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三木 那由他『会話を哲学する/コミュニケーションとマニピュレーション』

☆mediopos2860  2022.9.16

言語学には「語用論」という
統語論や意味論とは異なった
言語使用に関する研究領域があるが

本書の著者が述べているように
「哲学者たちが想定する会話やコミュニケーションが、
妙に偏って見える」というのはたしかだ

ある典型的な言語使用パターンが想定されていて
その理論にもとづいて言語使用が論じられる

これはほかの研究領域でも同様で
科学的に検証・証明されるというときも
実験室内か特定の論理内でのそれにほかならないから

その「外」にでたときには
それらはかならずしも当てはまるとは限らず
むしろそれらの研究結果というのは
おそろしく単純化された
いわば絵に描いた下手な餅のようになり
現実とずいぶんかけはなれてしまうことにもなる

さて本書では
「会話」が哲学されているが
その基本的論点は
コミュニケーションとマニピュレーションである

「マニピュレーション」という言葉は耳慣れないが
「発言を通じて話し手が
聞き手の心理や行動を操ろうとする営み」
いってみれば「企み」であり

それに対してコミュニケーションは
「言を通じて話し手と聞き手のあいだで
約束事を構築していくような営み」である

ポイントは「約束」と「責任」

コミュニケーションでは
話し手と聞き手のあいだの会話で
相互了解として約束事が構築されるが

マニピュレーションでは
話し手が聞き手に対して働きかける会話は
話し手がある意図をもって働きかけたとしても
通常のコミュニケーション的な会話レベルでは
「そんなこと言っていない」と言うこともできるので
「それによってどのような結果がもたらされるのか」という
「より一般的な行為の善悪の次元で責任を問う」ことが
求められると著者は示唆している

コミュニケーションにおいては言説的責任が
マニピュレーションにおいては倫理的責任が
問題になることを明確にしておく必要があるというのである

それらを説明するために著者は
現代日本の小説やマンガのシーンを例に挙げているが
それらを見るだけでも
「会話」は会「実は一枚岩の営みではなく、
そのなかにいくつもの異なる営みが含まれている集合体」
としてとらえる必要があることは言うまでもない

わたしとあなたは
その会話で
なにをしているのか
なにをしようとしているのか
じぶんの行っている会話を意識するためにも

小説やマンガでの会話
テレビやネットでの会話を
ある視点をもってとらえなおしてみると
そこにはさまざまな「感情」や「意図」が
複雑に絡み合っていることがあらためて見えてくる

■三木 那由他
 『会話を哲学する/コミュニケーションとマニピュレーション』
 (光文社新書 光文社 2022/8)

(「はじめに」より)

「会話とはどういった営みなのでしょうか? ひとは会話をすることでいったい何をしているのでしょうか? 私は卒業論文でそうしたテーマに拘わる哲学者を論じて以来、大学院でも、その後の研究でも、ずっとこの問題に取り組んできました。
 そんななかで少しずつわかってきたのは、「会話というのは、実は一枚岩の営みではなく、そのなかにいくつもの異なる営みが含まれている集合体なのではないか」ということでした。いったいいくつの営みが含まれていて、それらがどう関係しているのか、まだはっきりしたことはわかりません。でも、少なくともそれには「コミュニケーション」と「マニピュレーション」というものがあるのではないか、と考えています。(…)コミュニケーションは発言を通じて話し手と聞き手のあいだで約束事を構築していくような営みで、マニピュレーションは発言を通じて話し手が聞き手の心理や行動を操ろうとする営みです。」

「気になるのは、哲学者たちが想定する会話やコミュニケーションが、妙に偏って見えるということです。映画や演劇を見たり、マンガや小説を読んだりしたら、あなたたちの会話観では対処できなそうなやり取りはいっぱいあるのではないか、それなのになぜ自分たちのお気に入りの例で満足して、そうしたやり取りを真面目に取り上げようとしないのか、そう感じていました。もちろん、私の見ている哲学者の範囲が狭すぎるのかもしれませんが。」

(「第一章 コミュニケーションとマニピュレーション」より)

「哲学研究の話をすると、実はこのようにコミュニケーションとマニピュレーションを分けるという発想は、そこまで一般的なものではありません。私が研究において主に参照しているのは二十世紀以降の英語圏の哲学で登場した概念や理論なのですが、この領域ではイギリスの哲学者であるポール・グライスが会話に関する重要で哲学的な議論を行っていて、いまでも会話に関して哲学的に論じるなら、まずはグライスを参照しないとならないというくらいには大きな影響力を持っています。(…)
 そのグライスは、コミュニケーションをいわば一種のマニピュレーションだと捉えていました。どういうことかというと、コミュニケーションを、何らかの発言や身ぶりをすることで、聞き手の心理や行為に影響を与えようとする行為として理解していたのです。
 具体的には、コミュニケーションとは、聞き手の何かを信じさせようと意図して発話をおこなう行為だと考えたうえで、これだけではコミュニケーションの分析としては不十分なので、これにさらに「こんな意図も持っていなければコミュニケーションにはならない」「あんな意図も持っていなければコミュニケーションにはならない」といろいろと条件を付け足していくことで、グライスはコミュニケーションというものを理解しようとしていました。
 ここでは詳細を述べませんが、私はグライスのこの方針は、コミュニケーションを理解するにはまるで適していないものだったと考えています。コミュニケーションはそれによって約束事を積み重ねていく行為だと述べましたが、挙がっている例などを見る限り、グライスはどうもコミュニケーションを約束事の積み重ねのように見ること自体には同意しているように思えます。
 けれど、約束事というものを、話し手が約束を交わすときにどんな意図をもっていたかによって分析するというのは、無茶に思えないでしょうか? まさかそんな約束をすることになるなんて思いもしないで約束事を交わすといったことが日常には溢れています。充分な説明を受けないで交わした契約などは、こうした点でトラブルになったりしますよね。
 一般的に言って、約束事というのはひととひととのあいだのことであって、これはどうしたって、私ひとりの意図でどうこうできないような次元を含むものとなります。コミュニケーションにおける約束事もそうで、これはあくまで話し手と聞き手がふたり(かそれ以上)で交わすものなのに、そうした約束事を「話し手はどういう意図を持っていたか」という観点だけで理解しようとしないのは、あまりうまいやりかたではないように思います。
 そんなわけで、私としては会話を通じて構築されていく話し手と聞き手のあいだの約束事という側面に関わるコミュニケーションと、コミュニケーションを通じて話し手が聞き手に対しておこなおうと意図しているこというマニピュレーションを、しっかり区別して考えていこうと思っています。」

(「第七章 操るための言葉」より)

「コミュニケーションとマニピュレーションの区別を意識するとき、ひとつ言えることがあります。それは、マニピュレーションに関してはコミュニケーションとは別の仕方で責任を問う必要があるのではないか、ということです。
 コミュニケーションにおいては約束事が形成されます。それゆえ、その約束事に対応した責任をコミュニケーションの参加者は負うことになります。話し手がその約束事に反したならば、「嘘つき」と非難されることもあります。コミュニケーションにおいてはこのように、「コミュニケートした以上はコミュニケートしていないことにはできない」という、いわば言説的な責任とでも言うべきものが生じます。
 ですが、本章で見たようなマニピュレーションについてのこうした言説的な次元で責任を取ることを求めたとしても、それがそもそもコミュニケーションのレベルの現象でない以上、話し手は容易にその責任を回避できてしまいます。少なくとも当人はそのように考えて動くでしょう。「あなたが気にしすぎなんじゃない?」などと言って、マニピュレーションのレベルで伝わる事柄に関しては、話し手は「そんなこと言っていない」などと白を切ることができるのです。もちろんこれは、そうしたしらばっくれが倫理的に許容されるべきだということではありません。そうではなく、会話の仕組みからしてそのように白を切る発言をすることを止めたり責めたりする手立てが、コミュニケーションの場合と同じようには見つからない、ということです。
 それゆえ、マニピュレーションに関して責任を求めるときには、別の道筋が必要となります。要するにマニピュレーションの責任を問う場合には、「自分の言ったことは言ったと認めよ」というコミュニケーションのレベルでの責任を問うのではなく、「それによってどのような結果がもたらされるのか」「そのような結果をもたらすということを予見してそうした発言をしているのか」といった。より一般的な行為の善悪の次元で責任を問うべきなのではないでしょうか。
 言説的責任と倫理的責任をしっかり区別することが重要です。悪質なマニピュレーションをおこなっているように見える発言に責任を問う場面では。しばしば意図的にか意図せずにか、この両者が混同され、本来は倫理的に善悪が問われるべき問題が言説的な責任のレベルで「言ったと認めるかどうか」の問題にすり替えられているように思えます。」

「私は心理学については専門ではないのであまり詳しいことはわからないのですが。少なくともコミュニケーション論的な見地からは、悪質なマニピュレーションは結果の善し悪しの点でその悪質さが問われるべきであって、それによってコミュニケーション的な約束事が形成されているのかだとか、その約束事bに話し手が従っているかかだとかいったことを焦点にすべきではないように思います。そこを問題にしてしまうと、あまりに最初から発言者側にとって有利にことが進んでしまいますから。」

(「おわりに」より)

「会話というのは、たくさんのものが重なり合う場所であると、私は思っています。そこには話し手と聞き手の、私とあなたの接点があります。私とあなたがコミュニケーションを通じて約束事を形成したなら、私とあなたはもう別々の存在ではなく、一個の「私たち」になって、その約束事に従った振る舞いをしていくことになるでしょう。
 それとともに、会話において参加者たちはその個々人の心理を持っており、それぞれの動機から発言を行ないます。相手との約束事をきちんと形成したいから。わかっていることでも改めてしっかり言わせようとする、間違っているとわかっている事柄をわかっていないふりをするための共犯関係を築こうとコミュニケーションする、コミュニケーションをしないで済むからこそ、そうでないと打ち明けられなかったことを打ち明ける。
 他方で、ひとは会話を通じてほかの人間をうまく操ろうともします。約束事にするのは避けつつ相手が自分の本心に気づくように操る、あるいは相手に気づかれないようにこっそりと相手の感情を煽る。
 会話の背後のは、それぞれのひとの人生や感情があり、そして企みがあります。
 そして、会話においてコミュニケーションがすれ違ったとき、話し手と聞き手の相互調整のなかで、社会という存在も会話の場に姿を表します。私があなたの上司であったとしたら、その社会的な位置付けがもたらす相互的な力関係がコミュニケーションの行く末に影響するでしょう。会話の参加者のあいだで社会的なマイノリティとマジョリティという差があるなら、それはそのコミュニケーションについて周囲の人間に語るときの影響力の差をもたらすでしょう。」

◎目次

はじめに
第一章 コミュニケーションとマニピュレーション
第二章 わかり切ったことをそれでも言う
第三章 間違っているとわかっていても
第四章 伝わらないからこそ言えること
第五章 すれ違うコミュニケーション
第六章 本心を潜ませる
第七章 操るための言葉
おわりに
本書で取り上げた作品

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