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若松 英輔・小友 聡 『すべてには時がある 旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』

☆mediopos2762  2022.6.10

旧約聖書の「コヘレトの言葉」の
いちばんはじめの節に
「一切は空である」とある

まるで仏教のようだが
コヘレトはこの世の苦を説きながら
仏教のように解脱へと向かおうとするのではなく
苦を通じることでしか得られないものを
生そのもののなかで逆説的に示唆する

苦を生きるという矛盾を通じてしか
得られないものがあるということだ

またコヘレトは黙示思想のように
来世に価値を置くのではない
その考えを拒否し徹底して現世的に考える

そこにおいても逆説的に
「終わりがいつ来るかわからない。
わからないからこそ、
いま、何をすべきかが大事」だという

そして
「朝に種を蒔き
 夕べに手を休めるな。
 うまくいくのはあれなのか、これなのか
 あるいは、そのいずれもなのか
 あなたは知らないからである」という

先のことはわからないが
「天の下では、すべてに時機があり
 すべての出来事に時がある」というのだ

「時」は訪れるが
その「時」は待つことしかできない

「待つ」ことを
先の分からない苦しみととらえるか
そのプロセスそのものを
いわば「愛」ととらえるかで
「生」の意味はまったく逆のものになる

教えられる答えはない
答えは与えられたりしない
答えはみずからの「生」の只中で得るしかないからだ

■若松 英輔・小友 聡
 『すべてには時がある 旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』
  (NHKシリーズ 別冊NHKこころの時代宗教・人生 NHK出版 2021/10)

(「コヘレトの言葉」より)

「コヘレトは言う。
 空の空
 空の空、一切は空である。

 太陽の下、なされるあらゆる労苦は
 人に何の益をもたらすのか。
 一代が過ぎ、また一代が興る。
 地はとこしえに変わりはない。

 日は昇り、日は沈む。
 元の所に急ぎゆき、再び登る。
 南へ向かい、北を巡り
 巡り巡って風は吹く。
 風は巡り続けて、また帰りゆく。
 すべての川は海に注ぐが
 海は満ちることがない。
 どの川も行くべき所へ向かい
 絶えることなく流れゆく。

 すべてのことが人を疲れさせる。
 語り尽くすことはできず
 目は見ても飽き足らず
 耳は聴いても満たされない。
 すでにあったことはこれからもあり
 すでに行われたことはこれからも行われる。
 太陽の下、新しいことは何一つない。
 見よ、これこそが新しい、と言われることも
 はるか昔、すでにあったことであry。
 昔の人々が思い起こされることはない。
 後の世の人々も
 さらに後の世の人々によって
 思い起こされることはない。」

「私は、太陽の下で行われるあらゆる業を見たが、やはり、すべては空であり、風を追うようなことであった。
 曲がったものはまっすぐにならず、
 失われたものは数えられない。」

「母の胎から出て来たように
 人は裸で帰っていく、
 彼が苦労しても
 その手に携えて行くものは何もない。
 これもまた痛ましい不幸である。
 人は来たときと同じように去って行くしかない。
 人には何の益があるのか。
 それは風を追って労苦するようなものである。」

「天の下では、すべてに時機があり
 すべての出来事に時がある。

(…)

 求めるに時があり、失うに時はある。
 保つに時があり、放つに時がある。
 裂くに時があり、縫うに時がある。
 黙すに時があり、語るに時がある。
 愛するに時があり、憎むに時がある。
 戦いの時があり、平和の時がある。

 人が労苦したところで、何の益があろうか。
 私は、神が人の子らに苦労させるように与えた務めを見た。神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。」

「朝に種を蒔き
 夕べに手を休めるな。
 うまくいくのはあれなのか、これなのか
 あるいは、そのいずれもなのか
 あなたは知らないからである。」

(「第1章 「価値」が反転する書」より)

「小友/「コヘレトの言葉」の中には、たくさんの矛盾があります。たとえば、一方では「人生は虚しい」といったかと思えば、他方では「人生には意味がある」という。また、神を信じていないように書いていながら、「神を畏れよ」といったりする。この矛盾をどう理解するか。
 (…)
 重要なのは、ここに逆転が生じていることです。「人生は短い、だから生きていても意味がない」ではないんです。人生は短い、だからこそ生きようとする。コヘレトは逆説を語っている。」

「若松/現代では「成功」こそが価値だと思われています。しかし、挫折や悲しみといった、これまでは「失敗」に分類されてきたものにこそ価値があると、コヘレトはいう。小友さんの解釈はそのように価値を創造的に逆転してくださった。」

「第2章 「束の間」を生きる」より)

「若松/「コヘレトの言葉」の中には「空」という言葉がたくさん出てきます。(…)

小友/「空」と訳されている言葉は、ヘブライ語で「ヘベル」といいます。「ヘベル」は、旧約聖書の「創世記」における兄弟の物語「カインとアベル」の弟アベルとまったく同じスペル(hebel)なんです。アベルは兄のカインに殺されてしまい、人生を早くに終わらせてしまった。そういう意味で、アベルという人物は「空しい」という意味を担っているわけです。

 つまり、旧約聖書では、この「ヘベル」という言葉は「空しい」というネガティブな意味で捉えられることが多い。ところが、「コヘレトの言葉」では必ずしもそういう意味ではありません。

 実際に、この「コヘレトの言葉」で「ヘベル」をどう訳すか、聖書の種類によって異なっています。たとえば「新共同訳聖書」では、「空しい」と訳されていますが、以前の訳では「空」でした。(…)

 英語版では「空しい」のほかに「無意味」や「無益」といったものから「不条理」「矛盾」「謎」などのj訳語が与えられているのです。(…)

 そこで私は、この「ヘベル」を「束の間」と訳しました。このように訳すことによって、「「コヘレトの言葉の「ヘベル」の本質に、近づけるのではないかと考えています。」

(「第3章 「時」を待つ」より)

「小友/「時」はヘブライ語で「エート」といいます。このヘブライ語「エート」は、ギリシャ語の「クロノス」と「カイロス」両方の意味を含んでいます。

(…)

若松/「クロノス」は過ぎゆくものです。時間はどんどん過ぎていく。一方で、「カイロス」の出来事は過ぎゆかない。それは深化し、昇華する。このように私たちの人生の出来事と重ねながら「コヘレトの言葉」を読んでいけると、思わぬところで発見があるのではないでしょうか。」

(…)

「小友/「時」というものは確かにある。その「時」がいつかはわからないけれど、必ずあるんだ。このことは希望につながりますね。」

(…)

「小友/私たちは否定を否定としか受け取れず、それ以上何も考えられなくなることがありますね。人生は、「苦しみ」や「死」など否定的なものをたくさん含んでいます。だから、「いま生きてたって何の意味があるんだ」という負の方向にも行きがちです。
 しかし、コヘレトは逆のことをいう。むしろ、その死によって、苦しみによって、生は意味のあるものになるとコヘレトは言うんです。そこでは、否定的な意味がひっくり返って、肯定に変わる。だからコヘレトは一貫して「生きねばならない」と伝えているのだと思います。」

(「第4章 「つながり」を感じる」より)

「若松/人は生きていれば誰もがどうした経験をすると思いますが、少し長く生きると、苦しみは、人生の意味へと通じる扉であるという感覚を持つことがあります。
 人生には苦しみという扉を通じてでなければ、たどり着くことができない場所はある。その苦しみの扉がなくなってしまうと、私たちが永遠に垣間見ることのない人生の意味がある。コヘレトは、そのことをとても冷静に眺めています。もし、苦しみが私たちの人生からなくなってしまえば、私たちの世界から喜びもまた消えてしまうことを教えてくれているのではないかと思います。」

(「第5章 「言葉」を託す」より)

「小友/コヘレトは黙示思想における問題性を見据えています。黙示思想は常に来世に価値を置きます。そのため、現世でどう生きるかが大事なことではなくなってしまうわけです。コヘレトはその考え方を、拒否するんです。
 コヘレトは現世的に考えます。だから、「終わりがいつ来るかわからない。わからないからこそ、いま、何をすべきかが大事なんだ」というのです。」

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