村瀬孝夫と伊藤亜紗の往復書簡「ぼけと利他」 第28回 心ここにあらず(伊藤亜紗)(「みんなのミシマガジン」)
☆mediopos-2564 2021.11.23
20世紀以降の西洋哲学では
一元論的な考え方が主流だが
(二元論はデカルト的二元論という
批判のための決まり文句があるほどに旗色が悪い)
美学者の伊藤亜紗は
ずっと二元論に関心があるという
「心と体を別々のものとして考える、心身二元論」
一元論には一元論なりの理由があるのだが
実際問題としてその一元論の多くは結果的に
物質一元論つまりは唯物論のヴァリエーションに堕し
心身一如の視点というわけではない
唯脳論というのもそのひとつ
脳科学者をはじめとしてともすれば
「《私》は存在しない」とさえ言い切ったりもする
仏教者の一部が唯物論的になるのもそういうことだ
すべては縁起であって
《私》が存在するというのはいわば無明故なのだ
結果的に物の関係性の世界に近くなってしまう
かつて人間は霊魂体の三分節としてとらえられていた
それがキリスト教会が霊は教会が管理するものだとして
個々の人間は魂と体の二元存在とされてしまった
そして現代の科学主義的な文脈からは魂さえも消され
人間は体だけの存在だとらえられるようになった
脳科学で「クオリア」というのをもってこざるをえないのも
物質的な脳では説明がつかないからだ
ほんらい必要な一元論は
心身を総合する霊という霊的一元論なのだが
現代ではそれが物質的一元論となってしまっている
だから科学は霊どころか心までを
どうにかして存在しないものとしようとしている
だれでもが実感しているはずだが
実際のところ心と体は一体化してはいない
生まれてから体は成長しそして老いていくが
「私の心」は「体」に折り合いをつけようとしたりもするが
互いに寄り添い合ってていくとはかぎらない
「心ここにあらずな体」と
「体ここにあらずな心」が
交差しながら働き合っているとでもいえるだろうか
体と心はそれなりのしかたで
共生・統合されている側面もあるだろうが
それを統合する「霊」の働きを考えた方がわかりやすい
その意味での三分節的一元論(いわば三位一体)として
人間をとらえたほうが実感にも近いのではないだろうか
けれどいきなり霊をもちだすのも難しいので
まずはかつての二元論というよりは
それをあらたに捉え返したかたちで
人間を心身の二元に分けてとらえるのが
実際的なのではないかと思われる
そのうえでの一元論である
■村瀬孝夫と伊藤亜紗の往復書簡「ぼけと利他」
第28回 心ここにあらず(伊藤亜紗)
(「みんなのミシマガジン」2021年11月22日より)
「 2ヶ月ほどまえに、中学生向けの本を出版しました。テーマは体とアイデンティティ。本というよりは体とつきあうためのパンフレットといった感じの、薄くて可愛いらしい本です。読書はあまり得意ではないけれど悶々とした悩みを抱えている、そんな10代に向けて書きました。
10代に向けて本を書いたのは初めてだったので、いろいろと新しい経験をしました。まず、やりとりを重ねるうちに、担当編集者の方が、どんどん中学生になっていくんです。
「 そうこうしているうちに、書いているこちらも、時間感覚がおかしくなってきました。この本は「思い通りにならない体が思いがけないことをつれてくる面白さ」について書いているのですが、ベースにあるのは、わたし自身の子供のころの吃音経験です。言えなかった言葉を寝る前に反芻する、苦いような甘いような時間のことが思い出されます。書きながら、自分が育った実家の子供部屋にいるような錯覚に陥っていきました。
おそらく、文章を書くこと、あるいは読むことは、必ずしも現在の自分が書いたり、現在の自分が読んだりするものではないんでしょうね。40代のときの作品でも、実際に書いているのはその人のなかの10代かもしれないし、すでに大人になった人が、10代のときの自分のために本を読むこともある。10代向けの本といっても、それはあらゆる年齢の人のなかにいる10代に向けて本を書くことなのだな、と思いました。」
「 先週、修復家の方たちとお話する機会がありました。公園に設置されているブロンズ像や、巨大な野外彫刻、食堂に飾られている壁画などを手がけていらっしゃる方々です。扱っているのは作品というモノなのですが、ご本人たちの感覚は介護とそれほど遠くないように思いました。
主に公園のブロンズ像を扱っている方は、「ホースで水をかける、という鑑賞の仕方がある」と言い切ります。作品は基本的には目で見て鑑賞するものなので、触れる機会は多くありません。その「ブランク」が、洗浄の作業を特別なものにします。腹部に水をかけたり、泡をつけて足をブラシでこすったり、ワックスをつけて顔を磨いたりしているうちに、像が全然違う存在に見えてくるのだそうです。
「 一方で、修復という作業は、科学者的な視点や、歴史学者的な視点も必要とします。」
「 他方で面白かったのは、その修復家の方が、「作業を始めたら頭を使わない」と言っていたことでした。頭を使うと、毎回同じようなやり方をしてしまうからだそうです。必要なときには、作品を分解したり、穴をあけて部品を取り換えたりする必要がありますが、そこには作家の生理のようなものが見えてくる。「となりのおじさんの生活に入っちゃった感じ」とその修復家は言います。自分の基準で整えるのではなく、「おじさん」の整理に従って整えること。自分の体になじんだ技やしみついた癖で判断してしまわないために、「頭を使わない」なのだそうです。」
「 魂のない存在をケアするというのは、いったいどういうことなのでしょうか。
そのことを考えるきっかけとなったもうひとつの出来事は、週末の川口有美子さんとの対談でした。川口さんは、1995年に筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断されたお母さまを、12年にわたって介護をしつづけました。ご存知のとおり徐々に筋肉がやせて体が動かなくなる病気で、川口さんのお母さまも途中から人工呼吸器をつけ、最後にはまぶたを閉じたまま目も固定され、意思疎通ができなくなりました。
意識は明晰なのに意思疎通ができない状態は、想像するだけでも大きな恐怖をかきたてます。しかし、川口さんがお母さまを通して経験したことは、少し違っていました。意思疎通が取れなくなった段階でお母さまの脳波を測ったところ、シータ波が出ていたのだそうです。シータ波とは、瞑想など深いリラックス状態で見られる脳波のこと。川口さんは、「母は完成された」と思ったと言います。「母は天国と地上の真ん中らへんにいる」「母はもうこの世のことには興味がないし、私たちのことは心配していないんだな」。もちろん、体が動かなくなる過程ではいろいろな葛藤があったはずですが、川口さんは、どこかで「任せよう」と思ったお母さんの意思を尊重しなければならない、と考えました。
面白いのは、お母さまが、魂としては「天国と地上の真ん中らへん」の存在として完成されながら、同時に、代謝する体を地上に残していた、ということです。川口さんは、「母の体のまわりで、私たちはとても幸せにくらせていた」と言います。家族だけでなくヘルパーさんたちも、お母さまの体をいい状態に保つことが楽しかった、と。脳死を「植物状態」と表現することがありますが(川口さんのお母さまは脳死ではありませんでしたが)、文字どおり「心ここにあらず」の体をみんなでケアすることは、農業のような共同性を生むのかもしれません。
患者さんにも、毎日毎日他人に介護されるうちに、自分の体が自分だけのものじゃない、という自覚が生まれてくるのではないか、と川口さんは言います。実際、「自分は死んじゃってもいいけど、自分の体がないとまわりのみんなが困る」と言う患者さんもいるそうです。みんなが困らないように、自分の体を地上に残しておく。川口さんのご著書のタイトルは「逝かない身体」なのですが、これは「死なない身体」という意味ではなくて、「生かしておく身体」という意味だったのだ、と知りました。まるで「自分の体の留守をみんなにあずかってもらう」みたいな感じですね。
「『どもる体』の序章にも書いたのですが、ずっと二元論に関心があります。心と体を別々のものとして考える、心身二元論です。確かに、西洋の哲学の文脈では、20世紀以降は一元論的な考え方が主流です。二元論はコテンパンに否定され、「心は体である」というような言い方がされてきました。でも、一元論だと言えるのは、うまくいっている体を前提にしているからなんですよね。うまくいっていない体は、必然的に二元論になります。心は〇〇したいと思っているのに、体はそのとおりにならないのですから。
その二元論にもおそらくいろいろなタイプがあります。吃音の二元論は瞬間的にやってくる分裂としての二元論ですが、川口さんのお母さまは分離することによって平穏がもたらされるような、均衡としての二元論を生きていました。心と体を遠く引き離すことによって見えてくるのは、「人間」の狭い定義なんかはるかに超え出るような、未知なる生のあり方です。二元論は、一歩間違えると本人の思いを無視することになるので、慎重な態度が必要なのですが、そこにある生のかたちに新たな身体論の可能性をさぐってみたい。そんな「心ここにあらずな体」に思いをめぐらせた数週間でした。」
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