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伊東 俊太郎『人類史の精神革命/ソクラテス、孔子、ブッダ、イエスの生涯と思想』

☆mediopos2871  2022.9.27

伊東俊太郎の著作にはじめて出会ったのは
当時先進的だったアラビア世界から
閉ざされた文化圏であった西欧へ
ギリシア・アラビアの学術がもたらされた
一大転換期を扱った文明論
『十二世紀ルネサンス』(1993年)だったが

それから30年近く経って刊行された本書は
(伊東俊太郎は1930年生まれですでに92歳)
ソクラテス・孔子・ブッダ・イエスといった
「精神革命」を中心として描かれた
人類史の壮大な転換期を扱ったいわば文明論である

本書ではこれまでの人類の歴史における大転換期を
「人類革命」「農業革命」「都市革命」
「精神革命」「科学革命」の五つとして捉えているが

現代における「宗教と科学の拮抗対立」のように
「精神革命」と「科学革命」はうまく接合されないまま
第六の転換期である「環境革命」を向かえているといい
この「環境革命のなかでこそ、両者の融合が可能になる」
という視点を示唆している

その拮抗対立を乗り越えるために
さらに精神革命と科学革命とのあいだに
「宇宙関連」という共通事項を導入することが
「最近たどりついたアイデア」として示唆されている

本書のタイトルは『人類史の精神革命』であり
実際ほとんどが精神革命の紹介に費やされているのだが
おそらく基本的な視点は精神と科学の融合としての
「横への超越」「水平超越」であるといってよさそうだ

ここでいわれる「横への超越」「水平超越」は
「縦への超越」「垂直超越」に対比される視点である

基本として「精神革命」における「超越」は
「神」への超越としての「上への超越」と
インドの「空」が中国化された「無」への超越
としての「下へ」の超越の二つがあり
それが西と東における精神革命の典型的な構造
となっているというが

精神革命の最後の段階においては
「な他者との相互関係を自覚し創り上げる」ために
対人関係の原理として「横への超越」が説かれる

先にふれた「宇宙関連」においてもまた
「人と人、人と自然との横の結びつき」こそを
根源的なものとして重要だと著者は提起している

「精神」は「垂直(縦)」の視点にほかならず
現代において失われがちなものだが
それはある意味で霊的世界における視点でもあり
地上世界において実現すべきは
そうした「精神」が踏まえられた上での
「水平(横)」の超越であるといえる
「友愛」が「水平(横)」の超越であるように

■伊東 俊太郎
 『人類史の精神革命/ソクラテス、孔子、ブッダ、イエスの生涯と思想』
 (中公選書 中央公論新社 2022/9)

「筆者はこれまでの人類の歴史を五つの大転換期——「人類革命」「農業革命」「都市革命」「精神革命」「科学革命」として捉えている。本書の主題となる「精神革命」は第四の転換期で、前五世紀頃を中心として、ギリシア、中国、インド、イスラエルの四地域にわたって、平行して人間の精神上の大変革が起こり、哲学や普遍宗教の源点が定められた時代である。具体的には、ギリシアにおける哲学の誕生、中国における儒教の成立、インドにおける仏教の勃興、イスラエルにおけるユダヤ教とキリスト教の形成を意味している。これら四つの思想形成を示すために、各地域での文明の成立事情から説き起こすが、光の中心は、ソクラテス、孔子、ブッダ、イエスの四者に当てられる。
 それに続く、人類史の第五の転換期が、一七世紀に始まった「科学革命」、近代科学の成立である。これは四つの地域で平行して起きた「精神革命」と異なり、西欧のみがその推進者となった。やがて革命は全世界に拡がり、人類は自らの運命だけでなく、おそらく地上のあらゆる生命の運命をも変えることになった。それは数学的分析と実証的実験が結びつく、いわゆる「科学的方法」を創始し、世界は文化圏に依存せず、客観的に認識されるようになった。自然にも科学的方法が適用され、一八世紀後半の「産業革命」や二〇世紀後半の「情報革命」が引き起こされ、現代の科学技術文明ができ上がるわけである。
 分析と実験を手がかりに、科学は貪欲に知識を求めていった。置き去りになったのは宗教である。しかし本当にそうなのであろうか。近代科学技術は私たちに富や利益を与えたが、精神的な価値の喪失が指摘されるように、個々の人々の幸福が増したとはいえなそうである。
 筆者の考えでは、現代では「環境革命」という第六の転換期に入っている。それは近代の科学技術の進歩が生み出した環境破壊や生態系攪乱などの負の要因を取り除き、これからの人類が生き抜いていくために、人間と自然との関係の根本的再調整を行おうとする、現在進行形の変革なのである。
 以上のように、人類は東西共通して六つの転換期を経験して今日まで来ているのだが、「精神革命」によって生み出された普遍宗教と、「科学革命」によって形成された近代科学の拮抗は、本質的に残されたままであり、情報通信技術やAI技術の進展にともない、その対立はますます強まっていくように思われる。このことはこの科学技術時代が包含している人類の大きな問題点であり、「環境革命」において、この両者は何らかの統合的視野のもので、融和されねばならない。」

「宗教と科学の拮抗対立」の問題は、実のところ第四段階の精神革命と第五段階の科学革命とがうまく接合されないまま、その対立が今日の第六段階の環境革命のところまで、とり残されている状況とも云える。筆者としては、この環境革命のなかでこそ、両者の融合が可能になると考える。」

「精神革命の最後に出てくる「善」、「仁」、「慈悲」、「愛」は、本質的に云って対人関係の原理である。つまり他者に対するわれわれの生き方の行動を示している。それを筆者は「横への超越」ないし「水平超越」と呼んでおきたい。今日ではこの「横への超越」の対象となる「他者」として「人」だけでなく、「自然」が加わってくることも注目しておかねばならない。人と人の相互関係と、人と自然との相互関係とは同じではないが、ともに「生きもの」の絆を形成するという点では同様である。ここに「横への超越」とは、このような他者との相互関係を自覚し創り上げることを意味している。
 ところで精神革命では、このような「横への超越」が「縦への超越」により媒介されていると考えられる。この「縦への超越」には、「上へ」と「下へ」の超越の二つがあり、前者「上への超越」とは「神」への超越であり、後者「下への超越」とは、インドの「空」が中国化された「無」への超越である。キリスト教とイスラム教(その先駆としてのユダヤ教)は前者であり、仏教のあるもの(とくに禅宗)では、インドの「空」が「無」に変容して後者になった。つまり前者では「神が汝を愛したように、汝は隣人を愛しなさい」といいふうに、人から「神」へと上っていって人と人との関係に移る。後者では人が座禅などにより「無」の境地に下っていって、そこから再び戻って人と人、人と自然とが結ばれる。これが西と東における精神革命の典型的な構造であり、今日でもそもまま持続している。
 ここでまず注意しておきたいことは、筆者はこの精神革命の遺産、その「縦への超越の意義」を無視したり、軽視したりしようというのでは決してないということである。否、現在においても、この遺産は貴重なものとして保持され重視される価値をもち、精神革命は人類史における大きな転換点であり続ける。それは科学革命が今日においても大きな歴史的意義をもち、その成果が発展し続けているのと同様である。
 しかし問題は、今日の環境革命の時代に、それにのみとどまっていてよいのかということである。むしろここでは、従来の考え方を一変させ、人と人、人と自然との横の結びつきこそ実のところ、根源的なものであり、これを実現する「横への超越」のほうが第一次的に重要で、「神」や「無」への「垂直超越」は、この「水平超越」を可能にするために二次的に求められたものだと捉え直してみたい。そして今日の文化文明的状況においては、東と西の宗教的対立や、科学と宗教の不毛な拮抗を根本的に超え出てゆく「横への超越」の根源として、「宇宙関連」なるものを、新たに提起しておきたいのである。」

「人と人、人と自然とを結びつけ、「水平超越」を可能とする「宇宙関連」とは、いかなるものであるのか。
 それは宇宙のビッグバンから始まって、今日の人類社会ができあがるまでの、素粒子の結びつき。細胞の結びつき、生物相互の結びつきを、人間の結びつきを実現せしめている、あえて大和言葉で云えば、「ともいきのきずな」である。この宇宙的規模での連環の構造は、現在の素粒子論や生命論や生態学、動物行動学、認知科学、脳神経科学。「心の理論」などの発達により、きわめて明らかなものとなりつつある。」

「このように精神革命と科学革命との間に「宇宙関連」という共通事項を導入することにより、この両者の対立面、つまり「宗教」と「科学」の長い根本的対立拮抗をのりこえようというのが(…)目指すところで、これは筆者が最近たどりついたアイデアなのである。」

「宗教と科学の関係については、前者は「この世界でいかに生きるべきか」を問題とし、後者は「世界がいかにあるか」を研究するものであるとされる。しかも科学が「世界がいかにあるか」を研究するとき、価値中立で客観的であると云われる。たしかに科学は一人よがりのものではなく、他の科学者と成果を分け合う客観的なものであり、やがて人々の間に共有される。しかしその研究はまったく価値中立的であろうか。科学者が自らの研究対象を選択し、その分析に向かうとき、その営為に「価値」を見出す主体的関心が必ずあるはずである。それはその研究に意義ありとするその人の「生き方」と無縁ではあり得ない(これがずれると原爆などがつくられる)。
 逆に「いかに生きるべきか」を問う宗教の側は、「この世界がいかにあるか」ということと離れてあり得ないであろう。たんに従来の伝統的信条「ドグマ」をかたくなに墨守して、現実の在り方などまったく無縁とするような信仰は、真に力あるものとはならないであろう。
 したがって「世界はいかにあるか」という問題と「世界をいかに生きるか」という課題は決して無関係ではない(…)。」

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