■新井文彦「人生、菌色。」 ■増井真那「変形菌の「自己」から未来の「自己」へ」 ■郡司ペギオ幸夫「「砂山/砂粒」トラウマを生きる真正粘菌」 (ユリイカ 2022年5月号 特集=菌類の世界 ―きのこ・カビ・酵母 2022/4 所収)
☆mediopos2747 2022.5.26
ひとは興味のあるものしか
目にはいらない
考えたりすることもない
そのとき世界はそのなかに閉ざされている
わたしたちの回りは
からだのなかもふくめて
菌類だらけであるにもかかわらず
意識しなければその存在には気づかない
そしてそれがどんな働きをしているかわからず
無差別的な除菌などをおこなったりもする
きのこを見ようとすれば
きのこ目がいるし
哲学しようとすれば
哲学思考がいるし
音楽を聴こうとすれば
音楽耳がいる
そしてたとえ
それらができたとしても
それらの世界も
すでに与えられた世界内で閉じていて
その外にでようとは思わない
そのとき外部は存在しない
たとえば科学はほんらい既知を超えようとするが
科学主義は既知のもののなかで
全てを客観化可能なものとみなし
外部の存在は否定されているように
外に出るには
外部の存在からの呼び声を聴き
未知の外部を召還しなければならない
菌類がきわめて興味深いのは
「外部を受け入れる装置の構築に、
重要なメタファーを提供してくれる」からだ
外部を受け入れるということは
あらかじめ想定されている外部ではなく
真の意味での他者を知り
創造に立ち会うということである
少し分かりにくいところだが
郡司ペギオ幸夫氏は
「受動と能動を共立させ、その記憶を担保しながら
受動と能動を共に捨て去ることで、
受動/能動を共に首肯するアンチノミーと、
共に否定するアンチノミーが共立し、
それが外部を召喚する装置として機能する」ことを説く
ここでは現代舞踏家がその練習に取り入れられている
コンタクト・インプロビゼーションの例が挙げられている
二人のダンス初心者が
体のどこかを絶えず接触させながら
踊り続ける訓練を十分に行った後
各々独立に一人で踊るときにも
二人で踊っている如く空気に突き動かされ
受動と能動が同時進行するように踊ることができるが
そのときまさに「外部」が呼び込まれるのだという
受動と能動がともに働くという矛盾と
受動も能動もともに働かないという矛盾のあいだで
「外部」はいわば創造的な仕方で召還される
菌類の世界の本質が見えないところにあり
それが不思議な仕方で姿を表すように
世界の「外部」もまた矛盾を超えてたしかに現れるのだ
■新井文彦「人生、菌色。」
■増井真那「変形菌の「自己」から未来の「自己」へ」
■郡司ペギオ幸夫「「砂山/砂粒」トラウマを生きる真正粘菌」
(ユリイカ 2022年5月号
特集=菌類の世界 ―きのこ・カビ・酵母 2022/4 所収)
(新井文彦「人生、菌色。」より)
「大都会に限らず、ある程度の数の人間が暮らしている場所は、人間が人間のためにつくったもの、つまり、人工物で満ちている。都会にはけっこう自然が多いと思っている人がいるかもしれないが、屁理屈を言うなら、街路樹や公園の植え込みなどは、自然の植物を使った人工物である。
日頃、人工物に囲まれていると、それが当たり前になるので、人工物が見当たらない天然の森を訪れる機会があったりすると、周囲をじろりと見わたして、何もない、などと言うことになる。東京で暮らしていたときのぼくもそうだった。
思うに、人は、興味のあるものしか目に入らないし、記憶に残らない。自然に興味のない人が、自然そのものである森を訪れたとき、何もない、と思うのは当然だろう。そこに、人間のつくったものは見当たらないのだから。道はないしゴミすら落ちていない。
「人は、好きであればあるほど、興味を持てば持つほど、それがどんどん目に入ってくる。満員電車の中でも好きなブランドの服を着ている人をすかさず見つけたり、本屋へ行けば雑誌の表紙になっている推しの顔を見逃さない。きのこファンも同じだ。きのこが好きになると、あらゆるところできのこが目に入るのだ。それを「きのこ目」(別名「菌眼」「菌視」)などと言う。」
「森はもちろん、いま生活している身の回りも、きのこだらけだと言っても過言ではない。きのこはけっこう身近にいるにもかかわらず、興味がないので、目に入らないだけなのだ。
きのこファンには当たり前で、一般の人たちが理解していないことに、きのこの「本体」がある。われわれが一般的に「きのこ」と呼んでいるものは、きのこの一部である生殖器官のことで、正確には、「子実体」と言う。「きのこ」が生えていたら胞子を放出していると考えていい。きのこの本体は、地面の下や倒木の中でひっそりと広がる糸状の細胞、菌糸である。ゆえに日頃はほとんど目にすることがない。
ぼくは、きのこを見るときも、撮影するときも、この見えない菌糸のことを意識するようにしている。共生菌・菌根菌は複数の樹種の根っことつながっているので、それが地下で一大ネットワークを形成し、きのこも、樹木も、栄養のやりとりだけではなく、情報も共有している、という研究結果もある。樹木の八割くらいは菌類と関係を持って生きているらしい。人間の世界も、菌類の世界も、その本質は見えないところにあるのだ。」
(増井真那「変形菌の「自己」から未来の「自己」へ」より)
「「自己」とはなんだろう?」
どこまえ追いかけても理解し尽くすことはできなさそうな、だからこそとても魅力的な問いです。私たち人間は、ひとり残らず「自己」を持っています。そして、あらゆる生物も「自己」を持ちます。それが生物なのですから。
変形菌という生物も、もちろん「自己」を持ち、それはとても興味深いものであることがわかってきました。変形菌の「自己」を探求する道は、人間そして生物にとって「自己とはなんだろう?」という問題に向き合う時間でもあります。」
(郡司ペギオ幸夫「「砂山/砂粒」トラウマを生きる真正粘菌」より)
「菌類は、異質なものが総動員して働く場を創り出し、その中でも化学反応など論理的に認識できる過程と、その外側にある認識できない家庭を繋ぐインターフェースとなって、異質なもののコミュニケーションの場となる、ようにも見える。しかし、もし、そのように考えるなら、それは、認識可能な自分たちのこちら側と、理解できないが既に認識できるあちら側とのコミュニケーションの場を構想するだけで、想定外に存在する徹底した外部については、理解を妨げるものとなるだろう。これに対して、真正粘菌は、外部を受け入れる装置の構築に、重要なメタファーを提供してくれる。外部と言われてピンとこない読者はたくさんいるだろうし、逆に早わかりして、そういうことが誰でも考える問題だとする読者もいるだろう。そのような読者のために、まず創造の話から始めよう。
造形作家の二藤建人氏の個展で、同氏と美学者の粟田大輔氏と三人で鼎談した時のことだ。私は、受動と能動を共立させ、その記憶を担保しながら受動と能動を共に捨て去ることで、受動/能動を共に首肯するアンチノミーと、共に否定するアンチノミーが共立し、それが外部を召喚する装置として機能する、と唱えた。流石に藝術に携わる者は勘所がある。粟田氏は、コンタクト・インプロビゼーションを、現代舞踏家が練習に取り入れる話を説明してくれた。二人のダンス初心者が、体のどこかを絶えず接触させながら踊り続ける。最初は肩同士が、引き続き背中と掌、といった具合に、絶えず二人はどこかで接触しながら踊り続ける。この訓練が十分になされた後、二人は各々独立に一人で踊ることになる。そうすると、その人は、風が吹いているわけでもないのに、空気に突き動かされ、しかし傍目から見る限り能動的に、踊ることができるというのである。
まさに、コンタクト・インプロビゼーションは、受動・能動に関する、肯定的および否定的アンチノミーの好例だ。当初、初心者は先ほど受動、いま能動といった具合に間断なく受動と能動の交替を感じるだろう。しかし、接触を維持したダンスに十分熟達すると、常に受動と能動が同時進行するような、そういった感覚を感じることになる。ここに、受動と能動が分離できず、常に一体となって受けいれられる、「受動能動」肯定的アンチノミーが成立することになる。受動、農道は二高対立的であると定義されるため、両者の共立は矛盾(アンチノミー)となるわけだ。この直後、ダンサーは一人になる。ここがポイントだ。ここには接触を通じての受動も能動もない。だからこそ、受動も能動も否定され、「受動/能動」否定的アンチノミーが成立する。ただこの状態において、肯定的アンチノミーが解消されたわけではない。練習によって獲得された肯定的アンチノミーは体が記憶している。だからこそ、一人になったとき、肯定・否定の両アンチノミーが共立することになる。この時初めて、接触を通じて定義される受動、能動とは全く異なる、「空気に動かされる」受動=能動が、やってくる。これこそ、想定されたものの「外部」はやってくる瞬間だ。」
「冒頭述べた。「受動/能動」に関する肯定的、否定的アンチノミーの共立と同じ、トラウマ構造(・・・)について説明しよう。心的外傷という意味でのトラウマは、二項対立的状態のもつれを無意識に潜在させるものではないだろうか。津波の被害者は、端的に圧倒的な被害者であるだけにもかかわらず、生き残ってしまったという加害者意識(サバイバー・ギルト)を感じてしまう。津波は端的に理不尽なものであり、加害者を見つけることができない。しかし、被害者となってしまった原因を見つけようとするなら、不可避的に被害・加害図式に絡め取られ、無意識にその二項対立の中を逡巡することになる。その運動は、見つけられない加害者を見つけようと、様々な文脈を総動員しながら、被害・加害者意識の中に沈潜させる。このもつれの中に、無理やり加害者意識が形成されてしまう。だから、分離し難い被害・加害のもつれという形態において、トラウマは「被害/加害」肯定的アンチノミーを有することになる。
トラウマを持つ者において、「被害/加害」肯定的アンチノミーが解消されることはないだろう。にもかかわらず、そこには癒やしの可能性がある。絶望的な津波の被害に遭った人が、数年後、避けていた海を、静かに見ることができるようになったといった可能性である。そこでは、被害、加害を共に有するもつれが解消されることはないだろう。しかし、その構造を担保したまま、被害、加害の強度が脱色されることはあるのだろう。だから海が見られるようになる。この徹底した脱色の果てに、被害者・加害者意識を極力排除したような、「被害/加害」否定的アンチノミーが成立する。つまり癒やされる者において、「被害/加害」肯定的アンチノミーと否定的アンチノミーが共立する。癒やしの可能性において、この構造をトラウマ構造と呼ぶのである。
藝術家は、本稿の意味でのトラウマ構造を有している。(・・・)だからこそ、自分の想定する外部を召喚し、作品を創り出すことができる。創造は、当事者のものであるから、それがどのように創造なのか、いかなる藝術的感興であるのかは、当事者しかわからない。しかし、それは、個別的でありながら普遍的である。それは外部を召喚する装置を作り、首尾よくしかし徹底的に受動的に外部を召喚する意味で、普遍的である。
個別的で普遍的、その対極にある態度が、全てを客観化可能とする科学主義である。科学主義は科学の先端で既知の向こう側と格闘する科学、それ自体ではない。そうではなく、出来上がったとされる既知の理論の中で、全てを組み合わせで理解し、全てを客観化しようとする枠組みが科学主義である。それは、むしろ人文学の中にも広がっている。人工知能の普及により、科学主義が広く行き渡り、芸術や創造の世界に科学主義が押し寄せている。彼らは、個別的な創造の現場を理解できず、主観的、相対的なものの評価を全て退けるか、全て認めるしかできない。こうしてある者は創造を全否定し、ある者は全てを認めて多様性という。藝術は相対的で、人それぞれというわけで、最後の一筆にこだわる、作家自身にしかわからない閑静ノ到来を、単なる主観的こだわりと揶揄する。トラウマもまた個別的、普遍的だ。藝術作品の到来と、癒やしの到来は同じものだ。科学主義者は、トラウマを苦しむ者に対しても、藝術に対する態度と同じ態度をとるのだろうか。当事者における作品を、馬鹿げた主観的思い込みというのなら、そうなるだろう。真正粘菌が実現する「砂粒・砂山」外部の召還は、生きるということが、トラウマを生き、その外部を呼び込む創造であることを教えてくれるのだろう。(※「真正粘菌は、アメーバ運動やネットワーク形成を実現しており、その本質に「部分的」砂山、すなわち、「砂粒/砂山」肯定的・否定的アンチノミーの共立を見出せる。)」
【目次】
■小説〈1〉
きの旅 / 高原英理
■きのこ目を啓く
人生、菌色。 / 新井文彦
きのこ画家が生えるまで / 大竹茂夫
■きのこと仲間たち
きのこ博士と菌類の未来 / 保坂健太郎
菌類を“追う" / 星野 保
菌類に学ぶ〔コラム:本当の菌って何?〕 / 細矢 剛
「菌」と呼ばれるものたち――カビ、細菌、そしてウイルス / 武村政春
■マンガ
Spores of relief / 月森吉音
■菌類としての大地
菌類と土の来た道 / 藤井一至
ブナ原生林が語る菌類の魅力 / 大園享司
植物と菌類との助け合いと騙しあい――実はしたたかな共生関係の実態 / 末次健司
地衣類に覆われて / 大村嘉人
■終わりなき生命
超能力微生物 / 小泉武夫
発酵という無限の未来 / 小倉ヒラク
■食の菌類学
菌類と「食べる」ということ / 石川伸一
ルネサンスのきのこ学――菌類学への道しるべ / 鶴田想人
■きのこはうたう
遠方のマシュルーム、近くの茸――あるいは、わざわざ叢(くさむら)のなかに / 與謝野文子
きのこ短歌コレクション(ちょっとカビつき) / 石川美南
■きのこのエクリチュール
きのこ文学最前線――回顧と展望 / 飯沢耕太郎
妖精の環――菌類学者ビアトリクス・ポター / 寺村摩耶子
妖精とキノコ、魔女とキノコ、メディウムとしてのキノコ / 河西瑛里子
雨の樹とキノコの庭――武満徹、その音の糸 / 髙山花子
■詩
すべての生きものはキノコだ! 私は恐竜図鑑を読んでいた / 小笠原鳥類
■形態学/生態学
菌類をめぐるヘッケル的夢想 / 倉谷 滋
菌類模型の周辺――ムラージュ文化考 / 石原あえか
無節操にも、きのこのように / 雑賀恵子
トラブルと共に生きる術――第六の絶滅期における菌類とkin-making / 逆卷しとね
■分け入っても分け入っても……
きのこから始める菌類カルチャー・マップ / 堀 博美
■小説〈2〉
視肉の孝 / 柴田勝家
■座談会
変形菌のアルス・コンビナトリア――アートとサイエンスの紐帯 / 松本 淳×唐澤太輔×齋藤帆奈
■這い進む学び
粘菌からロマネスクへ / 金沢百枝
魅力的な「傍系」たち / 柞刈湯葉
■粘菌という思考とはなにか
粘菌のジオラマ行動力学――迷路の中の採餌行動を例に / 中垣俊之
「砂山/砂粒」トラウマを生きる真正粘菌 / 郡司ペギオ幸夫
変形菌の「自己」から未来の「自己」へ / 増井真那
粘菌の環世界――ユクスキュルが捉えた、粘菌の二つの存在様式 / 釜屋憲彦
粘菌哲学の視座――触覚と原形質流動 / 唐澤太輔
「粘菌学者・昭和天皇」の科学社会史 / 右田裕規
■菌糸はどこまでも
菌類を知るためのブックガイド / 佐野悦三
■忘れられぬ人々*7
故旧哀傷・加藤建二 / 中村 稔
■物語を食べる*16
フォアグラ的な肥満のはてに / 赤坂憲雄
■詩
「黒雲」考 / 藤井貞和
■今月の作品
小川茉由・米山然・江田つばき・秋葉政之 / 選=大崎清夏
■われ発見せり
Siri、構造主義を具現化した「精神」? / 長谷川朋太郎
表紙・目次・扉=北岡誠吾
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