藤原晴彦『超遺伝子(スーパージーン)』
☆mediopos3216 2023.9.7
私たちの身の回りには
生物たちの複雑で不思議な現象がたくさんある
それらの現象のなかには
「超遺伝子(スーパージーン)」が
関わっているものがある
「超遺伝子(スーパージーン)」の研究が
始まったのは比較的最近のことだそうだが
その発想のもとになったのは
150年以上前のダーウィンやウォレスだった
とくにウォレスは南米のアマゾン川の探検で
同僚のヘンリー・ベイツとともに多数の昆虫を採集し
そのなかで「毒のある生物種(モデル種)に
毒のない生物種(擬態種)が
模様や形などを似せて捕食者から逃れる現象」を発見する
いうまでもなくその当時は
スーパージーンはもちろん
ジーン(遺伝子)のことすら知らずにいたが
その不思議な現象に気づいた
「ウォレスは、ナガサキアゲハの擬態型のメスは
どの世代であっても、いつも同じ形や模様をしている
(決して擬態型と非擬態型の中間型はなく)ことを
不思議に思った」というのである
上記の擬態のように
昆虫だけでなく魚類・爬虫類をはじめ
ほとんどの動物に見られる擬態は
「ベイツ型擬態」と呼ばれ
「毒のある生物種同士が互いに模様や形などを似せる」
擬態は「ミューラー型擬態」と呼ばれている
さてスーパージーンの大きな特徴は
「中間型が生じない」ということである
通常のジーンであれば「中間型」が存在するが
ナガサキアゲハの擬態型のメスは
擬態型か非擬態型かだけでその間は存在しない
そしてオスはまったく擬態しない
なぜそんな現象が起こるのか
その解明のためにはゲノム配列の視点が不可欠で
通常のゲノム(遺伝子)とは
次の点で異なっている必要がある
「①複数のジーンが集まって、
擬態などの複雑な現象を引き起こす。
②複雑な現象が毎世代起こるためには、
スーパージーンの構造は変化してはならない。
③そのためには複数のジーンは
染色体の1カ所に集まる必要がある。」
「④逆位によってスーパージーン構造が維持される」
④の「逆位」は遺伝子の組換えが
起こりにくくするようなスーパージーンの固定である
その「逆位」によって
中間型のない擬態型か非擬態型かの形質を
変わらずに伝えることができるのである
こうした複雑な生物現象が起こるのはおそらく
「その個体にとって生死や種の維持に関わるような」
「擬態のように食うか/食われるか、
サクラソウのようにハチが送粉してくれるか/くれないか」
といったことから
「極めて長い進化の過程で環境に高度に適応した結果」
なのだろうというが
それにしても生物進化に関わる現象は奥深く興味深い
さて昨今はこうしたゲノム解析によって
さまざまな生物現象を解明しようとする
研究者のフロンティア精神が発揮されることが多いだろうが
その反面「解析」にとどまらず
ゲノム操作という技術つまり遺伝子組換えも
さまざまに行われるようになっている
科学は常に技術とむすびつき
その技術は政治や経済とも密接に関わってくる
そこには決して超えてはならない境界があるはずだが
おそらくその境界は
「知りたい」「使いたい」の果てに
暗黙のうちにそしてなしくずし的に
超えられてしまうことになるだろう
光は闇をも生んでしまうからである
かつて太古の時代
アトランティス文明が亡んだのも
そうした技術の暴走が大きな原因になった
という伝説も伝わっているが
そんな物語が繰り返されませんように
■藤原晴彦『超遺伝子(スーパージーン)』
(光文社新書 2023/5)
(「第1章|スーパージーン物語のはじまり」より)
「スーパージーンは複雑で不思議な現象によく見られるが、私たちの身の回りにはそのような生物現象がたくさんある。13年や17年といった素数の周期にしか羽化しない素数ゼミ、メスの気を引くために巨大で華やかな巣をつくるニワシドリ(庭師ドリ)、孵化したときの砂浜の温度が29度より低いとオス、30度より高いとメスになる割合が高くなるウミガメ————。こういった現象がすべてスーパージーンによるものだというわけではない。しかし、スーパージーンで制御されていることが今後示唆されるものには含まれているかもしれない。
これらの現象を当の動物さらには他の動物が不思議とは思わないだろう。不思議と思っているのは人間だけに違いない。なぜ、私たちは不思議に思うのだろう。
端的にいえば、私たちが考える「常識」とは異なるからだ。夏になればセミの鳴き声が聞こえるから毎年羽化していると思うし、セミの寿命から考えても13年や17年は長すぎるし、その長さを正確に計測するなんて無理だろう。また、なぜ素数である必要があるのだおる。私たちの知っている知識からは推し量れない。
私たちが知っていると思っているのは、ヒトや身の回りの動植物などの観察から得た、きわめて限られた知識であることが多い。また、教科書もできるだけ共通性の高い原理や知識だけを教えようとするので、例外的なことにはあまり触れることがなく、「常識」は作られていく。
昆虫、魚類、爬虫類、鳥類などに不思議な現象が数多く見られるのは、私たちがいつもヒトに近い哺乳類などの知見から、すべてを推し量ろうとするからかもしれない。たんに知らないだけなのだ。地球上には哺乳類以外の生物のほうが圧倒的に多いので、不思議だと思うことには事欠かない。
150年以上前に、こういった不思議な現象に魅入られたのが、ダーウィンであり、ウォレスだった。この時代は博物学の時代であり、ダーウィンはナチュラリストとして、ウォレスは生物ハンターとして世界中を駆け巡り、奇妙で不思議なたくさんの生き物に出会った。(・・・)
スーパージーンが関与する不思議な現象は、進化論が深まっていく中で見いだされた。その中でも、本章で紹介するナガサキアゲハやシロオビアゲハの擬態は、最初に示されたスーパージーンの例の1つである。その不思議さを詳細に述べたウォレスは、スーパージーンどころかジーン(遺伝子)すら知らなかった。しかし、彼が指摘した蝶の性質は150年以上経った今でも、正しくスーパージーンの特徴を完全に言い当てている。」
「南米のアマゾン川の探検で、ウォレスは同僚のヘンリー・ベイツ(1825−1892)とともに多数の昆虫を採集している。
(・・・)
無毒な種(擬態種と呼ぶ)が有毒な種(モデル種と呼ぶ)に似せるこのタイプの擬態は、後年「ベイツ型擬態」と呼ばれるようになり、昆虫だけでなく、魚類や爬虫類など、ほとんどの動物に見られることが分かっている。
一方。ドイツのフリッツ・ミューラー(1821−1897)は、系統的に離れた有毒な蝶の間でも紋様や形が似たものがいることに気づいた。この擬態は「ミューラー型擬態」と呼ばれており、毒のあるハチやカエル、ヘビなどでも見られる。不思議なことに、ベイツ型やミューラー柄を含め、蝶の擬態はスーパージーンによって成魚されているものが多い。」
「ベイツが発見した擬態(ベイツ型擬態)は、毒のある生物種(モデル種)に毒のない生物種(擬態種)が模様や形などを似せて捕食者から逃れる現象である。一方、毒のある生物種同士が互いに模様や形などを似せるミューラー型擬態も知られている。
ウォレスが興味を持ったナガサキアゲハには2種類のメスがいて、1つは毒蝶オオベニモンアゲハに似せた擬態型、もう1つは擬態型とは全く異なる模様を持つ非擬態型である。シロオビアゲハにも同じように2種類のメスがいて、擬態するのはメスの一部だけである。いずれの蝶でもオスは全く擬態しない(ナガサキアゲハではメスと違う模様、シロオビアゲハでは擬態しないメスに似た模様)。
ナガサキアゲハやシロオビアゲハでは、擬態型メス、非擬態型メス、オスとそれぞれ模様は異なるが、その模様はどの世界でもいつも同じである。私たちは経験的に、ヒトやその他の動植物では、親の形質が交じり合って次世代に伝わることを知っている。娘の眉は母、口元は父に似ている、というように。
しかし、これらの蝶ではそのような「中間型」は決して現れず、擬態に必要な個々の特徴(形質と呼ぶ)は混ざることなく次世代に伝わっていく。ウォレスがヒトの特徴から説明した例のように、これは不思議である。
どの世代でもメスやオスはいつも同じ模様で、中間型は生じない。(・・・)捕食者にとって最も有効に働く模様は少しでも変わっては困るのである。「中間型が生じない」ことこそがスーパージーンの大きな特徴で、今もその謎を解こうとして研究者が立ち向かっている。
ウォレスは遺伝学やスーパージーンのことなどまるで知らなかったと考えられる。そんな中、遺伝が関わるこれらの蝶の不思議を的確に指摘したことには驚かされる。」
(「第2章|スーパージーンに迫るための基礎知識」より)
「ウォレスは、ナガサキアゲハの擬態型のメスはどの世代であっても、いつも同じ形や模様をしている(決して擬態型と非擬態型の中間型はなく)ことを不思議に思った。この蝶の後翅の色や形は非常に複雑で複数の遺伝子が関与していると考えられるが、いつも同じ遺伝子群が伝わるためには、身長の遺伝子群とは異なり、特定の染色体上にすべてが集まっている必要がある。
しかし、減数分裂の際に相同染色体の間での、「組換え」という遺伝子の入れ替え現象が今度は問題となる。組換えにより、染色体の中でも離れた位置にある遺伝子が、相同染色体の間で入れ替わってしまうからだ。したがって、ナガサキアゲハの擬態型メスを作るための遺伝子群は、特定の染色体の狭い範囲内に固まっているのではないかと予想される。」
(「第3章|天才たちによるスーパージーンの予測」より)
「ジーンとスーパージーンの違いをもう一度整理しておこう。
ジーン(遺伝子)
①1個のジーンには、1つのタンパク質の情報が含まれている。
②個々のタンパク質は、細胞や体の中で酵素や体の成分になるなど、単一の働きを持つ。
③ヒトのゲノムの中には2万個ほどの遺伝子が存在する。
スーパージーン(超遺伝子)
①複数のジーンが集まって、擬態などの複雑な現象を引き起こす。
②複雑な現象が毎世代起こるためには、スーパージーンの構造は変化してはならない。
③そのためには複数のジーンは染色体の1カ所に集まる必要がある。
しかし、スーパージーンに関して③だけでは不十分である。なぜなら、組換えという現象によってスーパージーンの一部が、他の相同染色体に乗り移ってしまう可能性があるからだ。フィッシャーが卓越しているのは、「組換えを抑制することがスーパージーン構造の維持に関与しているはずだ」と指摘したことである。
同じ頃、ドブジャンスキーは、相同染色体の一部がひっくり返る(染色体逆位(逆位)」が組換えを抑制することを報告した。このことは、専門家の中でも知らない人がいる。逆位以外にも組換えを抑制する方法はあるようだが、フィッシャーのアイデアとドブジャンスキーの報告が結びついて。スーパージーンの条件には次のものも加わった。
④逆位によってスーパージーン構造が維持される(ことが多い)。」
(「第4章|加速するスーパージーン研究」より)
「ゲノム配列が分かれば、なぜスーパージーンが見つかるのか? それはスーパージーンの領域の配列が相同染色体の間で大幅に異なっているからである。同じ種の中で異なる形質(種内多型)が見られれば、それらのゲノム配列を比較する。その結果、ある領域の配列が非常に異なっていて。そこに逆位があれば、種内に異なるタイプを生みだすスーパージーンかもしれないと推測がつくようになった。全ゲノム解読が可能になったおかげで、使えるようになった手法である。」
(「第8章|スーパージーン物語の過去・現在・未来」より)
「スーパージーンの第1のキーワードは「複雑な生物現象」である。
(・・・)
「複雑で面白い現象」というのが、実はスーパージーンにとって重要である。複雑な生物現象は、おそらく極めて長い進化の過程で環境に高度に適応した結果、得られたものだろう。単に花が白い/赤い、翅が長い/短いといった単純な現象ではなく、擬態のように食うか/食われるか、サクラソウのようにハチが送粉してくれるか/くれないかといった複雑な現象、その大本にスーパージーンが強く結びついているのである。
スーパージーンが関わっているのは、その個体にとって生死や種の維持に関わるような現象である。このような現象には、進化の過程で選択された最適の形、模様、行動などが複雑に絡みあい、多数の遺伝子が関わっている。」
「スーパージーンの第2のキーワードはこの「多数の遺伝子」である。
大半の生物現象は遺伝子そのものが制御している。無論、神経やホルモンで制御されるものも多いが、その大本の情報は遺伝子から得られたものである。生物現象がたった1つの遺伝子で制御される場合もあれば、複数の遺伝子で制御される場合もある。
(・・・)
スーパージーンに関する現象は(・・・)ウォレスが述べたように、擬態をするメスのナガサキアゲハは代々同じ模様をしている。擬態をしないメスも代々同じ模様をしている。父や母が変わろうが、その子孫に擬態と非擬態の中間の模様は決して生じないのである。」
「スーパージーンの第3のキーワードは「常に同じ」である。
常に形質が変わらずに伝わるという不思議な現象が起こるためには、その形質をコントロールする複数の遺伝子は同じ染色体上に隣接して存在しなければならない。それによって複数の遺伝子が同時に次世代に伝わる確率が格段に上がる。しかし、それだけでは不十分である。組換えによって複数の遺伝子が分断して伝わってしまうおそれがあるからだ。それを防ぐには複数の遺伝子が組換えを受けないようにする必要があるが、それを可能にするのが逆位である。
逆位によって組換えが抑制され、常に同じ遺伝子セットが伝わることを。1930年に具体的に仮説として示したのが、統計学の巨人ロナルド・フィッシャーだ。」
「ゲノム解析などから明かになったスーパージーンの構造をまとめよう。
①同じ種に複数の形質のタイプがある(例えば擬態するメスとしないメス:種内多型)場合に、ある染色体の特定の位置に複数の遺伝子がスーパージーンとして固まって存在する。
②相同染色体間で比較すると、スーパージーン領域のDND配列が大きく異なっていて、それぞれの配列(領域)が複数のタイプの形質に対応していると考えられる(残念ながら、現時点では各遺伝子の機能が明らかになったスーパージーンはほとんどない)
③多くの場合、相同染色体の間に逆位が生じることで組換えが抑制され、長い進化の過程で突然変異が蓄積したため、配列が大きく異なったと思われる。」
「相同染色体を持つことも、染色体が複数に分かれていることも、組換えによって遺伝子の組み合わせを増やすことも、遺伝的多様性を増やすための工夫なのだろう。性は遺伝的多様性を確保する場であり、交雑は遺伝子をシャッフルする機会を与える。
大部分の染色体領域は、赤の女王が走り回るように常に変動するように仕向けられている。しかし、組換えを抑制し、同じ遺伝子セットを次世代に伝えるスーパージーンはこのような原則に反しているように見える。おそらく、スーパージーンや性染色体は例外的な染色体領域として存在し、重要な形質を変わらないように伝える役割を背負っているのだ。」
◎目次◎
はじめに
第1章|スーパージーン物語のはじまり
第2章|スーパージーンに迫るための基礎知識
第3章|天才たちによるスーパージーンの予測
第4章|加速するスーパージーン研究
第5章|スーパージーンは生き物の不思議の源
第6章|スーパージーンはヒトにもあるか
第7章|アゲハの擬態とスーパージーン
第8章|スーパージーン物語の過去・現在・未来
おわりに
○藤原晴彦(ふじわらはるひこ)
1957年兵庫県生まれ。東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻博士課程修了(理学博士)。その後、国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)研究員、東京大学理学部生物学科動物学教室講師、ワシントン大学(シアトル)動物学部リサーチアソシエートなどを経て、東京大学大学院新領域創成科学研究科先端生命科学専攻助教授、同教授などを歴任。専門は擬態・変態・染色体。これまでの著書に『似せてだます擬態の不思議な世界』(化学同人)、『だましのテクニックの進化』(オーム社)などがある。
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