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三宅中子『習慣の精神史』/佐々木 典士『ぼくたちは習慣で、できている。』

☆mediopos2614  2022.1.12

三日坊主はだれにでも経験があるだろうけれど
なにかを習慣にすることはむずかしい

最初から生活習慣として刷り込まれているときは
むしろ逆にその習慣から逃れることはむずかしいけれど
あらたに習慣をはじめるときには
それなりの困難さを経ることになる

古代インドの懐疑主義者サンジャヤから
アレクサンダー大王に随行したピュロン
その思想を集大成したセクストゥス・エンピリクスから
一九〇〇年後のピュロンであるモンテーニュ
デカルト・パスカル・ニーチェ・ノヴァーリスなど
習慣をめぐって哲学的な思索が展開されている
三宅中子『習慣の精神史』の面白さを
どのようにご紹介しようかと思っていたところ

とてもカジュアルなノウハウ本
佐々木 典士『ぼくたちは習慣で、できている』が
文庫化されたのでそれを枕に使いながら少し

「習慣」を身につけるためには「努力」が必要だが
その場合それに対する「報酬」のあるなしで
その態度はずいぶん変わってくる
しかし結局のところ「習慣」が刷り込みではなく
実質的に身につくのは
それを「自分で選んでいる」ということに尽きるだろう

好きこそ物の上手なれとは言い得て妙で
何度も何度も繰り返すことで
なにかをたしかに「習慣」にし
そこからなにがしかのものを得るためには
「努力」や「我慢」などではない
魂のやむにやまれぬものからの動機づけが不可欠だ

そしてその「習慣」によってひとは
じぶんでじぶんを形成していくことができる

懐疑主義者のセクストゥス・エンピリクスから
深く影響を受けたモンテーニュは
「習慣は第二の自然であり、自然に劣らず強力である。
習慣が積み重なって私の本質になった」としたが
ひとは「第二の自然」である「習慣」によって
みずからをつくりあげていかなければならないのだ

しかしパスカルはその「第二の自然」は
「生まれつき持っていた真の本性(第一の自然)を失い、
第二の自然として出来上がる」ことで
ほんらいてきな「第一の自然を破壊していく」人為的な習慣は
ひとを神から遠ざけてしまうのだという

神の死を宣言したニーチェは
神の不在ゆえに
「習慣」なくして生きてはいけないとしたが

ノヴァーリスは
「種々雑多な習慣の複合」である
「日常的な習慣の中に埋没」している低次の自我に気づき
その「反省」によって「自己自身を知」り
「自己認識を得て真の自我、より高い自我」へと向かおうとし
それを錬金術的な魔術として表現する

そしてそれは天才のみがなし得る技ではなく
「あらゆる人は天才になる可能性をもっており、
従ってすべての人は魔術を使う可能性をもっている」とする
そのための「訓練」が「習慣づけ」なのである

ベルクソンも「持続の相のもとに見ることを
習慣づけようとした」がそれは
みずからの魂を高次の自我へと向かわせるものだとしたのだろう

結局のところ「習慣」を可能にするには
魂の深いところからくる動機づけがあるかどうかなのだろう
それがなければ外的な強制や目先の「報酬」といったことで
みずからを錬金術的な変容へと導く「習慣」を
じぶんのものにすることはできない

佐々木 典士『ぼくたちは習慣で、できている』には
「習慣を身につけるための55のステップ」も含め
さまざまなノウハウが紹介されているけれど
じつのところ重要なのは深い動機づけであって
それさえあればノウハウは意味をもたないのかもしれない
どうしてもそうせざるをえないとき
ひとはどんなハードルも時空さえ超えてすすむことができる

■三宅中子『習慣の精神史―三宅中子論文集全一巻』
 (西田書店 2021/10)
■佐々木 典士『ぼくたちは習慣で、できている。増補版』
 (ちくま文庫 筑摩書房; 2022/1)

(佐々木 典士『ぼくたちは習慣で、できている』より)

「ぼくは以前、人生を「苦しみの我慢大会」のようなものだと考えていた。努力という苦しみに耐えられた限られた者だけが勝利し、美酒に酔える。しかし、習慣について今まで見てきたことからすると、どうやら努力の実体はそれとは全然違うようだ。」

「すさまじい努力を続けているように見える人が、努力はしていないとか、自分のしている努力はたいしたことがないと言っている。ぼくはずっと、こういう言葉は一流の選手や作家ならではの謙遜だと思っていた。もちろんその努力を簡単に想像するわけにはいかないが、その意味が少しわかった気がする。
 混乱の原因は恐らく、「努力」という言葉が2つの意味で使われているからだ。

 努力という言葉の中に含まれている2つの意味、ぼくはこれを本来の「努力」と「我慢」に分けて考えたほうがいいのではないかと思っている。
 ぼくはこの2つの違いをこんなふうに考えている。
●「努力」は支払った代償に見合った報酬がしっかりあること
●「我慢」は支払った代償に対して正当な報酬がないこと」

「努力か、我慢かを分けるポイントは、受け取る報酬が支払う代償に見合っているかどうかのほか、それを「自分で選んでいるか」という点にもある。」
「習慣が続くのは、それが自分が選んだ行動だからだ。「好きなことなら続く」と言われるのは、たとえそこに苦しみがあっても、自分で納得して選んでいるからだ。」

「ウィリアム・ジェームズは習慣を「水路を穿つ水」に喩えた(『習慣の力』)。何もないところに水を流しても、最初は通りやすい道がないので、流れは拡散するだけでうまく流れない。
 しかし何度も何度も水が流れるうちに道ができ、それは深く広くなっていく。(・・・)
 「人は、その人が1日中考えている通りの人間になる」という言葉があるが、その通りだと思う。人が1日に考える7万もの考えのそれぞれが、自分の中で反響され、少しずつ少しずつ影響を与えていく。何度も何度も考えたことがその人の人格を作っていく。
 他の誰かや神様すらも忙しすぎて自分がしていることを見てくれないかもしれない。でも自分の脳は、自分が考えていることや目にしていることに、今この瞬間も影響を受け習慣を作り続けている。」

(三宅中子『習慣の精神史』より)

「セクストゥス・エンピリクスの『概説』の骨子は「それ自体においてあるもの」の存在は判断保留してあらゆるものを相対的にとらえるということにあったが、そのあとに、人々にとって物事は体験の頻度によって受け取り方が違うこと、つまり、習慣になっている場合とそうでない場合で受け取り方に違いが出来ることを述べている。」
「セクストゥスを近世に伝えたモンテーニュの著書『エセー』の特徴は習慣についての記述である。(セクストゥスの『概説』では)我々の存在ぶも物事の存在にも何一つ恒常なものはない。我々も我々の判断も、そしてすべての死すべきものも絶えず流転する。したがて確実なことは一つとしてたがいに立証されない。判断するものもされるものも絶えざる変化と動揺の中にあるからである。恒常なものは、在るものである。在るものはそれ自体であるものであった。先ずはパルメニデスの「あるもののみがあり、あらぬもの(空虚のこと)はあらぬ。あるものは不変不動で、全体として連続して一つになっているもの(唯一者)である」があった。
 そしてモンテーニュは自身の持っているもので最も確固としたものとして「私自身」を発見し、私自身を注意深く観察していくうちに私自身を作り上げているものは生活上の様々な習慣であることに気づく。「習慣は第二の自然であり、自然に劣らず強力である。習慣が積み重なって私の本質になった」。

「短い長いの区別はともかく(・・・)生のいたるとこで習慣は発生し、人はいわばそれらに苦しめられ、あるいは護られて生きている。自分の中に出来上がってくるいろいろな種類の習慣は無くなることがない。無くなったら、それこそ一大事だ。ニーチェは誰よりも切羽詰まっている。神亡き後、少なくともさしあたり、人は習慣の力に頼らざるを得ないのだ。ニーチェのこの指摘は習慣論の重要な部分である。」

「パスカルは『パンセ』の中で興味深い習慣論を展開している。」
「「『パンセ』の四三〇は人が原罪によって堕落して惨めになってしまったことを説明する。はじめ人は神の手の中にいて神の栄光と知性で満たされ、清く罪なく、目は神の威容を見ることが出来た。死と惨めさに苦しめられることもなかった。ところが人は思いあがって、神から独立して自分の力だけで生きられるものと錯覚したので、神はなすがままにまかせた。人は神の手の中にいた時の本性を喪い、本能がいくらか残っている程度になってしまい、邪欲の中に沈み、もはや天使ではなく、獣のようになって神から遠く離れて、そのような状態が彼の第二の本性になってしまった。神の支配を逃れようとして恩寵を失った人間は「真の本性」を失ってしまったのである。神の手から堕ちた人間は、彼の本性(ナチュール、つまり自然)を失い混乱の渦の中に置かれ、この非常事態を収拾するものとして第二の自然が形成されていったのだ。これが「習慣」というものである。(・・・)人は生まれつき持っていた真の本性(第一の自然)を失い、第二の自然として出来上がる習慣をもって第一の自然を破壊していく。」

「我々の日常生活は種々雑多な習慣の複合で、自我は日常的な習慣の中に埋没しているうちは自我のより低い状態で真の自我ではない。自我がこのことに「気が付く」と日常的な習慣は抵抗となり始める。習慣が「障害」となる時、自我の内面化が起こってくるといえるであろう。内面化は外側の自我と内側の自我の分裂になり、ノヴァーリスはこのような分裂を「ロマン化」という。(・・・)
 そして「気が付く」、つまり自我が日常のより低い自我に埋没していることに気が付く時「反省」が起こる。自我は自己の内にかえって自己自身を知ること、自己認識を得て真の自我、より高い自我に達することが求められる。ここでノヴァーリスは錬金術を持ち出して考えるヒントにする。」
「ノヴァーリスの魔術とは、日常のより低い自我に埋没していることに気が付いて自己自身を知って、自己自身のすみずみにまで眼光を行き届かせて、真の自我、より高い自我を得ることである。そして自己の外にある客観に引きずり回されることなく、「我々のいわゆる自我」、「より低い自我」から自由になってそれに向かって働きかけることの出来るものが魔術師である。
 魔術を使うものは感覚の世界を自由に操ることが出来、自分自身の外面的感覚の部分や身体的条件に溺れてしまうことなく逆に支配することが出来る。
 従って魔術は決して特別なものではない。彼にとって「天才」とはこの魔術を駆使できるもののことであるが、天才は多くの人々に共通であり、あらゆる人は天才の萌芽である。つまりあらゆる人は天才になる可能性をもっており、従ってすべての人は魔術を使う可能性をもっている、と言う。」
「魔術的な創造的自我が最高のものの感覚、つまり宇宙を支配する情緒、宇宙の霊を直感する時、人間と自然との調和がなされ、神が明瞭になってくる。自然の法則の理解もこのような直感に基づいてなされないと、単なる習慣の法則を得るたけのことになってしまう。この調和を得るために訓練が要ることになる。
 訓練とは習慣づけである。」

「大事なところで習慣の力を借りようとしたのはベルクソンである。ベルクソンにも二つの習慣がある。(・・・)ベルクソンは持続の相のもとに見ることを習慣づけようとしたのである。」

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