エンマ・ユング『内なる異性―アニムスとアニマ』
☆mediopos2664 2022.3.3
ユング夫人のエンマ・ユングは
とくに精神分析医でも心理学者でもなかったものの
アニマとアニムスに関する著作があり興味深い
アニムスに関するものは49歳のとき
アニマに関するものは73歳(没年)のときのもの
アニムスに関するものは
その4つの段階について詳細に論じているが
アニマに関するものについては
その「自然存在」としての側面がクローズアップされ
その段階的な展開についてはとくに論じられていない
そのふたつの著作をガイドに
アニマに関する段階的な展開については補足しながら
アニマとアニムスの基本的な視点を
かなり図式的にはなるが整理しておきたい
ふつう男性とか女性とかいわれるばあい
身体的意識的な人格についていわれるが
その内的な人格についてはほとんど意識されていない
ユング的な視点でいえば
女性は内なる無意識的な人格要因として
男性的なものであるアニムスをもち
それを外的な男性に投影し
男性は内なる無意識的な人格要因として
女性的なものであるアニマをもち
それを外的な女性に投影する
女性の内なる女性性であるアニムスには
「力のアニムス」(男性的な力強さの心像)
「行為のアニムス(男性的な行動力や実行力の心像)
「言葉のアニムス」(男性的な知的なもの心像)
「意味のアニムス」(男性的な賢者の心像)
という4つの段階があり
男性の内なる女性性であるアニマには
「生物学的なアニマ」(肉体的な心像)
「ロマンティックなアニマ」(ヒロイン的な心像)
「霊的なアニマ」(聖母マリアのような母的な心像)
「叡知のアニマ」(ソフィア的な女神性の心像)
という4つの段階がある
わかりやすくいえば
女性も男性も
最初は肉体的な側面から異性に惹かれるが
自己の統合へと向かうとき
しだいに精神的な側面へと
それぞれの段階が混在しながらも移行していく
それぞれの段階でのアニムスやアニマの投影は
多くの場合もっぱら無意識的かつ衝動的に働き
ざまざまな葛藤を生じさせる
女性的意識的人格は男性的人格要素アニムスを統合し
男性的意識的人格は女性的人格要素アニマを統合することで
真の意味で自己(セルプスト)を実現し
「個性化」という統合を図ることができるが
それができないときは
みずからの「投影」に気づけないまま
「投影」の対象としての「異性」との
さまざまな葛藤を生じさせることになり
みずからの内なる「異性」との関係においても
そうした葛藤のうちに生きざるをえなくなる
■エンマ・ユング(笠原嘉・吉本 千鶴子 訳)
『内なる異性―アニムスとアニマ』
(バウンダリー叢書 海鳴社 2013/3) 単行本 – 2013/3/1
(「訳者あとがき」より)
「『内なる異性』とは「アニムス(Animus)とアニマ(Anima)」の意訳である。アニムス、アニマとは本書の著者エンマ・ユングの夫君で、二十世紀の深層心理学の創始者としての名声をジグムント・フロイドと二分するところのカール・ギュスターフ・ユングの造語であって、次のような特殊な意味をふくむ。
ふつう男とか女とかと言われるとき、それは外面的、顕在的、意識的、実体的人格像以上でも以下でもないことが多い。しかし、こうした外面的人格を恰も補填するかのように、反対の性の人格要素が、いわば内面的人格として、われわれの内にひそむ、アニマとは男性の内なる女性的人格要因、アニムスとは女性にとっての内なる男性的要因の謂いである。
(・・・)
「内なる異性」という意訳には若干正確さに欠けるところがある。一例をあげると、ふつう男性が一等最初にアニマに出会うのは外部世界の現実の女性において、であるから、内なるアニマは外からまずやってくる。精神分析のいう投影である。そして男がこの投影体の魅力にあまりにも長くひきとめられると、内的アニマを見出すことに彼は失敗することになる。内的アニマとの関係を見出せないとき、男性的意識的人格は内的女性的人格要素アニマを統合し真の意味で自己(セルプスト)を実現し個人となる(インディビデュアチオン)ことができない、とユンギアンたちはいう。さらに今少し詳しくいえば、内的アニマにも二つあって、個人に属し意識的外面的男性性と仲よく統合される可能性のあるアニマと、今一つ、個人を超え集合的無意識に属する元型であるところの、したがって個人的人格の統合の対象と元来なりえないところのアニマがあるという。このあたりになるとかなり難解で、「内なる異性」といっても単純ではない。
ともあれ、性とは男と女、内と外、個人と超個人、意識と無意識とが入りみだれる領域でこそはじめて解読され、そこにおいてはじめて全貌をあらわすはずの人間的事象であり、先に重層的構図といったのはその意味である。」
(エンマ・ユング「アニムスの問題のために」より)
「男性の本性はどのように特徴づけられるか。ゲーテは聖ヨハネ福音書の翻訳にとりかかったファーストにこう自問させている。《はじめに言葉ありき》という文句より《はじめに力ありき》とか《意味ありき》の方がよいのではないか、と。そして最後に《はじめに行為ありき》と書かせている。ギリシャの《ロゴス》を再現するようなこの四つの表現は実際に男性の本性の核心であるように思われる。と同時にそれらには順位が与えられている。この段階の各々は実生活の中にもアニムスの発展の中にもそれぞれの代理をもつ。第一の段階は力であり、それに行為と言葉がつづき、そして最後の段階として意味がある。力というより方向づけられた力、つまり意志という方がもっとよいかもしれない。単なる力はまだ人間的とはいえず、また精神的でもないからである。ロゴス原理をあらわすこの四つの順位は、私たちの見るように、前提として意識性という要素をもっている。それなしには意志も行為も言葉も意味も考えられない。さて、肉体的な力によって特徴づけられる男性が存在したり、また行為の、言葉の、意味の男性性が存在したりするのと同様に、女性の内なるアニムス像もまた、女性のその時その時の段階ないし素質に対応していろいろに変わる。こうした心像は、一方ではそれに似た現実の男性へと転移されるが、他方では夢や空想の中にも姿をあらわす。そして最後に、それは生きた心的現実であるがゆえに、彼女の全体的態度に内部から一定の色調を与える、素朴な女性ないし若い女性にとって、あるいはまたすべての女性の中の素朴性にとって、肉体的な力と敏捷さという特徴をもつ者こそがアニムス代理者である。物語の中のおきまりの英雄や今日のスポーツ選手、カウボーイ、闘牛士、パイロット等である。もっと要求水準の高い女性にとっては、行為を完遂する者が、自分の力を何か価値あるものにむけるという意味において、アニムス代理者である。もっとも、この場合力と行為は互いに規定しあうので、二つの面の移行はふつう流動的である。ついで言葉の男性や意味の男性はまったく本来的に精神的方向をあらわしている。なぜなら言葉と意味は主として精神的能力にかかわるからである。ここに狭義のアニムスがある。つまり女性の精神的指導者、女性の精神的資質として理解されるところのアニムスがある。アニムスはおそらくこの段階でこそもっとも問題になるだろう。」
(エンマ・ユング「自然存在としてのアニマ」より)
「アニマとは、いうまでもなく男性の内なる女性的人格要因をあらわすのだが、同時にまた男性が女性についていだく心像、いいかえれば女性性の元型でもある。
それゆえ、アニマ形象として捉えうる形姿であるためには、典型的に女性的な特徴がはっきりとそこに認められる必要がある。」
「アニマの統合は、つまり男性の意識的人格へ女性的要素をはめこむことは、個性化過程に属している。その際一つだけ特に顧慮されるべき要点がある。人格の構成成分として統合されぬ女性的要素とは、アニマの一部、すなわちアニマの個人的様相にすぎない、アニマは同時に女性性の元型をもあらわすのだが、こちらの方は超個人的性質のものであり、それ故統合されることはない。
私たちの考察が示したところでは、前述の要素的存在の背後にはキュベレー、アフロディテ、要するに自然女神の神的形態がある。アニマ形姿のもつ抗しがたい力はこのような元型的背景から説明される。そこにたちあらわれるのが自然そのものであるなら、人間が自然によって圧倒され自然のとりこになることは理解できる。二つの様相が混同されると個人的アニマが猛威をふるう。だから個人に属するものと超個人的なものとの間を区別することがとくに重要である。夢や空想の中ではこの分離は多くの場合超個人的アニマ形姿が死ぬことであらわされる。
(・・・)
ユングは一人の男の夢について述べている。そこではアニマは教会の中で覆面をして、等身大を超える女性の姿として祭壇の場所に立っている。元型としてのアニマは超個人的性質をもち、プラトンのイデーのように天上的場所に住む。このアニマは、個人的−女性性から区別されねばならないが、しかし原像としてその背後にたち、自らの姿に似せてそれをつくる。元型としてのアニマは、太母、愛の女神、女主人とどのように呼ばれようとも、いつも尊敬をもって出会われねばならない。他方、男性は彼の人格的アニマ、すなわち彼に属する女性性と取り組まざるをえない。それは彼につきそい彼を補うか、彼を支配することはゆるされないアニマである。
私はこの書物でアニマを自然存在として描き出そうと試みた。そしてアニマのより高い現象形式、たとえばソフィアのような形式を考察の対象にしなかっら。このようにアニマの自然的側面をとり出すことが私に大切に思われるのは、これがとりわけて女性性の本性に属するからである。
アニマを承認しアニマを統合することができれば、女性的なもの一般へのその人の態度には変化が生じることだろう。女性原理を新しく評価することは、科学と技術の時代に支配的な理知の立場が、自然の崇敬ではなく利用と搾取に走った後、再び自然に対してもそれにふさわしい崇敬が与えられるようになるための条件である。」
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