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久松 真一『無神論』/『東洋的無』

☆mediopos2975  2023.1.9.

久松真一といえば「東洋的無」だが
その著書『無神論』
(久松氏の亡くなった翌年1981年刊)が
宝蔵館文庫に収められたこともあり
その「無」について
そこで語られてはいない視点も含め
しばし言葉を紡いでみることにする

久松真一の求めたのは「絶対的な自律」である

それは中世的な他律を脱した
近世・近代的な自律をさらに超え
外から与えられた何ものにも縛られることなく
無礙自在に生きることである

それを「有」に対する「無」
「東洋的無」によって闡明しようとした

「無」とはいうまでもなく
なにも存在しないということではない
それは「有」の根底にあるものであり
それは「有」の否定によって自覚される

『無神論』に収められている
「東洋的無の性格」で用いられている喩えでいえば
水と波である
水が「無」であり
「波」が「有」である

「一切の波は、
水の外よる水に映り来る如きものではなくして、
水より生じてしかも水を離れず、消えて水に還元し、
水に還って水にいささかの痕跡も止めぬものである」

そして「東洋的無は主体としての水に
比喩さるべきこの心である」という

久松真一のいう「無神論」も
他者的な神のない宗教であり
かつ単なる人間的な自律でない宗教的実存である

キリスト教の基本は「信」にあるが
仏教の基本は「覚」にある
(浄土系の仏教は「信」だが)

その「信」はその極北をいえば
他者的な神とはいえない無底にあるのでもあるだろうが
人格神への信仰を中心においてしまったときに
他者的な神であることは避けられない
(神を「波」としてとらえてしまう)

仏教的な「覚」とは「絶対的な自律」である
もちろんそこでいう「自」は低次の自我ではなく
もはや「私」ではない「無我」にほかならない

そこにおいてほんらい的にいえば
「信」即「覚」であるだろうが
それが起こる場は「有」(波)ではなく
「無」(水)であるのだといえる

重要なのは
すべての存在は「無」から生滅するが
「信」及び「覚」を通ることによって
「無」(水)においても
「無我」はそこにただ溶け入るのではないということだ

このことは神秘学における認識様態である
イマジネーション認識
インスピレーション認識
そしてイントゥイション認識においても
その認識プロセスが示唆されている

認識は「有」としての対象認識を超えて
対象のない思考によって高次のものになってゆく
そしてイントゥイション認識においては
まさに「波」ではなく「水」における
「覚」のありようであるともいえる
みずからは「水」そのものでもありながら
その「水」であるみずからを「覚」している

禅の十牛図でいえば第九図の
「返本還源」であるといえるだろうか
そこにはまだその先の第十図「入鄽垂手」という
再び俗の世界に入るプロセスがあるが
シュタイナーのような人物は
その第十図のように生きた人物だといえるのだろう

■久松 真一『無神論』
 (法蔵館文庫 法蔵館 2022/9)
■久松 真一『東洋的無』
 (講談社学術文庫 講談社 1987/1)

(久松 真一『無神論 』〜「無神論」より)

「近世の性格は無神論的であった。この無神論的性格は人間的自律の自覚から来ると考えられる。しかし、人間は果たして単なる人間的な自律というにどどまり得るかというに、(・・・)現代というものがすでにそういう人間的な自律にとどまり得ないことを露呈してしまっているわけである、そこに人間的自律の否定が歴史的に顕わになって来ているのではないか。われわれがこの自律にどどまり得ないということは、人間性自体が危機的な存在であるというところに根拠を持っていると思う。こういう場合、近世の人間が無神論者 Atheist でなくなって、有神論者 Theist になって行くことが出来るか否かが問題になって来る。私の考えでは、無神論者にしてしかも自律にとどまりえないというものになって来なければならないと思う。もし人間的な自律を否定し、その上に何らか自律にとどまりえないものを充たして行こうとするならば、その場合に、やはり無神論者であって、しかも有神論者ではない宗教的人間というようなものになって来なければならない。

 人間性を超えることはただちに有神論者になることではない。人間性の超克は人間中心主義でもなく、神中心主義でもないような在り方で導き出されねばならない。それは無論単なる自律ではあく。自律を否定するものになるが、その否定の仕方は自律に矛盾しないで否定するのでなければならぬ。すなわち自律が単に否定されるのではなくして、自律が否定されることによって、かえってそれが自己本来のものを全うして来るという仕方で否定されるわけである。そういう仕方の否定とは、否定することによってそれが甦って来るものである。したがって「甦る」ということは、それ以外のものによって甦るのではなくして、それ自身の底から甦って来るという形で甦るのでなければならぬ。こういう甦りは神律とは違った性格のものでなければならない。

 それ自身の底から甦るという時、「底」というものが「他のもの」と考えられるかもしれない。しかし、底というものは、それ自身から言って、他者つまり絶対他者 Ganz Anderes から甦らされるということとは違って、自己自身の本来のものから甦ることになって来なければならない。普通、人間の否定ということは、全く他者的なものによって否定されると考えられる。その場合にはどうしても他者が有神論的になる。それならば、そこに甦らされたものはやはり有神論的になり、他者的な神に一切が依嘱することになる。その場合は、どうしても自律が神律になってしまって、無神論的でなくなる。つまり、自分というものが全く自律性を失って、言わば神のままに従うということになる。」

「私は、そういうものを、もし宗教という言葉で呼ぶならば、他者的な神の無い宗教、すなわち無神論的な宗教 atheistische Religion であるといいうると思う、そういうものが宗教であるということも、もし他者的な神すなわち神律でなければ宗教とは言えないと言うならば、宗教ではないかもしれない。しかしまた単なる人間的な自律でないという点で、人間中心主義、人間絶対主義とは違ったものである。むしろそれらの運命的な限界を自覚し、どうしてもそこにとどまり得ない人間性の根元的危機から脱した実存である。その意味において、それは宗教的実存であるということも言えるのではないか。」

(久松 真一『無神論 』〜「東洋的無の性格」より)

「仏教には「一切唯心造」という語があるが、これは単なる理想化や信仰ではなくして唯心の実証である。カントは、吾々が日常経験している現実界は、吾々が通常考えている如く吾我の心から全く独立に存在しているものではなくして、吾々の心が造ったものであるといっている。すなわち、もしも吾々が通常外界と称しているものを「一切」という語で置きかえるならば、一切は吾々の心の所造、すなわち一切唯心造ということになる。しかしカントが「一切を造る心」というものはいわゆる「意識一般」であって、彼が「物自体」と称するものから感受したものをその意識一般の形式範疇によって構成する心にほかならない。これはあたかも外から映って来るものを映す形式によって映す鏡の如きものである。したがって鏡に映ったものは、映す形式によって変形されたものである限りにおいて鏡と離れないものではあるが、しかし鏡だけあっても外から何か映って来るものがなければなければ映像はできないという点において映像は鏡の内から生ずるとはいえない。しかるに仏教においては、鏡に映るものは鏡の外から来るものではなくして、鏡の内から生ずるものである。鏡の内から生じて鏡に映り現れて鏡の内に消え、消えて鏡に痕跡を止めぬようなものである。仏教において「一切唯心造」という場合の心はかかる鏡の如きものである。決して映るものが映すものの外から来るようなものであってはならぬ。この意味において、この「心」はカントの意識一般の如きものとは異なったものといわねばならぬ。しかし映るものを内から生ずる鏡というようなものは事実上あり得ないのであるから、この「心」は鏡の比喩によっては尽くされない。仏教においてしばしば水波の比喩を用いるのは、鏡によって比喩し尽くされないこの心の能造性をより適切に喩えんがためである。一切の波は、水の外よる水に映り来る如きものではなくして、水より生じてしかも水を離れず、消えて水に還元し、水に還って水にいささかの痕跡も止めぬものである。波よりいえば、水より起こって水に還るのであるが、水よりいえば、波は水の動きであって、波において水は波と一体不二でありながら波の起滅によって水が起滅し増減することはない。(・・・)
 東洋的無は主体としての水に比喩さるべきこの心である。東洋的無の能造性はどこまでも水が主体であるところの波との関係にとって比喩さるべき如きものである。消滅する波を主体とする如きが人間の通常の事故であり、この主体が波から水に還元翻転するところに東洋的無の性格が見られねばならぬ。」

(久松 真一『東洋的無』〜「東洋的無」より)

「惟(おも)うに、私どもが普通に現実界と言っているものは、外界も内界も、それは共に有の世界であります。身体を持ち精神を持つと考えられますところの私も汝も、それは決して有の世界を出ないのであります。有の世界とは多がお互いに相限定し、互いに相矛盾する世界ということであります。互いに相限定し、相矛盾することなくしては決して有というものは考えられないのであります。

 しかし恰度(ちょうど)それ故にまた有は無なくしてはあり得ないということも出来るかと思うのであります。Aは非BであることによってAであり、Bはまた同時に非AであることによってBであるのであります。かくのごとく、有が有であり得るためには、有はそこに必然的に無というものを含まねばならないのであります。すなわち単に有だけの有はあり得ないということになるのであります。有はつねに無に臨むと言わなければなりませぬ。またこれと同時に無だけの無というものもあり得ないということになるのであります。無もまた、有に即してこそはじめて考え得られるものであります。それでありますから、現実界は有の世界であると申しましても、それは必然的に無を含んだ世界と言わねばならないのでありましょう。すなわち有即無、無即有、肯定即否定、否定即肯定の世界であります。これをまた生即死、死即生の世界ということも出来るでありましょう。」

「吾々は、有の論理においては超越としてよりほかに考え得られなかったものが、かえってむしろ現存として考えられているような場合を東洋において見出すことが出来はしないかと思うのであります。私はここに論理の逆転があり、無の論理が成り立つと思うのであります。ここでは超越が有の立場から考えられるのではなくして、有の立場から見まするならば、恰度超越に相当するものが、かえって現存でありまして、それから有が考えられるのであります。有は現存の超越の上に基礎づけられるのであります。すなわち通常は有が現存であるのに、ここでは超越が現存であるのであります。

(・・・)

 私が東洋的無と称しまするものは、限定をも矛盾をも絶するこの現存者であります。しかもこれは私自身と別にあるものではないのであります。もしも別のものでありまするならば、それはもはや現存者ではないのであります。しかし、かかる私はすでに私とも言えぬ私であります。無我とはかかる私にほかならぬと思います。汝と我とを区別する立場においては東洋的無我は成り立たないのであります。東洋における無我は、有の立場の否定においてはじめて成り立つものであります。通常の合いとしての無我はなお有の立場を出ないものであります。東洋的無我は愛をも絶するものと言わなければなりませぬ。」

(久松 真一『東洋的無』〜「東洋的に形而上的なもの」より)

「「有」が「有」自体の解体によって、「有」でないもの、すなわち「無」になることが東洋の根本方向である。東洋が現実遠離であり宗教的であるのはこれがためである。しかし、遠離的といっても、それは「有」から「無」への方向についていわれることにすぎないのであるから、それがために「無」自体の有無を絶し、生死を絶する、独脱無依な自由性が忘れられることがあってはならぬ。「有」の遠離といっても、「有」から離れて「無」の外に出ることではなくして、「有」の解体によって有ではないものになることにほかならないから、あたかも絶後に甦るというように、かえって積極的なものであるのである。「有」でなくなることは、一切の限定と矛盾とを脱した自由体となることである。無滞無礙の大用の現前である。相無くして一切の相を現じ、一切の相を現じて一層にも住しない。いわゆる応無所従而生其心である。ここに「有」の立場における一切の行為と根本的に異なる無漏の大行がある。吾々は臨済録中において、最もよく活発発地なる無漏行の典型を見ることができる。」

◎久松 真一(ひさまつ しんいち)
1889年岐阜県に生まれる。京都帝国大学哲学科卒業。西田幾多郎らに学ぶ。西田の薦めにより妙心寺の池上湘山老師に参禅。臨済宗大学(現・花園大学)教授、京都大学教授、ハーヴァード大学客員教授などを歴任。1980年没。著書に『東洋的無』『絶対主体道』『人間の真実存』『久松真一著作集』(全8巻)ほか多数。

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