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太田光海・監督 映画『カナルタ 螺旋状の夢』

☆mediopos2676  2022.3.15

映画『カナルタ 螺旋状の夢』は
アマゾンに暮らすシュアール族の村をひとりで訪れ
一年以上にわたり生活をともにしながら
撮影したドキュメンタリー

1989年生まれの映像作家・文化人類学者
太田光海(おおた・あきみ)の初監督作品である

シュアール族の人々は
「よく眠り、夢を見て、
 真の意味で自分が何ものかを知るべき時」
「カナルタ」と言うのだという

シュアール族の村は
アマゾン熱帯雨林の西端にある
エクアドルの南部の小さな町から
さらに車で3時間ほど奥地の村

そこで村のリーダー的存在である
映画の「主人公」となるセバスティアンと
その妻パストーラに出会い
対話を重ね信頼関係を築き
森で生きる術を教わりながら
集落の一員となって暮らす

つねにカメラを回していたのではなく
撮影は全部で35時間だけだという
映画はそのなかの121分間
ことさらに未開人の村だという表現も
未開民族の儀式を紹介したシーンもない
人間と植物の関係性を縦糸に
現代社会に生きる森の民ゆえの
アンビヴァレントな状況も見せきながら
森で暮らす生活シーンが淡々と描かれていく

あえて描かれるのは
シャーマンとしてのセバスティアンが
幻覚性の植物を服用して“ヴィジョン”を見るとき
それを明晰な言葉で語ってみせるリアルなシーンだが
それもことさらな見せ方ではない
むしろわたしたちもその明晰さに誘われるかのようだ

わたしたちはシュアール族のように
森のなかで多種多様な植物とともに暮らす環境にはなく
ほとんどそうした智恵からも切り離されていて
そうした環境を得ることは難しいだろうが

どんな環境のもとで生きるとしても
シュアール族のひとたちが
前向きに生きようとすることを決して忘れず
つねに「自分に力がある」こと
「本物のシュアール族」であろうとするように
それぞれがどうすればじぶんらしく生きられるか
そのことをあらためて問い直す必要があるだろう

「よく眠り、夢を見て、
真の意味で自分が何ものかを知る」こと
「カナルタ」

■太田光海(おおた・あきみ/監督・撮影・録音・編集・制作)
 映画『カナルタ 螺旋状の夢』

イギリス・日本|2020年|121分|DCP|ステレオ|シュアール語・スペイン語
監督・撮影・録音・編集:太田光海/
サウンドデザイン:マーティン・サロモンセン/
カラーグレーディング:アリーヌ・ビズ
出演:セバスティアン・ツァマライン、パストーラ・タンチーマ
制作協力:マンチェスター大学グラナダ映像人類学センター
配給:トケスタジオ
2021年10月2日公開

「アマゾンの熱帯雨林で暮らすシュアール族に密着したドキュメンタリー。監督や撮影などを手掛ける太田光海が先住民族の村におよそ1年滞在し、村人たちと共に過ごしながら彼らの日常生活を映し出す。セバスティアン・ツァマライン氏とパストーラ・タンチーマ氏らが出演。マーティン・サロモンセンがサウンドデザイン、アリーヌ・ビズがカラーグレーディングを担当し、太田監督が学んだマンチェスター大学グラナダ映像人類学センターが制作協力している。」

(『カナルタ 螺旋状の夢』あらすじ)

「セバスティアンとパストーラは、エクアドル南部アマゾン熱帯雨林に住むシュアール族。かつて首狩り族として恐れられたシュアール族は、スペインによる植民地化後も武力征服されたことがない民族として知られる。口噛み酒を飲み交わしながら日々森に分け入り、生活の糧を得る一方で、彼らはアヤワスカをはじめとする覚醒植物がもたらす「ヴィジョン」や、自ら発見した薬草によって、柔軟に世界を把握していく。変化し続ける森との関係の中で、自己の存在を新たに紡ぎだしながら。しかし、ある日彼らに試練が訪れる...。」

〈「カタログ」より〉

「よく眠り、夢を見て、真の意味で自分が何ものかを知るべき時、シュアール族の人々は「カナルタ」と言う。

(「レビュー:箭内匡(やない・ただし)/文化人類学者 東京大学総合文化研究科 教授」より)

「『カナルタ 螺旋状の夢』に出て来るシュアール族の人々は、一体どんな点で私たちと一番異なっているのだろうか。それは、彼らがアマゾンの多種多様な植物と接して暮らし、それらの植物の力を実感しながら生きている点だと私は思う。

 植物は、私たちの大半にとって、スーパーで買う規格化された野菜や果物、道端に生えてくる雑草、公園の「木」やレジャーで接する「自然」、といったものでしかない。しかし植物は実際には、酸素呼吸する全ての生物に生を与え、食べ物を与えている強力な存在である。人間の傲慢さにも文句を言わず、彼らは私たちの生を静かに見守り、支えてきた。もちろん食べられる一方では拙いから、植物たちは自衛手段として、自らの身体を食い尽くす細菌・昆虫・動物を追い払うための多種多様な化学物質(中には猛毒も多い)をも発明してきた−−−−人間は植物のそうした力に気がついて「薬」を知るようになったのである。なお、植物は、敵を毒殺するよりずっとエレガントな方法も発明している。幻覚性のある化学成分を作れば、食べた動物はフラフラになって数時間は食べることをやめるのだ、
 
 太陽エネルギーが燦々と降り注ぐアマゾンの熱帯雨林は無数の生物種を生み出し、それらが束になる中で、一本一本の植物が精一杯に生きている。森に住むシュアール族はそれらの植物たちとの優れた対話者であるキャッサバ芋を茹でて食べたり−−−−また唾液を混ぜてチチャ(発泡酒)を作る−−−−、ヤシ科植物の葉で屋根を葺いたり、バナナなどの幅の広い葉で物を包んだり、様々な病気の治療に役立つ薬草を腫れた足に塗ったり、傷口に塗ったり、薬草を口から内服したり、そして新たな薬草を発見したり・・・・・・。彼らの日常は何よりも植物との交渉の中で成り立っている。彼らはまや、マイキュア(チョウセンアサガオの類の数種)やアヤワスカ(キントラノオ科のつる植物)といった特別な植物が、もし適切な形で服用するならば、その幻覚作用の中で人生についての深い真理を教えてくれることも知っている。映画の終末部でセバスティアンが私たちに語りかけるように、それらの植物は生きるための「ポジティヴなエネルギー」を与えてくれるものであり、「そこに「ネガティヴなことは一切ない」。

 アマゾン先住民のこうした奥深い世界を、『カナルタ』は様々な映画的手法を駆使し、重層的な形で私たちに伝えてくれる。時折織り込まれるクローズアップのショットは、茹でた芋の手触り、地面を踏みしめる足の力強さを伝え、またクリアーなステレオ音声は素晴らしい臨場感を与えている。セバスティアンを追いかけるカメラは私たちを彼の生きる世界に誘い込み、また暗闇を彷徨うカメラはパストーラやセバスティアンの人生における迷いと決断の語りを見事に支える。映画の後半では、パストーラとセバスティアンがカメラを持つ人類学者のアキミにまっすぐ語りかけ、それを通して私たちが彼らと親密な関係を営むことになる。太田はさらにさらに、こうした様々な要素が豊かな照応関係をなすよう、創意に満ちたモンタージュを行っている。『カナルタ』はそれ自体、アマゾンの森と同じように重層的で、響き合いに満ちた映画だ。そうした分厚い映像に身を浸す中で、私たちはほとんど、濃厚なアマゾンの森のジュースを実際に飲んでいるようにも感じるのである。

 映画終盤のドラマチックな展開は説明不要であろうが、ここでは序盤・中盤の部分にある味わい深い言葉を拾っておきたい。

 セバスティアンや屋根葺きの作業に加わる男たちは、各々が「自分に力がある」こと、「本物のシュアール族」であることを強調する。そうした彼らは、疲れた身体を癒やすチチャを飲む場合も「立っている時」に飲む。「俺たちは常に前に進んでいる」のだ。アマゾン先住民はある意味、強烈に個人主義的である。しかしそれは西欧近代的な個人主義のイデオロギーとは異なり、「各々が力強く存在しなければならない」という存在論的真実をそのまま肯定することである。ちょうど一本一本の木ができる限り枝葉を伸ばし、たえず「前に進む」ように、アマゾンの森に住むシュアールたちは、自分たちも一歩一歩前向きに生きようとする。こうした個人個人の「前に進む」力の肯定は、そうした力を一つにすることも矛盾することはない。「これがシュアール族だ。俺たちが力を合わせればどんなことでもやり遂げられる」とセバスティアンが誇らしげに語るとおりである。

 パストーラもセバスティアンも、とても知的で人間的魅力に満ちた先住民である、人類学の醍醐味の一つは、まったく意外な場所でそういった人々と出会うことにあるが、そうした出会いを『カナルタ』は、民族誌映画にしかできない形で私たちにダイレクトに経験させれくれる。アマゾンの熱帯雨林で、そして世界の様々な辺境地域で、こうした貴重な生がどれだけの数、繰り広げられてきただろうか−−−−そうため息をつきたくもなるが、ともかく、私たちがこの、現地に深く溶け込み、そして大変な苦心とともに撮影・編集された貴重な映像に出会えるだけでも、限りなく幸いなことだと思う。

 『カナルタ』は、ロバート・フラハティ、ジャン・ルーシュ、小林紳介といった、現地の人々と自然のただ中に身を浸し、その最も深いところに立脚して作品を作った映画作家たちの最良の系譜に連なる、傑作である。」

●『カナルタ 螺旋状の夢』予告編

●『カナルタ 螺旋状の夢』公式サイト

●アマゾンの秘境へ、太田光海が挑んだ新しい映像人類学の冒険
 映画『カナルタ 螺旋状の夢』


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