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バティスト・モリゾ『動物の足跡を追って』

☆mediopos2916  2022.11.11

バティスト・モリゾは
「探検家」のようなフランスの哲学者である

南仏の放牧地に突如襲来した狼
イエローストーン国立公園に生息する灰色熊
キルギスの山頂付近に棲むユキヒョウと

獣道を進み野生動物を「追跡」し
それらの物語を語りながら
動物たちの「地政学」や「共存の論理」など
動物の世界を理解しようとする
哲学的な思索へと誘っていく

モリゾは西欧的な「自然」の概念を疑問に付す

「〝自然〟という言葉は無垢ではない」
それは「〝文明〟に対置される言葉」であり
「生物の世界に対するこのような態度は、
私たちの理想とするものとはかけ離れた
貧しい態度である」とさえ言う

モリゾはそのように安易に
「自然の中に出かける」のではなく
別の言葉を探す
「大地と寝食を共にする」ために「外に出かける」
あるいは「奥地に行く」
「野外の空気に触れに行」く
そして「入森(サンフォレステ)」する
という言葉を見つける

「入森する」には二つの意味が含まれているという
「一つは自分が森に入るという意味で、
もう一つは森が自分の中に入ってくるという意味」

もちろんそれは「森」に限られてはいない
「生物の世界を歩く。と同時に、
生物の世界が侵食してくるのに身を任せ、
自身の内部にその世界を受け入れる」ということだ

生物たちは決して「物」ではない
主体性や内面性を持ち
行動し苦しむ主体である

けれどそれらは
他者の心が目に見えないように
目には見えない

そのためにモリゾは
動物たちの見えない「痕跡」を「追跡」する

「追跡」とは
「手がミミズであれ、薬草であれ、ユキヒョウであれ、
目には見えない他の生物の内面性や存在の」「痕跡」に
注意を向ける行為のことである

本書ではそんな「追跡」の物語を通じ
人間と他の生物たちとの関係性や
生物としての人間のあり方が思索されている

さて日本語ではほんらい「ネイチャー」という意味での
「自然」という言葉はなく西欧語の翻訳語として
使われるようになっているが
(ほんらいてきには「自然」は「じねん」である)
むしろ西欧以上に
「自然」概念が安易に用いられるようになって久しい

むしろこうして西欧において
かつてのアニミズム的なものによって
みずからの世界観を変えようとする思索が増えてきている
どうも日本というのはそうした
外からの逆輸入のようなかたちでしか
意識化し問い直すことができないことが多いようだ

■バティスト・モリゾ(丸山亮訳)
 『動物の足跡を追って』
 (新評論 2022/10)

(ヴァンシアンヌ・デプレ「序文」より)

「この本は読者に、ある特異な技術を手ほどきしてくれます。その技術とは、一言でいえば、見えないものを追跡することで地政学を実践する技術です。」

「実際には、バティスト・モリゾの試みは他に何にもまして具体的で、土と生命に寄り添ったものです。モリゾの提案は想像しうる限り最も地に足のついたものであり、文字通り、足にぴったり合った靴を履き、歩くよう促してきます。それだけでなく、地面を注意深く観察し、大地を眺め、藪を、薄暗い茂みを、踏みしだかれた草を読み解くよう誘いかけてきます。痕跡や足跡を記録する泥と、痕跡をはねつける岩を入念に調査し、毛が絡みついた木の幹に目を凝らし、糞が大量に落ちている道を隈なく捜索するよう——他のどこかではなく、まさにその場所に注意を向けるよう——すすめてきます。なぜなら、私たちが動物と呼んでいる普段滅多に姿を現さない生き物は、そのようにして存在をあらわにするからです。ときにはわざと、ときには意図せずに。追跡とはつまり、目に見えないものが残した目に見える痕跡を見つける技術、あるいは、目に見えないものを現前する存在へと変化させる技術といえるのです。」

「追跡の実践は、相手を追うことが、相手と共に歩くことであると教えてくれます。この点において、歩くことはある種の媒介行為となります。並んで歩くのでも同時に歩くのでもなく、思うままに歩く相手の足跡に沿って歩くのです。足跡には相手の欲望がこと細かに記録されています。もし相手がこちらの存在に気づいているのなら、相手を撒きたいという欲望までもが足跡には現れます。その意味で、同時性も相互性もない〝共に歩く〟行為は、他の存在に教えを乞う体験といえるのです。相手につき従い、相手と同じように考え、相手と同じように感じる術を身につけ(…)、相手の論理を学ぶために自分の論理を捨て、人間のそれとは異なる欲望を自身の内に受け入れる。そして何より、相手を見失わないために、動物の意図や習慣が刻まれた痕跡を前に、想像力と思考を働かせる。尻尾をつかんで離さないこと。そう、追跡の教訓の一つは、自分の所有物ではないものを手放さないことなのです。」

「追跡とは、真正な地政学に取り組むための、見えないものを見る技術であるといえます。(…)たとえ一つの発見がある種の魔術——「しるしを浮かび上がらせる」追跡の魔術——の成果であるとしても、ここでいう見えないものは、超自然的な現象とは何の関連もありません。それどころか、自然とも一切関係ないのです。それはひとえに、真正な地政学が〝自然〟に言及することはないからです。〝自然〟という言葉は、たとえ「自然の中で散歩しよう」といったありきたりな言い回しに使われる場合でさえ、決して無垢ではありません。バティスト・モリゾは、フィリップ・デスコラについて言及した箇所で、次のように述べています。自然という言葉は「生物の世界を無機物として大規模に開発する〝文明〟(モリゾに言わせればまったく好ましくない文明)に対置される言葉だ」。」

「この本は私たちに、動物と、動物に出会おうとする人間とにできることは何かを教えてくれます。またこの地球で、今とは異なるかたちで他の生物と共存するための方法を模索した、具体的で核心的な外交政策を示してくれます。それだけではありません。モリゾは、私たちのすぐそばにある人間の世界の境界、そして私たちの言語の限界を探求するよう誘いかけてくれるのです。人生の一大事を言葉にするために。」

(「序章 入森する」より)

「〝自然〟という言葉は無垢ではない。この言葉は、生物の世界を無機物として大規模に開発する、あるいは娯楽や運動や気分転換のための空間として切り分ける〝文明〟に対置される言葉だ。生物の世界に対するこのような態度は、私たちの理想とするものとはかけ離れた貧しい態度である。」

「〝自然〟の中に赴いて活動する私と友人たちの間では、「自然の中に出かける」という文句が使えないことが、数年来大きな問題となっていた。これまでの習慣と決別し、私たちの世界観を内側から覆すことのできる言葉を、是が非でも見つける必要があった。
(…)
「明日どこへ行くか」を言い換えるために見つけた最初の言葉は「外」だった。明日は外へ出かけよう。ウォルト・ホイットマンの詩にあるように、「大地と寝食を共にする」のだ。
(…)
 続いて私たちが使い始めた言い回しは、「奥地に行く」だった(この表現は私たちの活動の奇妙さをよく表している)。明日は奥地に行こう。私たちが歩く道に標識などない。あったとしても、追跡のための道しるべにはなりえない。(…)私たちは下生えを踏みしめながら、猪やノロジカの通った道を進んでいく。人間の道に興味はない。
(…)
 もちろん、〝自然〟という単語を別の言葉に置き換えることが問題なのではない。日々の暮らしの中で私たちが他の生物と築く関係を、別のかたちで表現し実践することのできる。複数の相互補完的な手段を組み上げることのできることが問題なのである。
(…)
「自然の中に出かけよう」に代わる三つ目の言い回しは、ある朝、詩を読んでいるときに見つかった。あまり使われないものの、魅力的な響きを秘めた言い回しでえる。それは「野外の空気」だ。明日は野外の空気に触れに行こう。
(…)
 野外の空気に触れる(オ・グラン・テール)——大地(テール)という単語は、目に見えなくとも耳には聞こえる。そしてひとたび耳に入れば、もう無視することはできない。この魔法のような言葉は、天上と地上の境のない別の世界を想起させる。野外の空気は緑の大地が吐き出したものだからだ。

(…)
 これらすべてを包括する最後の言い回しは偶然見つかった。ケベックの〝森を駆ける者〟たちが使っていた、古いフランス語の表現だ。毛皮を売りに街に戻った後、再び野外に旅立つ際に、彼らはこう口にしていた。
「明日また出発するよ。入森(サンフォレステ)してくる」
「入森する」という代名動詞には、二つの意味が含まれている。一つは自分が森に入るという意味で、もう一つは森が自分の中に入ってくるという意味だ。それが必ずしも〝森〟である必要はない。重要なのは、生物の世界と新たな関係を築くことである。これまでとは違った興味を持ちながら、別のやり方で、生物の世界を歩く。と同時に、生物の世界が侵食してくるのに身を任せ、自身の内部にその世界を受け入れる。」

(「第五章 ミミズの世界観」より)

「これら数々の行動の起点となるのは、他の生命のあり方に対する並外れた感性と、神秘主義の介在しない単純な仮説のかたちを取った純朴なアニミズムである。その仮説とは、他の生物が単なる物ではなく、行動し、苦しむ主体であるということ、自らの基準に従って世界を形成する互いに重なり合った観点であるということ、そしてそれぞれが内面性と独自の興味を持つ存在であるということである(たとえその内面性や興味が、人間の基準では想像できないものであるとしても)。内面性とは、ここでは単純に生物が物で
はなく、周囲の世界を棲み家へと変える主体であることを意味している。ところで、生物の行動を司る主体性や内面性は目に見えない。大切な人の心が見えないのと同様に、人間には生物の内側を覗き見ることはできないのだ。しかしながら、何者も痕跡を残さずに存在することはできない。それこそが追跡の極意である。たとえ目に見えない相手であっても、必ず目に見える痕跡を残す。狼、土壌を豊かにあうるバクテリアや菌類、交信し合う木々、花粉を運ぶミツバチといった生物の内面は、直接見ることは叶わないものの、残された目に見える痕跡を追跡することで浮かび上がってくる。目に見えないものの存在を想定しない限り、過去の出来事に説明がつかないからだ。痕跡は私たちを追跡へと誘う。相手がミミズであれ、薬草であれ、ユキヒョウであれ、目には見えない他の生物の内面性や存在の仕方を物語る。目に見える痕跡に注意を向ける行為を、追跡と呼ぶのである。」

(「訳者あとがき」より)

「モリゾの哲学の舞台となるのは、動物をはじめとする動物の追跡だ。モリゾのいう追跡とは、人間の活動が生態系に甚大な影響を及ぼし、ほとんどの生物画人間社会との隙間に暮らす現代という時代において繰り広げられる追跡を指す。」

「モリゾが特に疑問に付すのは、自然主義(ナチュラリズム)が他者との間に打ち立てる関係性だ。ここでいう他者とは、他の生物を含め、自分たちとは異なる集団に属する集団のことである。植民地支配の例にも見られるうように、それは支配・被支配という一義的な関係だ。モリゾはしばしば、生物との関係性を見知らぬ民族との関係性に見立てている。他者との関係性を支配。被支配という利害関係に還元してしまうことが自然主義の特徴であるならば、相手を理解し、外交関係を築き、共存協定を結ぼうと努める姿勢は、相手の意志の存在を認めるアニミズムにおのずと近くなる。
 関係性に目を向けることで、はじめて相手がどのように存在しているのかという問いが生まれる。自分とは異なる相手の存在のしかたを問うこと、それこそが「哲学的な思索に富んだ追跡」の出発点であり、自然主義的な世界観を作り変える手掛かりとなる。」

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