ジョージ・ダイソン『アナロジア/AIの次に来るもの』
☆mediopos-3125 2023.6.8
いまやアルゴリズムによるAIが
人間にとってかわるかのような議論がある
ひょっとしたら
この宇宙が生まれたのは
0と1からなのかもしれないし
DNAもデジタルコードで記述されはするが
この世界ももちろん私たち生物も
アナログ的な存在であることはいうまでもない
どんなにAIが
人間を超えた処理能力を発揮し
デジタル・テクノロジーが
私たちの生活を便利にし
ときに脅かすようなことがあったとしても
私たちはデジタルな生を送ってはいない
あるいは送ることはできない
AIがどんなに有能な働きをするとしても
それにはまず最初に
それになにをしてほしいかを指示する必要がある
たとえばAIが遊びを覚えるようになったとしても
まずは「遊ぶ」ということを教えなければならない
過去の膨大な作品情報を背景に
文学作品や詩作さえ可能になったとしても
まずは文学や詩を作るということを
教えなければならない
なにもないところから
新たなものをつくりだすような意味での創造性は
現状のAIというフレームでは可能とはならないだろう
さて本書『アナロジア』は
「AIの次に来るもの」という副題があるように
アナログからデジタルへ向かってきている世界が
またアナログ世界へと向かうだろうことが示唆されている
著者は物理学者のフリーマン・ダイソンを父にもつ
科学史家ジョージ・ダイソン
少し前になるが
『チューリングの大聖堂』(邦訳2013年)という
コンピュータの創造とデジタル世界の到来についての著書がある
さて本書だが
自然と人間と機械の関係において
これまで三つの時代があったという
第一の時代は工業化以前の時代
第二の時代は工業の時代
第三の時代はデジタル論理の時代である
そしてこれから到来するであろう第四の時代には
アルゴリズムの時代は終わり
「アナログ」の時代になることが示唆されている
ここで重要な視点は
デジタルとアナログの違いである
「アナログ・コンピューティングと
デジタル・コンピューティングはどちらも無限の力を持つが、
それぞれがどれだけ進化しても発揮する力は異なる」
デジタルは「整数の一、二、三・・・・・・を
際限なく数えてできる整数の無限集合」であり
アナログは「直線上の点によって表される
実数の無限集合」であり
「完全な連続体」である
自然界では「神経系(ニューラル・ネットワーク)と呼ばれる
アナログ方式のコンピューターが進化し、
世界から収集した情報を統合し」
学習し「自分自身の行動を制御することを学び」
「環境を制御することを学ぶ」
現在のデジタルコンピューターは
「際限なく数え」る方式なため
増え続ける膨大なデータを常にアルゴリズムによって
情報処理し続けなければならないが
アナログ方式のコンピューターであれば
生命のような仕方で自律性と知能を発現させることができる
いってみれば
計算的思考のみによる情報処理方式と
直観的思考をも使える情報処理方式の違いともいえるだろうか
おそらくこれからは
デジタル的なツールも活用しながら
デジタルでは不可能な部分の可能性を生かしたアナログ知性を
いかに育てていくかが課題となっていくだろう
■ジョージ・ダイソン(服部桂監訳・橋本大也訳)
『アナロジア/AIの次に来るもの』(早川書房 2023/5)
(「第0章 ライプニッツ群島————アナログからデジタルへ、そしてまたアナログへ」より)
「自然と人間とマシンの絡み合う運命には、これまで四つの時代区分がある、第一の時代は、工業化以前の時代で、テクノロジーは人間が自分の手で作り出せる道具や構造物に限られていた、
第二の時代は工業の時代だ。機械が導入された、単純な工作機械かた始まり、他の機械を再生産できる機械が登場した。自然は機械の支配下に置かれ始めた、
第三のデジタル論理の時代はパンチカードと紙テープに始まり、情報が自らを複製するようになった。それまで生物学に限られていた自己複製や自己増殖は、マシンが担うようになった。自然が支配権を手放したかのように思われた。この第三の時代の後半、ネットワーク機器が増殖し、多細胞的な複雑な情報が溢れかえった時、それまでとは逆の展開が起きた。
第四の時代には、緩やかな進みだったのでほぼ誰も気がつかなかったが、マシンは自然の側に、自然はマシンの側に歩み寄り始めた。人類はまだその関係の輪の中にいたが、もはや主導権を握ってはいなかった。主体性の喪失に直面した人々は、「アルゴリズム」やそれをコントロールしている人々を非難し始めたが、もはや明確な支配者のアルゴリズムなど存在しないことに気づいていない。アルゴリズムの時代は終わったのだ。未来は別の何かが握っている。
人工知能をプログラムして思い通りに動かすことはできると信じることは、神と話すことができる人がいるとか、ある人は生まれつきの奴隷だと信じるぐらい、根拠のないものであることがはっきりするだろう。第四の時代はわれわれを、もはや手に負えない。あるいは完全には理解できないテクノロジーと人間が共存していた第一の時代、スピリチュアルだらけの原風景へと引き戻そうとしている。そこは人類の心が形成された場所だ。われわれは糧として、どこを向いても心や知能のあるものに囲まれて育ってきた。テクノロジーの黎明期から、われわれは道具とそこそこの関係を続けてきた。クラウドで人工知能が提供されるというのは何も新しい話ではない。第四の時代にふさわしい生き方をするためには、第一の時代を振り返ることが役立つ。」
「ライプニッツのアイデアは二〇世紀のデジタル・コンピューターと、一八世紀のベーリング・チリコフ探検隊によって、二度にわたって北米に到達した。ピョートル大帝の命令でアメリカ西部の海岸に到達した航海士たちを発見したのは、約一万五〇〇〇年前の最後のテクノロジー以来ずっとうまくやってきた人々だった。
そこはタブラ・ラサではなかったのだ。」
(「第9章 連続体仮説」より)
「一九世紀の南北戦争直後に鉄道が平原を無慈悲に横断した。同じように、二〇世紀には第二次世界大戦後にデジタル・コンピューターが北米を席巻した。コンピューターについて懸念する声はポツリポツリと静かに上がっていた。ジュリアン・ビゲローとともに近代サイバネティクスの創始者ノーバート・ウィーナーは、一九四三年の予言的な『行動、目的、目的論』から亡くなる一九六四年までの間に、「未来の世界は、われわれの知性の限界をめぐる激しい攻防戦になる。ロボット奴隷を侍らせて寝そべっていられる安楽ハンモックの世界ではなないだろう」という予言を残した。ロボットの番人であろうとする人間が、逆にロボットに監視されることになる。
ウィーナーの警告は無視された。その第一の理由は、デジタル・コンピューターの開発が水爆の開発と同時に行われたからである。人々は水爆という短期的な視点での危険に目を奪われて、人間の主体性をマシンのコントロールに委ねるという長期的な視点の危機が見えなかった。第二の理由としては、人間がマシンに指示を与えている限り、人間の自律性が危険に晒されるなどとは思われなかったからであった。
デジタル・コンピューターがアルゴリズム、つまり論理的な段階的手続きに依存しているからといって、マシンの知能が論理的な制御のもとに保たれる保証はない。マシンの知能の根底にあるアルゴリズムを見出そうとすることは、クジラ同士のコミュニケーションの根底にある言語を見出そうとするのと同じくらい無駄なことかもしれない。アルゴリズムの領域をいくら探しても、マシンの真の自律性と知能のしるしを見つけることはできまい。
自然界では、神経系(ニューラル・ネットワーク)と呼ばれるアナログ方式のコンピューターが進化し、世界から収集した情報を統合している。神経系は学習する。自分自身の行動を制御することを学び、自分自身や他の種類の生物の行動を含めて、環境を制御することを学ぶのだ。マシン性能の三世代以上前にスタン・ウラムは「数学的論理が人間の思考法と同じだと、どうして強く確信できような?」と問いかけていた。」
「ライプニッツの無限小の研究に起源を持つ連続体仮説は、アナログ・コンピューティングとデジタル・コンピューティングはどちらも無限の力を持つが、それぞれがどれだけ進化しても発揮する力は異なることを示唆している。一八七八年に超限数のパイオニアのゲオルク・カントールが初めて立て連続体仮説は、無限の数存在する無限のすべて二種類に分ける。ひとつは、整数の一、二、三・・・・・・を際限なく数えてできる整数の無限集合だ。もう一方は、直線上の点によって表される実数の無限集合だ。直線上の点の数はその線が有限の長さであっても無限個であるばかりでなく。どんなに近い二点の間にも無限個の点が存在する。
(・・・)
連続体仮説によれば、砂粒の数のような数えられる無限はすべて整数と一対一で対応させることができる。連続線上の点の数のような数えられない無限は完全な連続体である。このふたつの無限の間に中間の無限は存在しない。無限はカンファレンスの最後に無料で配られるTシャツのようなもので、XLサイズとXSサイズしかない。もし連続体仮説が正しいとすると、無限にはふたつのサイズ、すなわちふたつの大きさしかなく、中間のサイズの無限は存在しないことになる。連続体仮説の核心は、連続で数えられない無限と、離散値で数えられる無限の間に中間がなく、本質的な違いがあるという予想だ。」
「連続体仮説は、生物と非生物の計算方法の違いを説明できる。コンピューターは、カントールの無限のように、二種類に分けることができる。デジタル・コンピューターは有限であるが無限の離散化状態をとるマシンで、その可能な状態は整数に一対一で対応させることができる。アナログ・コンピューターは、整数に直接一対一で対応する整数状態を持たず、連続体の部分集合に属し、その部分集合はカントールによれば、連続体全体の大きさを持つとされる。
デジタル・コンピューターが扱うのは、整数、二進数、決定論的論理、そして離散値的に増えていく理想化された時間だ。アナログ・コンピューターは、実数、非決定的論理と実世界に連続体として存在する時間を含む連続的関数としての時間を扱う。
(・・・)
デジタル・コンピューティングでは、エラーや曖昧さは許されず、正確な定義と各段階でのエラー訂正が必要になる。アナログ方式の計算は、エラーや曖昧さを許容するだけでなく、それを使ってうまく動く。デジタル・コンピューターは、技術的には、硬直化してノイズに対する耐性を失ってしまったアナログ・コンピューターだ。アナログ・コンピューターはノイズを受け入れるばかりか、例えば実際の発達途上の脳の視覚系や聴覚系などの神経ネットワークは、機能するために一定レベルの背景ノイズを必要としさえする。」
「テクノロジーの第二と第三の時代においては、連続体の力は自然に委ねられ、一方、数えられる無限の力はマシンが行使した。中間のサイズの無限が存在しないため、自己再生技術や自己複製コードが埋めるべき空白を残した。デジタル宇宙のビット数は数えられるが、急速に増えているので、どの部分集合をサンプリングしても、常にビットの数が増えている。まるで、浜辺で線上の点を数えていたのに、砂粒の数が二倍になっているので、砂粒を数えている友人に完全に追い抜かれることがなくなったようなものだ。もし、中間のサイズの無限があるとしたらそんなふうに見えるだろう。
デジタル宇宙は現在、一秒間の約三〇兆個のトランジスターで拡張されており、数えることはできるが数えきれないコード列で満たされている。このコードの増殖は、三つの基本原則によって推進されている。ひとつ目は、チューリングが実証したデジタル・コンピューターの普遍性だ。ライプニッツの「すべての機械に共通する普遍的言語」というビジョンが現実になった。ふたつ目はフォン・ノイマンによる自己増殖するオートマトン理論で、そのような万能のマシンが自己増殖できることを証明した。三つ目はシャノンの三分リング(標本化)定理で、離散化状態のマシンがあらゆる連続関数を任意の解像度で処理できることを証明し、デジタル・コンピューターが世界を支配する道筋を開いた。
テクノロジーの第四の時代には、連続体の力が機械のものになる。アナログ部品を使ってデジタル・コンピューターが作られたときと同じように、次の革命はアナログ・システムの台頭であり、デジタルプログラミングの支配が終わりを告げる。プログラム可能な機械によって自然をコントロールする方法を探す人間に対して、自然が答える答えは、プログラム不可能な性質を持つシステムを構築することである。」
(「監訳者解説」より)
「デジタルとアナログの計算は、本当は何が違うのだろうか? これは概念的に言えば、一次元的で数を数えることを基本にした算術的な論理のデジタル式と、視覚的で二次元的な類似や比例を使う幾何学的なアナログ式の違いで、一方は整数という概念の数を数えることの限界があり、一方は幾何学的な数を使わない方法として、計算としては意識されてこなかった。
われわれが現在使っているデジタル式のコンピューターは、プログラム(アルゴリズム)を書けば、どんな事でもできる魔法の機械のように思える。たしかに、自然や社会の様々な事象を数値化しデータとして扱い、その原理を定式化して高速に処理すれば何でもできる。しかし、アルゴリズム化できないもの、つまりプログラムとして書けないものはどうするのか? そもそも、そんなものは存在するのか?
古代から知られている有名なピタゴラスの定理は誰もが知っているだろう。直覚三角形の斜辺の長さの二乗は、直角に交わる他の二辺の長さをそれぞれ二乗して足したものに等しいというもので、この不思議な現象が正しいことを幾何学的に証明する方法はいくつも知られている。そしてコンピューターでこの数式をコードに書けば、すぐさま未知の辺の長さを計算して算出することができる。
しかしデジタル方式のコンピューターにはこの定理を発見することや、証明することはできるのか? まずコンピューターはそうした問題意識自体を持たないだろう(人間の思考過程を真似て、問題意識というもの自体をプログラミングすることが不可能とは言い切れない。生物の遺伝や進化を模索し、定式化したアルゴリズム自体を自ら再帰的に書き換える手法を使って、プログラム自体をランダムに変化させて、元々それが意図していた処理を超えた最適化や発見を促す遺伝的アルゴリズムのような手法がないわけではなく、現象のデータを大量に読ませてディープラーニングを繰り返して、ケプラーの法則や熱力学の保存則を導いたという事例もあると聞くが、それは真の発見というより、人間の発想を追認しただけだ。コンピューター自体は少なくとも、新しい発見をしたいという意思は持たないだろう。心や意識を持つ完全なAIが実現できると主張する人もいるが、まだ結論は出ていない)。
(・・・)
人間の生活は、個別の部分ではコンピューターや他の道具に劣っているが。われわれの生活のほとんどは計算しなくてもできることばかりだ。〔・・・)
ところが万能に思えるコンピューターは、小さな虫が食料を探し敵から身を隠し、子孫を残していくという単純と思えることを、ロボットなどを使って実行しようとしても、とてつもないプログラミング量やムダなエネルギーを使わないと真似できず、現在は両者のギャップである「無気味の谷」は超えられていない。」
「脳や神経系はデジタル素子でできているのではなく、プログラミングをしているわけでもなく、ニューロンがただ複雑に絡み合って、外界からの刺激でお互いのコミュニケーションのパターンを変化させて、不測の状況に対しても適合しようとしているだけだ。ところが不正確で遅いという欠点はあっても、これだけ万能で消費エネルギーも少ない合理的なシステムは人工物の中にはいまだ存在しない。」
「生物も最小単位の情報がDNAというデジタル的なコードで記述されるが(遺伝子型)、それが大量に組み合わされて細胞や器官になった個体同士の関係はアナログ的で非決定的だ(表現型)。つまりこの世のすべてのものは、ミクロなレベルでは言語的・デジタルで。マクロなレベルでは非言語的・アナログな存在なのだ。
1と0の離散的な論理がデジタルで、その他すべてが単にアナログだと考え区別するだけでは。こうした問題の本質を理解することはできず、もっと大きな構図の中に両者を捉え直す必要があるだろう。」
○ジョージ・ダイソン George Dyson
1953年生まれ。アメリカの科学史家。16歳で家出し、カナダのブリティッシュ・コロンビア州沿岸の森林に移り住む。地上30メートルのツリーハウスで暮らしながら、アラスカ先住民であるアリュート族のカヤック「バイダルカ」の復元に情熱を注ぐ。のち、科学史家に転身。著書に『チューリングの大聖堂』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫、第49回日本翻訳出版文化賞受賞)、『バイダルカ』、Darwin among the Machines、Project Orionなど。父は世界的な物理学者のフリーマン・ダイソン、姉は投資家でIT業界のオピニオンリーダーであるエスター・ダイソン。
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