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ジェシカ・ベンジャミン『他者の影――ジェンダーの戦争はなぜ終わらないのか』

☆mediopos2898  2022.10.24

フロイトの精神分析では
とくにその草創期においては
エディプス・コンプレックス論のように
男性が主体(=能動)で女性が客体(=受動)である
という構図で理論化がなされていたが

とくにフェミニズムにおいては
それに対立するかたちで
男性中心主義が批判されてきた

そしてそこに「ジェンダーの戦争」が
展開されることにもなったのだが

本書の著者ジェシカ・ベンジャミンは
「好戦的フェミニスト」とは根本的に異なっている

「私は、ジェンダー対立という
フェミニズム批評のやり方を採用しつつも、
フェミニズムが批判している二元論を、時として
フェミニズム批評自身が強化することにもなっていると、
はっきり認識している」というのである

男性と女性の位置を逆転させても
それは相手に成り代わろうとして
あらたな戦いを呼び込むだけで
基本的な構図が変わるわけではなく
不毛な戦いが続くばかりである

しかもどちらの論戦も
「男は○○」「女は○○」というように
対する性をきわめて類型化していることも多い
そのことはみずからが属していると思っている性をも
類型化してしまっていることになる

男−女というだけではなく
さまざまな性的傾向をもっている場合でも
そうした類型化された「戦争」は終結することはない

極論をいえばある種の傾向性はあったとしても
性はひとの数だけあるともいえる
「私」の性的傾向は常に類型化を逸脱している
私が男性であり女性に対する性的指向があったとしても
すべての女性にその指向を持つわけではなく
ほとんど限られたかたちでしかその指向は成立しない
つまり「あなただから私はあなたを愛する」のである

ジェンダー論にかぎらず
重要なのは「他者」のとっている立ち位置に対して
否定的になるのではなく
「他者をわれわれの内に持つ」ことだろう
「他者」を頑なに否定し差別・迫害するのは
みずからの内に「他者」を持ちえないからだ

多くの場合「戦争」は
「他者」をみずからと
「同一化」させようとすることから起こる
「同一化」させようとしないとき
「他者」はそこにいるが
みずからの「影」のような
「私」に敵対する脅威の存在ではない

「他者をわれわれの内に持つ」とき
その「他者」はすでに「私」を害する存在ではない
「戦争」するとすれば外的な「他者」とではなく
みずからの内なる「他者」との戦争となる

常に闘争的な人は
みずからの「影」を「他者」に投影し
その「影」と闘わざるをえない存在なのだ

■ジェシカ・ベンジャミン(北村婦美訳)
 『他者の影――ジェンダーの戦争はなぜ終わらないのか』
 (みすず書房 2018/11)

「さまざまに異なる声たちが、競い合いながらも発話の主体という立場に登りつめると、それは自己を汚染したり再び呑み込もうとする脅威的なアブジェクトになるよりもむしろ、外部の他者という立ち位置をとれるようになる。
 こうした形の包摂を受け入れることは、どんな声であれ(たとえそれがかつて排除されていた他者の声であれ)それを絶対化しようとしたり、あるいは他者を(たとえその他者自身が相手を黙らせようとする者であっても)黙らせようとしたりするような、全体主義的強要をはばむための前提条件だ。このことはまさに主体としての自己が、内なる他者の声も含めて、みずからのすべての声たちに発言を許すことができ、また実際に許しもする状態を意味する。他者をわれわれの内に持つことは、外なる他者の脅威を小さくする。だから外界の異人はもはや、われわれの内なる異質なるものと同一ではなくなる————それはもうわれわれ自身の影でも、われわれにおおいかぶさる影でもなく、別個の他者だ。その人自身の影が光の中で、はっきりと識別できるような。他者なのである。」

(北村婦美「解説」より)

「本書は、米国の精神分析家ジェシカ・ベンジャミンによるShadow of the Other:Intersubjectivity and gender in Psychoanarysis(Routledge,New York, 1998)の全訳である。副題からもわかるとおり、本書はいわゆる「ジェンダー論」の一つであるには違いないのだが、訳者が本書をぜひ日本語で紹介したいと考えたのは、それがこれまでとはまったく異なるスタンスで書かれていた本だからであった。
 私たちはいま男性であること、女性であること、あるいはそういう従来的な枠組みに完全にあてはまらないと感じることを含めて、望むと望まざるとにかかわらず、男女という枠組みをめぐる困惑や疑問や競争と無縁に生きてはいない。けれども多分私たちの多くは、そうした困惑や疑問は論争とできれば無縁に生きたいと思っている。なぜならそれらと無縁でないということは、私たちのもっとも身近で個人的な、ささやかな生活圏が乱され、平和でなくなるということを意味しているからだ。
 女性たちは、女性の権利を拡張するために闘わなければならないのだろうか? 男性たちは、それに対してすでに所有している諸々のものを守るために、当然反撃に出なければならないのだろうか? そうしてまた、既成の男女の枠組みに完全にはあてはまらないと感じている人たちも、自分たちの存在にある名誉を与え、その名を名乗り出て権利の拡張に努力しなければならないのだろうか?
 こうした権利拡張の要求どうしがぶつかりあう状況をもし「ジェンダーの戦争」と呼ぶなら、ベンジャミンが本書で試みていたのは、その戦いに参加していかに効率的に敵陣を論破するかということではなく、この戦いの状況自体に光を当て、なぜそれが終わりのない応酬に陥ってしまうのかを冷静に考察することであった。」

「ベンジャミンが(好戦的フェミニストと)根本的に違うのは、そうしたこれまでの論法では問題の解決にはならないことを、はっきりと明言していることである。
 彼女は最初の代表的著作『愛の拘束』の冒頭で、次のように述べている。

従来の精神分析学の思想に挑戦するというのは、フェミニズとたちの一部が信じているように、フロイト派の性的ステレオタイプや「偏向」は、社会的に構築されたものだと主張すれば済むということではない。同時に、男と違って女は「穏やかな生きものだ」と主張することで、フロイトの人間本性観に反論すれば良いという問題でもない。私は、ジェンダー対立というフェミニズム批評のやり方を採用しつつも、フェミニズムが批判している二元論を、時としてフェミニズム批評自身が強化することにもなっていると、はっきり認識している。

男性性をおとしめ女性性や母性を持ち上げるような主張(男性と違って「女性は自然、平和」だといった主張)をしたり、男性中心主義を打開するために女権拡張を訴えても、それはこれまでの上下関係を転覆し逆転させようとする働きかけにすぎず、上下関係という構造そのものは変わらない。それはまたバックラッシュを呼び込み、それに対するあらたな戦いを呼び込んでしまう。つまり互いに「どちらが上に立つか」という基本的姿勢そのものは変わらず、あるときは味方側が、あるときは敵側が上に立つというシーソー・ゲームをしているにすぎないというのである。

私たちがなさねばならないのは、どちらかの味方をすることではなく、二元的構造自体にずっと焦点を当て続けることである。(前掲書)

転移−逆転移関係の中で精神分析家が患者との情緒の波に巻き込まれたとき、分析治療者は患者と自分とのそれぞれに心の中で身を置きながら、二人を巻き込んでいる波の正体を見極めようとする。分析家ベンジャミンはそれを、男性と女性という「ジェンダーの戦争」においても行おうとしているのである。
 ひとの成熟が最終的にどうしても必要とする「相互承認」の力こそが、「ジェンダーの戦争」を終わらせるためにも必要であるとするこのベンジャミンのスタンスは。従来の女性運動に存在していた一方的、好戦的な戦略とははっきりと異なっている。それはより冷静かつ緻密に、生じている状況そのもののより深い次元に目をこらし、対立を乗り越える共通の基盤を切り開くものだ。」

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