武田砂鉄『父ではありませんが/第三者として考える』
☆mediopos-3122 2023.6.5
「普通」だとされることについて
「何度でも刃向かっていきたい」
と本書の「あとがき」で書かれているように
「普通」ではないことにたいする「圧」は
たとえそれが直接的なものではないとしても
そうでない者に多かれ少なかれ強くかかってくる
本書では
「父親とは」「母親とは」「子育てとは」といった
「普通の家族」をめぐる「当事者」の言説に対して
「第三者」としての「ではない」立場から感じられる
違和感から見えてきたことについて考えようとしている
著者の基本的な考え方は以下の通り
「何かを経験するというのは文字通り経験だが、
未経験を保つというのも経験だと考えている。」
「どんな人でも、大抵の物事は未経験で、
大抵のことには第三者である。」
経験者と未経験者が自由に重なり合うことによって、
意見をぶつけ合うことによって、物事は重層的になっていく。」
著者は結婚して10年ほどになるが子どもはいない
子どものいない理由はとくにない
それでも直接的であるかどうかはともかく
「子どものいないあなたにはわからないと言われるけれど」という
「ではない」つまり「第三者」の視点から語っている
本書について「普通」の立場からどんな反応があるのかが
少しばかり気になったので
アマゾンのレビューを見るとその筆頭にこんな評が寄せられていた
「タイトルはとてもよいが」
「残念ながら期待にこたえられてません。
自分の子供と遊ぶのと、
他人の子供と遊ぶのでは全く次元か違います。」
父親になる実感は、なってみないとわからないでしょう。
経験していないことについて語ることの難しさを学びました。」
この評者はおそらく
「当事者」(父親)であることについて
「なってみないとわからない」
ということを強く語ってほしかったのだろう
本書の趣旨を理解した評ではないが
まさにこれが「当事者」目線の
「普通」の反応だということがわかる
ぼく個人はこの著者と同じ「第三者」の立場なので
本書の趣旨が理解しやすいとはいえるだろうが
ここで語られているのは
「家族」問題だけではなく
「経験している当事者」の経験と
「未経験を保っている第三者」の経験とを
重なり合わせることで
「普通」から自由で重層的な観点を探っていくことであり
著者も言うように
「どんな人でも、大抵の物事は未経験で、
大抵のことには第三者」なのだから
じぶんにとって未経験のことに対して
「経験者」だけの視点だけで見てしまうと
その「蠅取り壺」の中から出られなくなってしまう
ということだろう
たとえばルドルフ・シュタイナーは
結婚は二度したのだがじぶんの子どもはいなかった
それにも関わらず
「父ではない」いわば「第三者」の立場から
「子どもの教育」についてさまざまな示唆を行った
先の評者からすればこのシュタイナーに対しても
「実感は、なってみないとわからないでしょう」と
その当事者の視点から出られないことになる
当事者は当事者として
第三者は第三者として
それぞれがじぶんの外にある経験へとひらかれていくことで
重層的な理解を深める可能性を得ることができる
そのためにも「普通」であろうとする
根強い「圧」から自由であることが必要だといえる
■武田砂鉄『父ではありませんが/第三者として考える』
(集英社 2023/1)
(「「ではない」からこそ」より)
「自分は1982年生まれ。2011年に、ふたつ下の妻と結婚して10年以上が経つ。ずっと二人で暮らしている。すると、どこからともなく、あれ、子どもは作らないのだろうか、それとも、何か事情があるのだろうか、と詮索される。特に事情はない。事情はないが、もし、事情があったとしても、その事情は別に、誰かに伝える必要なんてない。結婚したら、子どもを産むもの、少なくとも産もうとするもの、という考え方が世の中にあることをよく知っているが、その考え方を、私や妻が背負う必要はない。」
「何かを経験するというのは文字通り経験だが、未経験を保つというのも経験だと考えている。経験者と未経験者が自由に重なり合うことによって、意見をぶつけ合うことによって、物事は重層的になっていく。どんな人でも、大抵の物事は未経験で、大抵のことには第三者である。当事者と、当事者でない人が結びつき、その当事者が抱えている問題を解決していく。即座に解決なんて難しいから、せめてこれ以上悪くならないように監視したり、ことあるごとに、どうして改善していないのかと指摘したりする。その時、立場によって言葉を発する資格を問うてはいけない。
自分は父ではない、という前提に立ってみた時に、あれ、これって言ってもいいのかな、これを言ったら、あなたにそれを言う資格があるだろうか、なんて言われてしまうのではないかと、躊躇する事柄がいくつも浮上してくる。これがなかなか珍しい感覚なのだ。自分はこれまで、とりわけ日本社会で根深い男女格差の問題を、それなりの回数、男性の立場から指摘してきた。シングルマザーの貧困率が高いと聞けば、もっと公的支援が必要ではないかと書く。そこに、なんのひねりもない。当たり前の指摘だ、そもそも、ひねらせる必要がない。それに対して、あなたにそれを言う資格があるだろうかと言ってくる人もいない(いたのかもしれないが、さすがに目に入らなかった)、ところが、「父親」というカテゴリに吸い寄せられる議題について考えようとすると、たちまち、どうしてあなたが、が浮上してくるのだ。」
「「ではない」側から眼差しを向けたい。「ではない」側からも見なければ、ありとあらゆる全体像って見えてこないのではないか。もしくは、全体像なんて見えるものではありません。という意見も発することができないのではないか。父親になった、父親として、父親だからこそ、という言説が増えてきている。どんどん増えていったらいい。同じように、父親ではない人間が考える「親・子・家族とは何か」があってもいいのではないか。」
(「子どもがいるのか問われない」より)
「子どもを産むために結婚するわけではないが、結婚したら子どもを産むのが普通でしょうと考える世の中の雰囲気は、女性に対して、より強い「そろそろ結婚したほうが・・・・・・」を生み出す。雰囲気って、束ねると圧力になる。その圧力は、直接的に、そして間接的に繰り返される。人生相談にもっとも多い比較が、この結婚or未婚、子ありor子なしに始まる議論である。経験の有無で比較され、経験したことのない人が、その経験を欲したり、経験したいとは思わないことへの悩みを吐露したりする。すでにそれを経験している人から投げかけられた心無い言葉を、何度も自分に刺して、心を痛めてしまう。山頂に到達している人から「おーい、どうしてまだそんなところにいるの?」と声をかけられる。早くこっちに来なよ、と。でも、そもそも、その山は、皆が登らなければいけない山なのだろうか。そんなはずはない。自分が登るべき山を、誰かから指定されたくはない。」
「父親ではない私が、父親であることを饒舌に語るインタビューなどを読むと、なるほどそういうことなのか、実際その立場になってみなければわからないことばかりなんだな、と勉強になる。でも、繰り返し言うように、どんな立場であろうとも、その立場になってみなければわからないことばかりなのだから、父親の語りを特別なものとして受け止める必要はない。そんな当たり前のことも、産んで育てるのが「普通」とされる圧を直接的に浴びない立場だからこそ言えるのだ。
子どもがいなくても、特に何も言われない。同じような状況に置かれている妻は、やはりそのことをよく聞かれてきた。性差の問題ではなく、ただ単に話しかけにくい、そういった話をしにくい、という個人的な所作や態度によるものなのかもしれないが、子どもの話といえば、やはりまずは、産んだ女性の視線が向かう。同じようにして、産んでいない女性に視線が向かう。育児によって削られる部分が男性にはまだまだ少ない。と同様に、子どもを産んでいない、という状況について、他人からの乱暴な指摘を受けずにいられるのも男性で、「削られる部分」が少ないのだ。親ではない状態についても、男性に優位性がある、このことはもっと考えられなければならない。」
(「こどもが大人になったとき」より)
「夫婦二人で暮らしていると、とにかく、ずっと妻と話している。とりわけフリーランス稼業なので、朝昼場、大抵の場合は一緒に過ごす。家の近くの仕事場に出かけるとはいえ、長い時間を共にする。この時間がただひたすら積み上がっていく状態に、特段のストレスはなく、このまま年老いて最期を迎えるのかなんてことまで考えるのだが、私は、私たちは、未来を語ってはいけないのだろうか。はい、いけません、と言ってくる人はよほどの保守的な考えの持ち主で、幸いにも自分の近くにはいない。直接は言ってこない。でもどこかで、この人たちは受け継がなくていいのだろうか、未来が不安にならないのだろうかと思っているかもしれない。」
「こういう人たちが本音として抱えているものをいい加減壊していかないと、未来は、産むことを前提とした上で、子どものためにだけ用意されてしまうし、子どもは未来のために生み出されることになる。自分は自分のために将来を用意したいのだけれど、それではダメなのだろうか。ダメだとしたらなぜなのだろう。人の生き方を採点しようとする人を遠ざけたい、「自分の子どもが大人になった時にこんな日本では・・・・・・」、自分はその時、老人として、同じ空間を生きていたいと思うのだけれど、どうしたらいいのだろう。」
(「勝手に比較しないで」より)
「子どもの話は強い。勝てる。上回る。この通説というのか、状態を考えてみたいと思ってきた。本当にそうなのだろうか、という疑問をぶつけてみたかった。子どもについては、「いる」「できた」「ほしい」という状態からの語りが大半である。「いない」「できない」「ほしくない」という状態からの声は、なんだかあんまり声高に叫んではいけないように思われている。それは一体、なぜなのだろうか。誰が止めているのだろうか。止めてくる人は本当にいるのだろうか。イメージの産物なのだろうか。ここに迫ってみたかったのである。
父ではない人間が、子育てや親であること、家族というものについて語ることは許されないのだろうか。そもそも、誰にどのような許諾が必要なのだろうか。」
「あるべき家族の形が保てなくなってきているならば、保てなくなってきた原因を探るのではなく、あるべき家族の形なんてものはあるのか。あるのだとしたら、なぜそれは存在しているのか。それ以外のあり方ではいけないのか、そっちから議論したい。結婚しているのに子どもがいない状態で、それなりに長い間暮らしていると、観察されているなと思う。直接言ってくるのではなく、少し離れたところから見られているような感覚。あの人たちはどうするつもりなんだろう、という目線がくる。それと付き合うのは正直面倒で、特段の反応をせずにそのままにしておく。」
「家族はこうやなくっちゃとか、やっぱり子どもがいたかたこそ、といった言説は、そうではない人を巻き込まないようにやってほしい。私は、私たちは、比較材料として生きているわけではないのだから。」
(「あとがき」より)
「数えたわけではないし、実際に数えたらそんなことはないのだろうが、この本でもっとも頻繁に使われている言葉は「普通」ではないか。普通という状態を勝手に決めないでよ、という主張を何度もくり返している。あまりに繰り返しすぎているので削ろうと思った箇所もあったのだが、世の中で凝り固まっている普通を疑いながら、必要に応じて壊したり溶かしたり削ったりするためには、何度でも言えばいいのかなと、そのままにしておいた。
普通の家族ってさ。普通は結婚するでしょ。普通これくたいで子どもを。こうしてあちこちで投じられてきた「普通」がどのようなダメージを与えているのかは可視化されにくい。なぜって、普通の枠組みの中に入っている人は、当然、両隣にもその枠組みに入っている人がいるので、それ以外の部分に気がつきにくい。」
「気心知れた仲だからといって、個々人がその場で全ての事情や感情を明らかにしているとは思わない。隠していること、言いたくないことがあり。弾けているように、どこかで無理をしているのかもしれない。それぞれが当事者で、それぞれが第三者だ。「ではない」状態を生きている。
今回は、父ではない自分から見えたものを書いてみた。それぞれの立場から、様々な読まれ方をするのだろう。そこでは意見の相違が生じるかもしれない。その時に、相違を無理やりになかったことにしようとする力に警戒したい。そこではやっぱり「普通」という言葉が用意されるはずで、そこに何度でも刃向かっていきたい。」
【目次】
「ではない」からこそ
子どもがいるのか問われない
ほら、あの人、子どもがいるから
あなたにはわからない
子どもが泣いている
変化がない
幸せですか?
「産む」への期待
孫の顔
男という生き物
「お母さん」は使われる
もっと積極的に
共感できません
人間的に成長できるのか
子どもが大人になった時
勝手に比較しないで
あとがき
【著者プロフィール】
武田砂鉄(たけだ・さてつ)
1982年生まれ。出版社勤務を経て、2014 年よりライターに。2015年『紋切型社会』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。他の著書に『日本の気配』『わかりやすさの罪』『偉い人ほどすぐ逃げる』『マチズモを削り取れ』『べつに怒ってない』『今日拾った言葉たち』などがある。週刊誌、文芸誌、ファッション誌、ウェブメディアなど、さまざまな媒体で連載を執筆するほか、近年はラジオパーソナリティとしても活動の幅を広げている。