述べたことはいくらか、いや、かなり大げさな表現ではあります。しかし、世界は確実にそうした方向へと向かっています。私はそれに非常なる違和感を覚えますし、怒りすら覚えます。なんとか、人間であり続けたいと切実に願うからです。しかし、なんとも絶望的だ、とも思っています・・・・・・。」
「人間って何か基準がほしいワケですよね。大枠の基準であれ、日常的な基準であれ、何かがないと不安になってくる、というのも大きく影響しているのでしょう。近年のその基準が日本にあってはアメリカのものだった、ということで、それが行き着くところまで行ってしまって「思考する道具」までアメリカ流のアメリカ基準にそろえようということのようなのです。さらには、「欧米のやっていることが正しいんだ」、ということになってしまっているようなのです。
とにかく、あえて当たり前だと思っていた物差しを外してしまうこと。数字だって本当は客観的ではありません。どの場面でどんな数字を出すかによって意味が変わってくるからです。あるいはどういう物差しで測るかによって値しらも変わってきます。こうしたことをしっかり内省してみることは、昨今の日本とわれわれにとっては、とりわけ重要なことでしょう。そうすることで自分が何者であるか、何者であったか、そして何者でありたいか(何者であり続けたいか)を初めて人は自分に問うことになるからです。自らの内面に基準を創り上げなければならないのです。それは思考のエンジンを作動させるはずなのですが(・・・)どうにも戦後の日本はそういうことができなくなってしまっているのです。これも洗脳の結果と言えるでしょう。(・・・)
この種の論理思考系の本(ロジカルンキング本、クリティカルシンキング本など)に紹介されている方法の数々が拡大・拡散していって、ほとんどのビジネスパーソン、大学生が知っているようなものになっていったことと、日本経済、ひいては日本の衰退はリンクしているのではないか、と僕は思っているんです。」
「本来、思考————考えるということは、突き詰めればとても感情的で文化的なものなのです。皆さんは、思考という行為は非常に論理的で人間の感情や文化などが入り込むものとはあまり思わないでしょう。しかし、(・・・)思考というのも一連の身体行為であって、身体性に基づく行為なのです。身体というのも歴史的なものです。例えば、江戸時代の人と現代のわれわれでは走り方から歩き方、日常の所作までが異なっています。われわれの身体にはその動作から意識に至るまで社会性が刻み込まれています。そして、その社会とは営々と辿ってきた歴史を背負ってあるものなのです。われわれの身体が歴史的・文化的なものであってみれば、思考の根幹もじつは文化的で感情的、あるいは情緒的な基盤に依って立っているものなのです。
それこそ、単純な三段論法や、ちょっとした高校レベルや大学の学部レベルの数学の問題を解くという程度のことなた文化的な違いや感情のレベルに起因するよううなことはもちろん現れません、しかし、こうしたレベルから離れて、より基礎的で深い思考であったり、誰も考えたことのない何かであったりを思考する場合などには、確実にその考えている当人の文化や感情、そして情緒の在り方が決定的に重要な役割を果たすことになるのです。」
「われわれは、あたかも自発的に自分の頭で考えているかに思っています。それは表面的には事実です。私がそう思っているから、そう考えているから、そのような行為・言動を為すというのはたしかにその通りなのですから。しかし、ではなぜ私はそう思って、そう考えているのでしょうか? それは自分で考えているかの思っているけれども、じつはそのように考えさせられているのではないか、ということです。(・・・)思考とは社会的なものである、ということです。思考と社会・環境は独立ではないのです。これは互いに従属な関係にあって、つまり、思考するという行為は、文化的な行為なのです。その文化はいかに形作られているかというと、例えば現代のわれわれであれば、科学であり、民主主義であり。市場の原理原則であり、人権であり、グローバリズムであり、経済原則であり・・・・・・、といったものが優勢になってきて、こうしたものからなる社会にわれわれは生きているのだ、ということです。
(・・・)
外側からこうした理論や理念が最初は洋服を着るように纏わされ(あるいは喜んで纏い)、それが徐々に中身を侵食してゆくようなイメージです。正解たる解答はこうした理論や理念、大きく述べれば現代の優勢な社会の傾向性の中にあって、つまりは言い換えれば外在していて、われわれがこれらを内在化したのです。いくらかは自発的に、そして大半は自覚のないままに内在化されているのです。そして、これらに矛盾しないように思考するのです。つまり、前述のように自ら自発的に思考しているつもりでも、さらに深い層から、操られるかのように、そのように思考させられているのです。その最たるものが件のビジネスパーソン諸氏が、あるいが学生諸君が積極的に学ばんとする論理思考であったり、ロジカルシンキングであったり、クリティカルシンキングだったり、とうワケです。」
「人は「怖い!」と思うと、あるいは思わされると考えることができなくなるのです。あるいは、広くパニック状態に陥ると思考が止まるのです。その結果として、今現在、われわれが急速におかしな方向へと突き進んでいるということです。端的に述べれば全体主義の兆候が濃厚に現れているのです。
歴史上、われわれが経験してきた全体主義に共通する特徴は、恐怖と嘘の情報で思考を停止させて(させられて)しまうということです。
(・・・)
「われわれは、幾重にも思考を停止させられ、あるいは奪われ、結果的に放棄させられている状況下にあるのではないでしょうか。」
【目次】
まえがき──黄昏時の思考の前に
イントロダクション
1 論理思考としての「思考の技術」?
2 思考の歴史的・文化的基盤
3 奪われた思考
4 思考の放棄
第I部 思考とは何か
第1講義 考えるプロセス
1 考えるって何?
2 コンピュータの作動原理について
3 人はどうやって考えているのか
コラム1 人の話を勝手に聞いているSiri
第2講義 思考のパラドクス
1 説明するということ
2 パラドクスである!
コラム2 心身問題
第3講義 思考実験
1 前回の説明から
2 思考実験とは
3 思考について考えるための思考実験1──チューリング・テスト
4 思考について考えるための思考実験2──中国語の部屋
5 進化したSiriによるプチ思考実験
第4講義 言葉の問題
1 モニター上に映る人間?
2 非局所的な私
3 どうやって考えるのか──再考
4 認識のコペルニクス的転回
コラム3 思考の哲学のための基礎用語
コラム4 アバターの私とクラウドに飛んだ私
第II部 どうやって思考するか
第5講義 言葉で思考する
1 言葉で「分ける」ということ
2 思考の対象とは
3 世界は言葉なのか?
第6講義 身体の出現と言葉
1 私の出現──思考の身体性について
2 思考の始原から私の唯一無二性へ
3 実体概念から関係概念へ
第III部 思想の潮流
第7講義 自然科学と思想
1 物理学における認識論の潮流
2 物質の存在基盤の喪失
3 情報についての考察からボームの物理学へ
4 ボームの物理学から分かること
第8講義 思考の源流をさぐる
1 まずは復習から
2 われわれはどんな時代に生きているのか?
3 近代性の過剰
第IV部 奪われた思考
第9講義 思考が乗っ取られた?
1 復習と簡単な概要から
2 古いと新しい──われわれの価値判断のフォーマット
3 中国語の部屋──再考
4 政治的に正しい言動
5 金の話で頭がいっぱいになっていないか?
コラム5 喫煙と社会
第10講義 物理学と経済学における理論と世界像
1 物理学の理論と世界像
2 経済学の理論を問う
コラム6 経済学の理論を再考する
第11講義 自発的な思考にせまる
1 洗脳の過程──経営学とか経営コンサルとか
2 じゃあ、民間企業は?
3 思考を取り戻すには
第13講義 思考の放棄
1 超検索人間
2 思考のアウトソーシング
3 乗っ取られた思考
4 どんな世界がいいですか?
5 われわれの歴史は無思考化の過程であったのか?
コラム7 あなたよりあなたを知っているAI
コラム8 何もしなくていい未来?
コラム9 トロッコ問題
コラム10 国家の希薄化とアウトソーシング
第V部 狭窄化する思考
第13講義 奪われた思考の帰結
1 CO2削減という取り組み
2 エコポイント&エコ減税
3 資本主義の持つ問題点
4 社会で生きるということ
コラム11 環境への取り組みが環境を壊す!
第14講義 俯瞰とモデル化
1 エコする村の思考実験
2 熱力学の法則
3 緑化活動ってエコなのか?
4 環境問題のトリレンマ
5 どうして視野狭窄に陥るのか?
コラム12 カルノー・サイクル
第15講義 死ぬこととみつけたり
1 全体を振り返ってみて
2 同語反復としての私
3 何のために生きるのか?
4 死ぬことと見つけたり
5 エンディング──謝辞
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