澤田直『フェルナンド・ペソア伝/異名者たちの迷路』/澤田直×山本貴光「人はなぜペソアに惹かれるのか」(「すばる」2023年10月号)/『ペソア詩集』
☆mediopos3231 2023.9.22
澤田直の『フェルナンド・ペソア伝』が
刊行されたのを記念して「すばる」の10月号に
澤田直と山本貴光の「人はなぜペソアに惹かれるのか」
という対談が掲載されている
現在ではポルトガルの国民的詩人とされている
フェルナンド・ペソア(1888−1935)は
自分とは別人格の70名ほどもあるという
〈異名者〉たちを案出し作品を書き分け
ひとりで宇宙全体を体現しようとしたのだという
没後には公刊されたものの十数倍もの作品が見つかり
草稿は全部で2万7500点以上
そして世界的に知られるようになるのは
死後五〇年ほど経った80年代になってからのこと
著者の澤田直と対談した山本貴光は
澤田氏の訳した『ペソア詩集』(思潮社)を読み
とくに「ペソアの人間の見方」から
決定的な影響を受けることになったそうだが
それはペソアの詩には
「一人の人間が一人ではないという感覚、
一人の人間のなかに複数のキャラクターが存在し得る
という感じが強く響いてい」るからだという
ペソアはたんに
異なったペンネームを使っているのではなく
「アルベルト・カエイロ」「リカルド・レイス」
「アルヴァロ・デ・カンポス」の三人を中心に
「自分とは異なる人格、外見、来歴、文体を持った
別人格の作家、すなわち彼自身が
〈異名者〉と呼ぶ存在を作り上げ」た
「個の分裂、解体、離散という、
二十世紀後半になって脚光を浴びることになる
現象に直面して、他者=多者となるという
稀有の試みを創作基盤に置」き
「筆名や偽名とは一線を画す
〈異名〉というトポスを案出することによって、
文学における主体の問題や、
作者の問題をまったく新たな視点から照射した」
のである
「リカルド・レイス」名での詩には
「ぼくらのなかには 無数のものが生きている」
「ひとつではなく いくつもの魂をぼくはもっている
ぼくではない たくさんの自分がいる」
という表現がある
現代においては
「「わたし」という存在が確固としたものではなく、
むしろゆらぎがあり、複数の束からなっていることは、
多くの人が日常生活の端々で感じること」だが
ペソアがそうした観点で創作活動を行ったのは
二十世紀初めである
時代がやっとペソアに追いつき
ペソアを再発見したということだろう
上記の主要な異名詩人は三者三様だが
それはスタイルが異なっているというだけではなく
「三人の詩人の相互関係、相互作用が
きわめて精密に計算され」ていて
「三人の作品が組み合わされることで
ひとつのドラマティックな全体が
立ち上がるように構成されている」のだという
ペソア自身がその試みを
「幕間劇の虚構」と呼んでいるように
全体として「ひとつの劇的空間」が
つくりだされているのである
またペソアには秘教の思想家という側面もあり
レッドビーターやアニー・ベサント
ブラバツキーなどの神智学関係の翻訳もおこなうなど
グノーシス主義や薔薇十字思想などのような
秘教的な「異端の思想全般に通底するものを
真剣に考えてい」たという
ペソアは世界の隠れた意味を探求していたということだが
それは「キリスト教的な一神教とも神智学とも異なり、
複数の神々が存在し、多様性のある世界」である
こうした秘教的な思想への関心は
「異名者」を使って書いたこととも深く通底しているようだ
ペソアは「私は神話の創造者になりたい。
それこそが人間の仕事として許される最高の神秘だ」
と書いているが
秘教的な「隠れたるもの、隠されたるもの」が
「一つのネットワークを作り、相互に関係」しているような
「ひとつの劇的空間」の創造を試みていたのだろう
■【『フェルナンド・ペソア伝』刊行記念対談】
澤田直×山本貴光「人はなぜペソアに惹かれるのか」
(「すばる」2023年10月号 集英社 2023/9)
■澤田直『フェルナンド・ペソア伝/異名者たちの迷路』(集英社 2023/8)
■ペソア(澤田直訳)『ペソア詩集』(海外詩文庫 思潮社 2008/8)
■フェルナンド・ペソア(澤田直訳)『新編 不穏の書、断章』
(平凡社ライブラリー 平凡社 2013/1)
(『ペソア詩集』〜フェルナンド・ペソア詩篇「自己心理記述」より)
「詩人はふりをするものだ
そのふりは完璧すぎて
ほんとうに感じている
苦痛のふりまでしてしまう」
(『ペソア詩集』〜フェルナンド・ペソア詩篇「(わたしは逃亡者)」より)
「わたしは逃亡者だ
生まれたとき わたしは
自分のなかに閉じこめられた
ああ しかし わたしは逃げた
ひとは飽きるものだ
同じ場所に
それなら 同じであることに
どうして 飽きぬことがあろうか
わたしの魂は 自分を探し
さまよいつづける
願わくは わたしの魂が
自分に出逢いませんように
何ものかであることは牢獄だ
自分であることは 存在しないことだ
逃げながら わたしは生きるだろう————
より生き生きと ほんとうに」
(『ペソア詩集』〜リカルド・レイス詩篇「(ぼくらのなかには・・・)」より)
「ぼくらのなかには 無数のものが生きている
自分が思い 感じるとき ぼくにはわからない
感じ 思っているのが誰なのか
自分とは 感覚や思念の
劇場にすぎない
ひとつではなく いくつもの魂をぼくはもっている
ぼくではない たくさんの自分がいる
けれども 彼らとは無関係に
ぼくは存在する
彼らを黙らせ ぼくが語る」
(澤田直『フェルナンド・ペソア伝』〜「01.プロローグ」より)
「古来、ペンネームで作品を書いた詩人や作家は少なくないが、ペソアの独特な点は、自分とは異なる人格、外見、来歴、文体を持った別人格の作家、すなわち彼自身が〈異名者〉と呼ぶ存在を作り上げたことにある。研究者によれば百は下らないという彼の創造した異名者のうち、主なものはアルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポスの三人だが、生前にはこれらの異名者たちがペソアの創造によるものだということを知らない読者もいたjほど、まったく異なる作風の作品を書く詩人たちだ。」
「ペソアが創作活動を行った二十世紀初め、ヨーロッパの中心ではプルーストやジョイスといった作家たちが意識の流れをめぐる壮大な物語を紡ぎ出していた。同じ頃、ユーラシア大陸の西端ポルトガルで、ペソアは個の分裂、解体、離散という、二十世紀後半になって脚光を浴びることになる現象に直面して、他者=多者となるという稀有の試みを創作基盤に置いた。筆名や偽名とは一線を画す〈異名〉というトポスを案出することによって、文学における主体の問題や、作者の問題をまったく新たな視点から照射したペソアが世界的に注目されることになったのは、生誕から百年がたとうとしていた一九八〇年代のことだった。いわば時代がペソアに追いついたのだ。「わたし」という存在が確固としたものではなく、むしろゆらぎがあり、複数の束からなっていることは、多くの人が日常生活の端々で感じることだ。」
(澤田直『フェルナンド・ペソア伝』〜「04.異名者登場」より)
「ペソアにおける異名とは、作者とは異なる別人格であり、あたかも小説の登場人物のように作者からは独立している。(・・・)主要な異名詩人はアルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポスの三人、カエイロは素朴な文体を持つ異教的詩人、レイスはギリシャ・ローマの古典文学に通じた端正な文体をもつ古典的詩人、カンポスはほとんど暴力的な前衛の波に身を任せる未来は詩人と、三者三様である。だが、重要なことは彼らのスタイルが異なるという点だけではない。それ以上に、三人の詩人の相互関係、相互作用がきわめて精密に計算されており、三人の作品が組み合わされることでひとつのドラマティックな全体が立ち上がるように構成されている点である。つまり、ペソアの試みは単に様々なスタイルによって詩を書くことではなく、これらの異名者たちによってひとつの劇的空間を作り出すことにあった。
彼はこの試みを「幕間劇の虚構」と呼んだが、それは演劇さながらに登場人物たちが、作者から独立して語り、振る舞うからである。「三人のそれぞれは一種のドラマをなしており、それと同時に三人が全体としてさらに別のドラマをなしている」と詩人は説明している。これこど、ペソアの構想していた「人物によるドラマ」であった。その意味で、読者は、個々の詩作品をそれとして読むだけでなく、異名詩人をキャストとして配した新たな詩空間をメタレベルにおいて読解することが求められている。」
(澤田直『フェルナンド・ペソア伝』〜「07.『不穏の書』」より)
「ペソアは多くの作品を同時に手がけ、一作を完成させることよりも、新たな作品に手を染める傾向があった。その結果、多くの作品が未完の状態に留まり、夥しい量の遺稿が遺された。それは建築現場、あるいは廃墟のようにも見える。なかでも(リスボン在住の会計補佐ベルナルド・ソアレスの手記という体裁をとった)『不穏の書』として刊行されているのは、長短さまざまな五百二十ほど(版によって数に異同がある)の断片からなる、五百頁を優に超す大著だ。
その実態は長いこと謎に包まれており、ベルナルド・ソアレス著『不穏の書』としてまとまって刊行されたのは、死後五十年近い一八八二年のことにすぎない。それはペソア・ワールドに慣れ親しんできた者たちにとっても衝撃的な事件だった。異名詩人たちの紡ぎ出す世界とはまったく異なる新しいタイプの散文家としてのペソアが登場したからである。」
(澤田直『フェルナンド・ペソア伝』〜「19.『オカルティズム』」より)
「詩人としての複数性の問題を追うだけでも容易ではないが、ペソアには秘教の思想家という側面もある。」
「ペソアが本格的に秘教に関心を抱いたのは、一九一五年九月、出版社からの依頼で、「神智学・秘教叢書」に収録されるチャールズ・W・レッドビーターの『神智学入門』の翻訳をしたときからと言われる。サ=カルネイロ宛ての手紙でペソアは、思想的危機にあった頃にこの本を読み、『薔薇十字団の典礼と秘儀』と同じくらい大きな衝撃を受けたと告白している。」
「ペソアは、ブラバツキーやその後継者のアニー・ベサント(一八四七 - 一九三三)の著作も訳しており、その作業を通して、神智学に関心を寄せたわけだが、本人が述べているようい、それ以前から自分なりに世界の隠れた意味を探求していた。その探求から生まれた世界観が、アルベルト・カエイロやアントニオ・モーラという異名者に託されたパガニズモ、つまりキリスト教的な一神教とも神智学とも異なり、複数の神々が存在し、多様性のある世界だった。」
「ペソアによって、世界の隠れた意味とは、唯一の真理としてではなく、多様性を受け入れる教義でなければならなかった。彼が、オカルト、フリーメイソン、薔薇十字団に強い興味を寄せたのはそのためだ。」
「ペソアの異名者の中にはラファエル・バルダヤという占星術師がいて、遺された草稿にも占星術に関するものは少なくない。ペソアにとって占星術にはいくつかの役割があった。一つは自分や他人の性格を知ることで、彼は友人や知人だけでなく、異名者たち、さらには雑誌『オルフェウ』のホロスコープも作成している。バルダヤや「秘教的形而上学の原理」というテクストも書いており、そこでは神智学を「ヘルメス主義の民主化であり、すなわちキリスト教化」にすぎないと断じ、自分の方は真の秘教に関する学を開陳するとしている。」
「ペソアの隠れたるもの、隠されたるものとの関係は一つのネットワークを作り、相互に関係していると言えるだろう。そして、その蜘蛛の巣の中心にあるのは、創造への飽くなきい意志であるように思われる。「私は神話の創造者になりたい。それこそが人間の仕事として許される最高の神秘だ」とペソアは書き留めているが、彼の創作全体が文学という神話の創造に当てられた。」
(澤田直×山本貴光「人はなぜペソアに惹かれるのか」より)
「長年ペソア作品を日本で紹介してきた澤田直氏がこのほど『フェルナンド・ペソア伝 異名者たちの迷路』を上梓したことを機に、自身もペソアに深く魅せられてきた文筆家でゲーム作家の山本貴光氏が、その創造世界について著者の澤田氏と語り合った。(構成/長瀬海 撮影/中野義樹)」(2023・7・22 神保町にて)
(澤田直×山本貴光「人はなぜペソアに惹かれるのか」〜「出会い」より)
「澤田/山本さんがペソアに出会ったのはいつでしたか?
山本/最初の出会いとなると少し曖昧なのですが、おそらくジル・ドゥルーズの本で触れたのがきっかけだったと思います。三十年ほど前でしょうか。彩流社から出ている『ポルトガルの海』を手にとって、もっと読んでみたいと思うようになりました。なかでも決定的だったのが、澤田さんの編訳による『ペソア詩集』(思潮社)です。これを読んで、今回のペソア伝で澤田さんも書かれていますが、なぜか自分のことが書いてあるような気がしたんですね。
どうしてそんなふうに思うのかといえば、やはりペソアの人間の見方でしょうか。彼の詩には、一人の人間が一人ではないという感覚、一人の人間のなかに複数のキャラクターが存在し得るという感じが強く響いています。自分をペソアと比べるのは不遜な気もしますけれど、私も一つの固定したアイデンティティという見方に違和感を覚えていたので、それでもいいんだと勝手に励まされました。高校では理系を選んだけど文系にも興味を持ち続けたり、大学を出たあとでゲームクリエイターの仕事をしばらくやって、現在は大学で哲学を教えていたり。本も互いに関係のなさそうなものを書いたりしているせいか、ときどき「同姓同名の別人がいるのかと思った」と言われたりします(笑)。そんなこともあって、自己紹介をしてくださいと言われると困るんですね。自分のなかに複数のものがあるのに、「要するに何者ですか」と一つにアイデンティファイするように期待されても困るなあと。
だからでしょうか。ペソアの言葉に触れて、この詩は自分が書いたんじゃないかと思うほど響いた。澤田さんが編訳された『ペソア詩集』はそのきっかけとなった一冊で、思い入れがあります。この詩集を読んでからというもの、ともかくペソアと名のつくものを見かけたら読む。あるいは、原語でも読みたいからポルトガル語の勉強をする、といったことをしてきました。」
(澤田直×山本貴光「人はなぜペソアに惹かれるのか」〜「ペソアと漱石」より)
「山本/今回の評伝を読んで思い浮かべた同時代人がいました。夏目漱石です。漱石はご存じの通り、政府から英語の研究をするように命じられてロンドンに留学するんですが、それを無視して「リテラチュア」の研究をするわけですね。彼にしてみたら、それは未知の概念で、漢語でいう「文学」とイコールにして良いのかがわからない。大学の授業に出て、いろいろ聞いてみるもののピンとこない。それで本屋でいろんな分野の本を買い漁って、下宿に立て籠もってそれを読みまくる。自分で道を切り開く構えです。これはあとで伺えればと思うのですが、多方面に関心を向けたペソアと重なって見えます。
では、漱石がどういう落とし前をつけたかというと、古今東西のあらゆる文学を一般化しようとした。帰国後に東京帝国大学で「ジェネラル・コンセプション・オブ・リテラチャー」という文学論講義をやっています。当時の文学とは何かという議論では、社会の問題が書かれていないとダメだとか、人間の生き様を表現していなければいけない、なんてことが言われていた。でも、漱石はそういう捉え方では狭すぎて、同時代の局地でしか通用しないのではないかと考え、文学の一般理論を構築しようとした。そのとき土台にしたのが当時の最新科学である心理学でした。文学という営みを成り立たせている人間の意識や精神という基盤まで戻って捉え直そうというわけです。そこでもっぱら参照されたのは、ウイリアム・ジェイムズ流の意識観で、つまり意識とは川の流れのようなもので、次々と注意の焦点が移り変わってゆくというモデルでした。人はひとつのことにぐっと集中することもあるけれど、たいていは外からくる知覚や自分の中で生じるいろんな変化に次々と気をとられながら生きている。その移ろう内容を漱石は例の「F+f」(認識と情緒)として捉えたのでした。
ペソアも生きた十九世紀末から二十世紀にかけて、西洋では人間の心理への関心が高まっていましたね。無意識に目を向けるフロイトの精神分析しかり、「事象そのものへ」といい、意識の働きを探究したフッサールの現象学しかり。心理学の「意識の流れ」しかり。意識とは次々と移り変わるものだという書き方は、ヴァージニア・ウルフが得意としたものですが、ペソアを読んだあとに「意識の流れ」と呼ばれる文学を読むと、そこにあるのは何か単一の意識のように見えてくる。その点、ペソアはさらにラディカルで、意識がマルチプルというか、千々に乱れた状態を素直に認めて受け入れている。ペソアは同時代の心理学が前提としていた人間の意識の根っこにある単一性を認めていない気がして、それが百年以上の月日が経っても彼の作品が色褪せない理由なのかなと思います。漱石も意識の流れや個人主義について考えながら、個人というユニットそれ自体に疑いを持っていた。その視点を突き詰めると、ペソアのような考えに通じる気がしたのでした。
澤田/いやぁ、とても面白い捉え方ですね。刺激的な批評をありがとうございます。まさに漱石があの時代に生きた矛盾を、ペソア自身も抱えていたんだと私も思います。」
(澤田直×山本貴光「人はなぜペソアに惹かれるのか」〜「蔵書という思想」より)
「澤田/ペソアのなかに百科全書的な関心というのは紛れもなくあったと思います。世界を丸ごと、そっくりそのまま捉えたいというか。それは理解したいというのとも違う、不思議な欲望だったように思われます。一言で捉えたいと言っても、知的に、感覚的に、感情的に捉える方法があると思うのですが、ペソアはあらゆるレベルであらゆるものを捉えたいと思った。ですが、薬学や化学、工学にまで手を伸ばすというのは、なかなか面白いですよね。僕はそこまで精査して見ていなかったので、山本さんに教えてもらって、なるほどと思いました。」
(澤田直×山本貴光「人はなぜペソアに惹かれるのか」〜「オカルティズムとペソアの関係」より)
「澤田/最後にオカルティズムの話をさせてください。今回、伝記を書くうえで難しかったもう一つはオカルトの部分でした。彼のオカルティズムをどこまで本気で読まなければいけないかがわからなかったのですが、ペソアを理解するためにはオカルティズムは避けて通れません。彼はその手の本を多数読んでいただけでなく、ブラヴァツキーやベサントを翻訳出版しています。また、秘教的な詩も多数書いているし、そもそも『メンサージェン』という詩集が「隠れたるもの」を巡るメッセージなのです。ペソアはキリスト教を否定し、異教的な世界を再構築することを提唱しているわけですが、その一方で、オカルト的なものこそが世界の真理を教えてくれると確信に満ちた手紙も書いています。
山本/オカルティズムについての章で、アレイスター・クロウリーとの交流も書き込まれていますよね。あそこはとても愉快に読んだ一コマでした。先ほどお話に出たように、ペソアは同時代の科学にも関心があった。蔵書には相対性理論に関する本もあったりして。二十一世紀の現在から見ると、科学とオカルトは相容れない感じが強いかもしれませんが、二十世紀初頭は科学とオカルトは重なって見えるようなところがあったように思います。
少しペソアの文脈から外れますが、二十世紀のはじめ頃、特殊相対性理論が提示されて程なく、アインシュタインの先生の一人、ヘルマン・ミンコフスキーが「四次元」という概念で整理しました。三次元の空間に時間という一次元を加えてまとめて扱おうというわけです。それと前後して、シュルレアリスムや未来派など、前衛芸術の各方面で四次元という概念(ミンコフスキーの用法とは違う場合もありますが)に刺激を受けた作品が現れています。一枚の絵に時間的に連続した一連の動きを表現するような絵画は分かりやすい例でしょうか。四次元という科学の概念が、他の分野にも波及していたわけです。これは、神秘思想やオカルトにも親和性の高いアイディアだったと思います。
澤田/確かにそういう同時代性は重要ですね。ベルクソンだって神秘主義に強い関心を示していましたし、他にも二十世紀初めのフランス哲学では神秘主義がきわめてまじめに論じられていた時期があります。ペソアの場合は、神智学、グノーシス主義、薔薇十字思想など異端の思想全般に通底するものを真剣に考えていました。
山本/そうですよね。科学は基本的に繰り返し確認できる現象を相手にしますが、それで万事を説明できるわけではない。それ以外のことをどう理解できるか。百科全書的な関心を持っていたペソアが、オカルトにも興味を向けていたのは自然なことなのかもしれません。あと、個人的にもう一つ面白かったのは、ペソアの占星術好みです。異名者のホロスコープを描いたりしている。占星術の知は、ヨーロッパの文脈でいえば、少なくともルネッサンス以来、人々が地上と天空の出来事を照応させて考えていたことを明かすものだと思います。自分と結びついた天体が今どうなっているのかを見れば、その運命も読み解けるという発想がその基礎にありました。ということは、マクロコスモスのなかのミクロコスモスたる自分が連動して何か起きている、といった宇宙の見方を好んでいなければ、ホロスコープを描いたりしなかったと思うんですよね。
澤田/おっしゃる通りで、ペソアはそういう意味でも、近代的な自我とはまったく違う世界観を持っていました。近代的な自我の考えというのは、環境から遮断されてもそれだけで存在するものですよね。デカルトの哲学はまさにそのようなものでした。でも、ペソアはそういう風には考えない。あらゆるものが環境との関わりのなかで存在する。だから、自分や知人といった個人のホロスコープだけではなく、『オルフェウ』といった雑誌自体のホロスコープも作っていた。ペソアは一時期、職業的な占星術師になろうと考えていた時期もあるほどのめり込んでいて、異名者のなかにはラファエル・バルダヤという占星術師もいます。
山本/雑誌のホロスコープ! そう考えるとペソアって、彼が書いたものも含めて、エコロジカルだと思うんです。「自然を守ろう」という意味でのエコロジーではなく、その言葉を作ったエルンスト・ヘッケルの、あるいは、その意味をさらに拡張したフェリックス・ガタリの文脈におけるエコロジー。ガタリは、かつて環境問題が取り沙汰されたときに、多くの人は自然をどうにかしようと対症療法的に考えるけど、それだけでは駄目だと言いました。エコロジーは自然環境だけの問題ではない。我々は社会というエコロジーも作っているし、そのなかにいる個人の精神のエコロジーもある。だから、自然環境と、社会、それから個人の精神、少なくともこの三重のエコロジーで物事を見なくては地球環境の問題は解決できないのではないか、と考えたわけです。つまり、ここで言われているのは、複数の重なり合う関係をどう見るかという問題ですよね。それこそ仁科の言葉ではありませんが、環境のなかにいる私が環境を変える。その環境によって私が変わる。そこがどうもペソアに重なるような気がするんです。
澤田/まさにそうですね。だから、ペソアには多島海をモチーフとしたカリブ海の詩人・思想家エドゥアール・グリッサンが提唱した「〈関係〉の詩学」という考えに通じる部分があると思います。単一起源ではなく、複数のパースペクティヴに基づいて捉え、開かれたアイデンティティを考える。そういう意味では、ペソアって、ポストコロニアルだったり、複数言語だったりといった現在、世界文学が問題にしているような主題系を先取りしていた作家でもあるんですよね。」
○澤田 直 (さわだ・なお)
1959年、東京生まれ。パリ第一大学大学院哲学科博士課程修了。現在、立教大学文学部教授(フランス文学)。
著書に『〈呼びかけ〉の経験:サルトルのモラル論』(人文書院)、『新・サルトル講義:未完の思想、実存から倫理へ』(平凡社)、『ジャン=リュック・ナンシー:分有のためのエチュード』(白水社)、『サルトルのプリズム:二十世紀フランス文学・思想論』(法政大学出版局)など。
訳書にフィリップ・フォレスト『洪水』(共訳、河出書房新社)、『シュレーディンガーの猫を追って』(共訳、河出書房新社)、
『夢、ゆきかひて』(共訳、白水社)、『荒木経惟つひのはてに』(共訳、白水社)、『さりながら』(白水社)、ミシェル・ウエルベック『ショーペンハウアーとともに』(国書刊行会)、J-P・サルトル『真理と実存』『言葉』(以上、人文書院)、『自由への道』全6巻(共訳、岩波書店)、『家の馬鹿息子:ギュスターヴ・フローベール論』4巻、5巻(共訳、人文書院)、フェルナンド・ペソア『新編 不穏の書、断章』(平凡社)、『ペソア詩集』(思潮社)などがある。
○山本 貴光 (やまもと・たかみつ)
文筆家、ゲーム作家。1971年生まれ。著書に『マルジナリアでつかまえて』『「百学連環」を読む』『文学問題(F+f)+』、共著に『世界を変えた書物』『人文的、あまりに人文的』『高校生のためのゲームで考える人工知能』、訳書にサレン/ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ』などがある。