岩切正一郎「文字の渚」〜第1回「錬金術」(春秋社のwebマガジン「はるとあき」)/『ボードレール全詩集〈1〉悪の華、漂着物、新・悪の華』
☆mediopos-3020 2023.2.23
フランス文学研究者の岩切正一郎による
「文字の渚」という連載が
春秋社のwebマガジン「はるとあき」ではじまっている
その第1回は「錬金術」
若い頃に魔術や錬金術の本を読み耽っていたが
それ自体よりもむしろ
詩や小説や戯曲により惹かれていて
「ユング的な解釈を施された錬金術で、ちょうど卑金属が
特殊な錬成過程を経て貴金属へ変わるように、
卑しい魂は試練をくぐり抜けることによって高貴な魂になる、
という考えに共感していたのだ」という
物質的な金や金融の金は詐術として
魂を穢れたものにしてしまうところさえあり
魔術的なものへの耽溺は心の病にさえつながってしまうが
それを「魂の錬金術」としてとらえ
「詩という黄金」をつくるときには
その詩的言語の生成に深くかかわるものとなる
「錬金術はボードレールの詩のなかに出てくる」が
すでに黄金とされているイメージや言葉を
詩のなかに持ち込んでも
それはむしろ黄金を鉄に変えることにしかならない
「単なる価値の追認であり、常識の反復でしかない」
むしろ世間でつまらないとされている「泥」をこそ
黄金に換える新たな感性を誕生させること
それがボードレールの錬金術である
「卑しい泥のような現実から、詩という黄金をつくる」のだ
これは泥のなかからこそ蓮の花が生まれる
というような仏陀の悟りの世界とも似ているが
そこでは宗教的なものが陥りがちな道徳性ではなく
むしろ「悪」こそが「黄金」のための契機ともなり得る
悪人正機というよりは
悪の詩的変容である「言葉の錬金術」であろう
「悪の華」である
■岩切正一郎「文字の渚」〜第1回「錬金術」(2023.02.01)
(春秋社のwebマガジン「はるとあき」より)
■シャルル ボードレール(阿部良雄訳)
『ボードレール全詩集〈1〉悪の華、漂着物、新・悪の華』
(ちくま文庫 筑摩書房 1998/4)
(「岩切正一郎「文字の渚」〜第1回「錬金術」」より)
「0
アートのなかでも、言葉のアートにおける変形について、あれこれ考えてみたいと思う。」
「1
錬金術的な作用を、私は二十代の始めからアートの中心に置いてきた。」
「2
種村季弘『悪魔礼拝』、『黒い錬金術』、ベルヌーリ『錬金術・タロットと愚者の旅』(種村訳)、Frances Yates, Giordano Bruno and the Hermetic Tradition(イエイツ『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』)、ヘルメス叢書(『賢者の術概要』、他)。Haziel, Le Grand Livre de Cabale Magique(アズィエル『魔術的カバラの大いなる書』)はパリのサン=ジャック通りにあるオカルト専門書店で買った本。エリファス・レヴィ(Eliphas Lévi)のHistoire de la magie(『魔術の歴史』)やドナト教授(Professeur Donato)のCours pratique de magie(『魔術・実践コース』)…… こうした本が私の研究室の本棚に静かに並んでいる。
*
若い頃、私は魔術や錬金術の本を耽読していた。私と同世代の若者には特に珍しいことではなかったと思う。時代の風潮がそうだったのだ。」
「けれども、私は詩や小説や戯曲により惹かれていた。」
「それに比べれば、魔術や錬金術は、それ自体としては、自分の魂にほんとうの満足を与えてくれるものではなさそうだということが次第に分かってきた。私の興味を惹いていたのは、せんじ詰めれば、ユング的な解釈を施された錬金術で、ちょうど卑金属が特殊な錬成過程を経て貴金属へ変わるように、卑しい魂は試練をくぐり抜けることによって高貴な魂になる、という考えに共感していたのだ。種村氏が、『黒い錬金術』の冒頭で定義する、錬金術、「一口にいえば、それは黄金を人工的に作り出すための「哲学」である」、その「哲学」を自分の思考の中へエッセンスとして採り入れたあとは、王を食べる狼や、火のドラゴンや、塩のように白い切断された四肢、といったイメージに含まれる象徴的な意味をいくら覚えたところで、そこにあるのはただ知的な愉悦の他にはないように感じられた。」
「3
錬金術という言葉の日本語での初出は、辞典によると、どうやらサミュエル・スマイルズ著、中村正直訳の『西国立志編』であるらしい。その第三編の三、「ベットガーのこと」の章に、化学を好んだドイツ人ベットガーが、「尋常の金類を化して黄金となさんと欲し」て、これに心を注ぐこと数年、「みずから錬金術を看みいだせりと偽り」、師を欺いた、と書いてある。この第三編は、タイトルが「陶工三大家」で、このいかさま師ベットガーは、有為転変ののち、プロシャのフリードリヒ一世のもとで、粘土を化して磁器をなす者となり、白磁で国を富ました。ただし国王から金銀は与えられたが自由を奪われ、最後は酒に溺れ、三十五歳という若さで死んだ。「あたかも犬を遇するがごと」く、墓に葬られた、とある。
錬金術は、物質界や金融界に入り込めばいかがわしい詐術になるが、こと秘儀参入につながるような精神的な次元のことがらを考える際にはとても興味深い体系である。そしてアート、とりわけ、詩的言語について考え、あるいは詩的言語を作ろうとするときには、そのオペレーションを基礎づける強力な原理となる。」
「錬金術はボードレールの詩のなかに出てくる。
ボードレールは、卑しい泥のような現実から、詩という黄金をつくる。そのアーティスティックでポエティックな操作こそ錬金術に他ならない。振り返ってみれば、錬金術を知的な愉悦の素もとのようにしか感じなくなってしまった私が、それでも懐かしい気持ちでその語を舌にのせるのは、詩人のつくった詩句の響きと美的に結びついているからなのだろう。
ボードレールは、パリの街に「施療院、売春窟、煉獄、地獄、徒刑場」を見、そこに「法外なものが花のように咲く」のを見つつ、パリへ語りかける。
きみは私にきみの泥をくれた、私はそれを黄金にした。
(『悪の華』第二版のエピローグ草稿)
あるいは、『悪の華』草稿の断片にこう書いている。
私は泥をこね、それを黄金にした。
(…)
錬金術の守護神はヘルメス・トリスメギストゥス(三倍(=限りなく)偉大なヘルメス)なのだが、ボードレールの詩の世界では、サタンがトリスメギストゥスとして登場する。
悪の枕元にはサタン・トリスメギストゥス
うっとりしたわれらの精神を長ながとあやしてくれる。
ひとの意欲は貴重な金属、だがそれも
この学識ある化学者によってすっかり蒸発してしまう。
ボードレールの錬金術では、泥を黄金へ換えることもあれば、貴金属を蒸発させてしまうこともあり、さらにはせっかくの黄金を鉄に変えてしまったりもする。その名も「苦悩の錬金術」という詩にはこう書かれている。
自分の熱情できみを照らす者がいる、
きみのなかで自分の喪に服す者もいる、〈自然〉よ!
いっぽうに向かっては「埋葬!」という者が
ほかの者に向かっては「人生と輝き!」という。
未知のヘルメス、ぼくに連れ添い
いつもぼくを臆病にした、
おまえのせいでぼくはミダス王にそっくりだ、
錬金術師のなかでもいちばん悲しい王様。
おまえのせいでぼくは黄金を鉄にかえる、
天国を地獄に。
雲の経帷子きょうかたびらのなかに
ぼくは愛いとしい屍しかばねをみつける、
そうして天の岸辺に
大きな石棺を築く。
(『悪の華』、「苦悩の錬金術」)
せっかくの素晴らしいものも、自分が触れるといつも壊れたりダメになったりして、だんだん自分が嫌になってくる人はいないだろうか。あるいは、自分で自分が嫌いなばっかりに、手に触れる物にもその嫌悪感を投影して、物を毀損してしまうことはないだろうか。十代の頃、私は大いにそうだった。
おまえのせいでぼくは黄金を鉄にかえる
『悪の華』を読み始めた頃、たぶん私は、そんな自分に重ね合わせてその詩句を読んでいた。そのうちに次第に気付き始めた。自分が嫌なとき、好ましいものの基準は他人のなかにある。自分を高める価値として他人の黄金をそのまま自分の人生のなかへ持ち込もうとしているに過ぎない。 けれど、自分がすべきことはそんなことではない。
私は泥をこね、それを黄金にした。
この表現を知ったとき、黄金を鉄にかえることの意味も変化した。そしてその時から、相反するこのふたつの詩句は、言葉の芸術的な使用における私にとっての原理となった。世間ですでに黄金として認められているイメージや語を、その制定された価値にもたれかかったまま、黄金として詩のなかへ持ち込んでも、そこには何の新しさもなければ、驚きもない。そこにあるのは、単なる価値の追認であり、常識の反復でしかない。人生や自然を苦悩や死の側から見れば、世間で賞賛されている輝きは黒く冷たい味気なさに変貌してしまうのだし、他方、世間ではつまらないと思われているものを、詩人は生まれながらの感性に満ちた自分のアートのなかで変化させ、新しい美しさと新しい価値へと作り替えることができる。新しい感性の誕生。それを「黄金」という決まり切った言葉でしか言えないところに限界があるような気はしたが、手垢にまみれた黄金« or »という語自体に、それまで知らなかった、深みへと開かれた底光りのする音色が響き、すでに私の魂に食い込んでいた。」
◎岩切 正一郎
フランス文学研究者・戯曲翻訳家・詩人。著書に『さなぎとイマーゴ:ボードレールの詩学』(書肆心水)他。詩集に『La Citrondelle』(らんか社)他。書籍化されている戯曲翻訳に、アヌイ『ひばり』、カミュ『カリギュラ』、ジロドゥ『トロイ戦争は起こらない』(いずれもハヤカワ演劇文庫)他。日本を代表する演出家が手がける多くの舞台で戯曲翻訳を担当している。国際基督教大学教授。現在、学長。