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チャールズ・ファニーハフ 『おしゃべりな脳の研究――内言・聴声・対話的思考』

☆mediopos2709 2022.4.17

考えるということは
内なる声(内言)にょって
自分自身と対話するということだ

自分自身といっても
ひとりであるとはかぎらない
その「声」は
じぶんのそれに似ていることが多いが
ほかにもたくさんの自分が登場する

ひょっとしたら自分ではなさそうな者も
そこにはさまざまな声で登場してくる
まるでポリフォニーのように
そしてときには変幻する舞台の上で
リアルタイムで演じられるように

それらの対話には
言葉によるものもあれば
必ずしもそうでないこともある
対話する速さもさまざまだ

声ではなく
それが音楽であることもある
聴いたことのある音楽を
再現してみることもあれば
変奏してみることも作曲してみることも
またそれが知らない響きであることもある
楽器もさまざまだ
ときにはまったく想像でしかない響きが
そこに奏でられていることもある
もちろんそれが映像として
あらわれていることもある

こうして書いて(打って)いる言葉も
じぶんにどこか近い響きのする声で
行きつ戻りつしながら紡ぎ出されている
そしてそのときにも
そこには背後に複数の思念が働いている

ぼくにはそうした現象はないが
聴声(幻聴)のような仕方で
外からのように語りかけられることもあるようだ

それは病的なものとしてとらえられることも
いわば「神の声」としてとらえられることもある
ソクラテスがデーモンの声から指示を受けていたように

その実際のところは定かではないにしても
それらは古来からたしかにある現象である

おそらくそうした内なる声は
かつて外なる声だったものが
内面化していったものではないだろうか
「心」という漢字がかなり後の時代に生まれてきたように
内面化してくるとともに
「心」が生まれ育ってきたということでもあるだろう

神秘学的な視点でも
かつての時代においては
魂は神々が人間の外から働きかけていたものが
内面化してきたものだというが
そうしたプロセスにおいて
内なる対話も育てられてきたのだろう

かつて書を読むときには
声をだして読んでいたのが
次第に黙読されるようになったのも
そうした内なる対話への
プロセスを表しているのだといえる

そしてその内なる対話を可能にする魂は
ひとによってさまざまなあり方を示しているために
聴声(幻聴)のようなあり方として
発現することもあるのだろう

そのあり方はさまざまだが
その意味ではひとりでいても
ひとりでいることはむずかしいということでもある
内界には無数といってもいいような
「声」たちがポリフォニーしているからだ

■チャールズ・ファニーハフ(柳沢圭子訳)
『おしゃべりな脳の研究――内言・聴声・対話的思考』
 (みすず書房 2022/4)

(「第一章 不思議なチーズ————内なる声と思考の関係」より)

「自分自身と話すことは人間の経験のひとつであり、決して万人に起きることではないものの、精神生活の中でさまざまな役割を果たすらしい。ある重要な理論によると、脳内の言葉は心理的「ツール」として機能し、思考の中でいろいろなことをするのを助けてくれる。ちょうど、家の修繕作業が工具のおかげで可能になるようなものである。内言は、計画を立てたり、指示したり、励ましたり、言いくるめたり、禁じたり、省察したりできる。クリケット選手から詩人に至るまで、人はあらゆる形で、ありとあらゆる目的のために自分自身と話す。

 そうだとすれば、この経験にさまざまな形があるのは当然である。内言は、口でしゃべる言葉とまったく同じに見えるときもあれば、電文のように凝縮された、音声言語の省略版のようなときもある。内言はさまざまな形と大きさをとりうるという見解や、多様な形態はさまざまな機能に合わせたものかもしれないという見解、そしてこの現象は、その種類ごとに、脳内で異なる基盤をもっているのだろうという見解を、研究者はようやく真剣に受け止めはじめたところである。

 子どもの頃に内言がどう発現するかに目を向ければ、多様な形態と機能があることも腑に落ちる。子どもが他者と交わす会話が「地下に潜って」————つまり内在化されて————外的なやりとりの無音版を形成したとき内言が現れる、と考えるのには十分な理由がある。これはつまり、言葉で行う思考には、他者と行う会話の特徴がいくつか含まれているということで、他者と交わす会話の特徴は、文化の交流様式や社会的規範によって形作られる。一九三〇年代、スペインの哲学者で小説家のミゲル・デ・ウナムーノは、「考えることは自分自身と話すことである。私たちはみな自分自身と話す。それは、ほかの人と話さざるをえなかったおかげである」と書いた。内言に対話の性質があることを認識すれば、内言の謎のいくつかが理解しやすくなるということを、読者に納得してもらろうと努めるつもりである。

 内言が社会的起源をもつことは、人間の意識に複数の声がある理由を理解するのにも役立つ。フィクション作品にさまざまな視点をもつさまざまな登場人物の声が出てくるように、心に多くの声があふれることがあるのはなぜなのかは、内言を一種の対話と認識すれば説明できる。この見方をとれば、人間の意識の重要な特徴のいくつかを————創造性の特質かもしれない、ほかの視点を受け入れることも含めて————理解しやすくなると私は主張していく。この考え方を、言葉の芸術家と視覚芸術家の作品を参照しながら検証し、創造力を発揮する重要な方法のひとつは、自己と会話することなのかどうかを検討していく。

 また、内言をこのように見れば、人間の経験に登場するふつうでない声を理解しやすくなることも読者に納得してもらいたい。聴声(あるいは言語性幻聴)という現象はよく統合失調症と関連づけられるが、ほかの多くの精神疾患でも報告されているうえに、少数派ながら相当数の精神的健常者からも報告されている。これは内言の障害の結果だと、多くの精神科医と心理学者は考えている。つまり、自分の内なる発言を他者の発話と誤解するようになったというのである。(・・・)

 しかし、声がさまざまな形をとることも認識しなければ、この経験のまともな科学的理解にはまず到達できないだろう。中世の神秘家から文芸小説の作者に至るまで、何世紀もの間、人類は聴声の経験を描写してきた。これらの証言はいずれも、それぞれの背景にある人生や時代や文化の文脈の中で検証される必要がある。また、聴声を理解するのは、聴声と不幸な幼少期との非常に強い関係や、聴声がつらい出来事の記憶と関連しているという示唆について、説明しなければならない。本書の中でインタビューする何人かの聴声者は、「自分に聞こえる声は、混乱した脳による無駄口などではなく、未解決の情緒的葛藤を知らせる過去からのメッセージと理解すべきだ」と考えている。現在、研究者は聴声を、ほかの存在から交信を受けている感覚を伴うものと理解しはじめているが、これは人が社会的関係を脳内でどう処理するかの関する理論にも、通常の内言に対する理解の仕方にも重大な影響を及ぼす。」

(「第十五章 自分自身と会話する————「声」の重要性の探究」より)

「あなたの頭の中にある、あの声は何なのだろうか? キッチンでにんじんを切っているときや、バスを待っているとき、届いたメールを見ているとき、ジレンマと格闘しているときに聞こえてくる、あの声。あなたがあなたに話しかけているのだろうか? それともあなたは、その会話が無限に紡ぎ出しているものなのか? その場合、声がやんだら、あなたはどこへ行くのか? 声がやむことはあるのか? 小さい子どもが口に出して話しかけている「僕「や「きみ」とは誰であり。話しかけている側は————特に、その脆い自己がまだ形成中段階では————誰なのか? 書斎で小説家に話しかけるのは誰なのか? 病室で精神科医に話しかけるのは? 教会の信徒席で静かに祈っている人に話しかけるのは? あるいは、断片化した自己のメッセージに耳を傾ける、普通の聴声者に話しかけるのは誰か? 言語性幻聴によって生み出されたり、撃退されたり、私たちに理解されたりする、ずたずたの乖離した断片とは何なのか? ベケットの名づけえぬものは、「それはひとえに声の問題だ。それ以外、どんな比喩もふさわしくない」ことを私たちに思い出させる。

 私は書斎に座って、これらの言葉を打ち込んでいる。次の分が脳内に響くのが聞こえ、その分が画面上で形になっていくのを見つめていると、声がそれを私に復唱する。私は手を止め、外でうなり声をあげている冬の風に耳を澄ます。晴れた二月の午後を、」窓越しに眺める。声は静かになった、つい先ほどまであった、強く訴えてくる話し声の痕跡。しかし、声はまだそこにある。書いている文章を、口に出してつぶやいてみる。私は、休みなく働く脳の産物であって、自分の頭の中にいるのだろうか? それとも、私は聞こえてくるものの反響であって、すべて————自己、これらの言葉、この現実————が構築されるプロセスの一部なのだろうか? 束の間の静寂。一心不乱に仕事をしていたため、ひどく疲れている。しかし、もうすぐそれはまた始まるに違いない。静かで、目立たず、親密な、馴染みのあるもの。私の脳内の声は私を怖がらせもしないし、貶めもしないが、たまに批判し、もっとうまくやれと尻を叩く。私が知らなかったことを教えてくれる。驚かせ、笑わせ、何よりもまず、自分が何者かを思い出させてくれる。前にも聞いたことのある、あの声。」

【目次】
第一章 不思議なチーズ──内なる声と思考の関係
第二章 ガス灯をつける──内観という方法
第三章 おしゃべりな器官の内側──自分の異なる部分どうしが会話する
第四章 ふたつの車──子どもの私的発話と内言の発達
第五章 思考の博物学──内言の種類、外言との関連
第六章 ページ上の声──黙読について
第七章 私の合唱──対話的思考と創造性
第八章 私ではない──聴声の経験
第九章 さまざまな声──聴声経験と内言の多様性に注目する
第十章 鳩の声──古代・中世の聴声
第十一章 自らの声を聴く脳──言語性幻聴の神経科学
第十二章 おしゃべりなミューズ──作家が聴く声について
第十三章 過去からのメッセージ──トラウマ的記憶と聴声
第十四章 しゃべらない声──非聴覚的・非言語的な経験
第十五章 自分自身と会話する──「声」の重要性の探究

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