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ラ・ロシュフコー『箴言集』/堀田善衛『ラ・ロシュフーコー公爵傳説』

☆mediopos3207  2023.8.29

古代ギリシアの賢人によって
デルフォイのアポロン神殿に奉納された
「汝自身を知れ」という箴言がある

外に向けられた目を
みずからに向けよといった意味で
秘儀的な意味合いも深いが

同じ「箴言」でも
ラ・ロシュフコーの「箴言」は
まったく色合いを異にしている

ラ・ロシュフコーは
激動の一七世紀フランスを生き抜いた
伯爵にしてモラリストで
その「箴言」は
「神」から自立した近代人の抱える
「自己愛」をとことん見据えたものである

そしてある意味で
その「自己愛」への視線もまた
人間中心主義へとシフトした
「汝自身を知れ」ということでもある

そしてそれはみずからをふくんだ
深い人間観察(観照)につながっている

数年前あらたに武藤剛史により訳された
『箴言集』の「解説」で鹿島茂は
「『箴言集』は、底意地の悪い人間と
自覚した私のバイブルとな」ったと書いているが
(それは「おぬしも、ワルよのう」という
セリフに要約されるというが)

じぶんが「底意地の悪い人間」である
そう自覚することもまた
「汝自身を知る」ことのひとつにほかならない

つまり「自己愛」からは決して逃れられない
人間の有り態の姿を見据えることができて
はじめて「人間」がはじまるといってもいい

堀田善衛『ラ・ロシュフーコー公爵傳説』では
「仮面を剥いだ、真実の人間の面貌は、
むしろわれわれをして恐怖戦慄させるほどの
ものであったのだ。自己愛がそれであった」とあるが

近代以降の人間は
この「自己愛」に「恐怖戦慄」することから
はじめなければならない
それはみずからの無自覚な「仮面」のなかの顔
見えない深淵を覗き込むことでもある

ある意味でその「恐怖戦慄」こそが
近代的なイニシエーションでもあり
「意識魂」の準備でもあるのだといえる

逆にいえば昨今のSNS等でみられる
みずからをふりかえらない批判的な言葉等は
そうしたイニシエーションを通過し得ないで
「自己愛」の迷路を彷徨う自我にほかならない

■ラ・ロシュフコー(武藤剛史訳)『箴言集』(講談社学術文庫 2019/7)
■堀田善衛『ラ・ロシュフーコー公爵傳説』(集英社 1998/4)

(ラ・ロシュフコー『箴言集』〜「道徳的考察」より)

「1 われわれが美徳と思っていることも、じっさいには、さまざまな行為とさまざまな欲得がないまぜになったものにすぎない場合が多い。ただ、運によって、あるいはわれわれがうまく立ち回ることによって、それがたまたま美徳に見えているだけのことである。そんなわけで、男が勇敢そうにふるまっても、かならずしも勇敢だからではないし、女が貞淑そうにふるまっても、かならずしも貞淑だからではない。」

「2 自己愛こそ、おべっか使いの最たるものである。」

「3 自己愛の国では、すでにどれほど多くのことが発見されているとしても、まだまだ多くの未知の土地が残されている。」

「4 自己愛は、どんなに賢い人間よりもさらに賢い。」

「13 われわれの自己愛にとっては、自分の意見を非難されるよりも、自分の趣味をかなされるほうがいっそう耐えがたい。」

「22 哲学は過去および未来の悪には苦もなく打ち勝つ。しかし現在の悪は哲学に打ち勝つ。」

「26 太陽をじっと見つめることはできない。死もそのとおり。」

「31 もしわれわれ自身に欠点がまったくなかったならば。他人の欠点をあげつらうことに、あれほど大きな喜びを覚えるはずはあるまい。」

「49 人は誰も、当人が想像するほど、幸福でもなければ不幸でもない。」

「64 真実はこの社会に、真実のまがいものが害をもたらすほどには、益をもたらさない。」

「102 知性はいつも心に騙される。」

「103 自分の知性を知っている人の誰もが、自分の心を知っているとはかぎらない。」

「121 人がよいことをするのは、多くの場合、罰せられずに悪いことができるようになるためである。」

「132 自分に対して賢明であることよりも、他人に対して賢明であることのほうが、むしろたやすい。」

「237 誰であれ、悪人になるだけの強さを持たない人間の善意など、少しも褒めるに値しない。そんな人間の善意とは、たいていの場合、怠惰や無気力以外の何ものでもないのだ。」

「386 自分は間違っていることに耐えられないという人間にかぎって、しばしば間違いをしでかす。」

「387 他人の虚栄が耐えがたく思われるのは、それがわれわれ自身の虚栄心を傷つけるからである。」

「451 頭のいい馬鹿ほど、始末の悪い馬鹿はいない。」

(ラ・ロシュフコー『箴言集』〜「削除された箴言」より)

「1 自己愛とは、自分自身を愛する愛、またすべてを自分のためにだけ愛する愛である。自己愛ゆえに、人はみずからを偶像のごとく崇拝するし、また運よくその手段が与えられるなら、自分以外の人間を暴君のように支配する。自己愛は、自分のそとではけっして落ち着かないし、たとえ自分以外の何かに心を留めるとしても、それはは花に止まる蜜蜂のように、それらから自分の利益をせしめようという魂胆からでしかない。自己愛が抱く欲望ほどに激しいものはなく、その目論見ほどに押し隠されたものはなく、そのふるまいほどに巧妙なものはない。(・・・)」

(ラ・ロシュフコー『箴言集』〜「さまざまな考察」より)

「XIII にせものについて
 人は皆、にせものである。ただし、どこがどうにせものなのかは、各人各様である。いつも自分でないものに見せかけようとしているにせもの人間がいる。当人はまじめなのだが、にせものに生まれついたせいで、自分自身を偽るだけでなく、物事をありのままに見ることもけっしてできないという人もいる。知性はまっとうだが、趣味がにせものだという人もいるし、知性がにせもので、趣味はある程度まっとうだという人もいる。趣味においても、知性においても、ぜんぜんにせものではないという人もいるが、きわめてまれである。というのも、一般的に言って、知性および趣味のどこにもまやかしがないという人間はほとんどいないからである。」

(ラ・ロシュフコー『箴言集』〜「訳者まえがき」より)

「『箴言集』の作者は、ロシュフーコー公爵フランソワ六世である。
 ラ・ロシュフコー家はフランス貴族のなかでも屈指の名門であったが、フランソワ六世(一六一三−八〇)の時代には、封建大貴族の勢力と威信は衰えつつあった。ルイ十三世、ルイ十四世は、ともに幼くして即位したため、いずれの場合も母后が摂政となったが、その摂政母后を出し抜いて権勢を誇ったのが、地方の司教から成り上がったリシュリューと、イタリア出身で素性の知れぬマザランである。ふたりはともに宰相となり、強引に中央集権化を推し進めることになるが、それはそのまま封建大貴族の力をそぎ落とすこちょを意味し、やがてはルイ十四世の絶対王政に帰結する。」

「ラ・ロシュフコーはみずからの『箴言集』を反セネカの書であるとしている。セネカは、古代ローマのストア派を代表する哲人である・ルネサンス以降、フランスにおいても古代ギリシア・ローマの文学・思想はひとつの理想・規範とされてきたが、ラ・ロシュフコーはセネカ流の人間理性および意志への過信を批判し、揶揄している。(・・・)
 逆にラ・ロシュフコーが称揚するのは、セネカの克己主義、禁欲主義の対極に立つエピクロスである。ラ・ロシュフコーは「道徳において、セネカは偽善者であり、エピクロスは聖人だと思う」と言い、人間の弱さや惨めさをありのままに認め、自然かつ率直に生きることをよしとするエピクロスに強い共感を示す。」

「ラ・ロシュフコーがこうした人間観を抱くようになった根本理由はいったい何か、という疑問が残るだろう。彼が前半生に味わった失意、落胆、幻滅にその原因があるとされることが多いが、果たしてそうだろうか。たしかに彼の前半生は、失意、落胆、幻滅に満ちている。そうした苦い体験は、彼の人間洞察を深めたには違いないが、しかしそれによって、彼の人間認識が根本的に変わったとは思われない。彼の人間を見る目、そして自分自身を見る目は鋭く、個人的体験のいかんにかかわらず、神からの自立をとげ、人間中心主義を標榜する近代人の本質、本性を早くから見抜いていたと思われる。彼は、自分自身、そして自分の個人的ヌン姪さえも客観視できるだけの強靱な精神、心の余裕、ユーモアさえ備えており、だからこそ、彼の人間観察は現代にも通用する普遍性を獲得しているのである。」

(ラ・ロシュフコー『箴言集』〜「訳者あとがき」より)

「『箴言集』の最大のテーマが自己愛(amour-propre)であることは、誰が読んでも明らかであろう。
 もともと初版では、冒頭にラ・ロシュフコーが書いた箴言の中でも最大規模の箴言が掲げられていたふぁ、それはまさに自己愛についてのきわめて詳細な記述であった。
「自己愛とは、自分自身を愛する愛、またすべてを自分のためにだけ愛する愛である。自己愛ゆえに、人はみずからを偶像のごとく崇拝するし、また運よくその手段が与えられるなら、自分以外の人間を暴君のように支配する・・・・・・」」

「自己愛=「力への意志」をみずからの根本原理とする近代人、その延長としての現代人にとって、この世は万人が万人と闘う競争社会であるほかなく、そこでかろうじて平和が保たれているとしても、それはあくまで力の均衡のうえに立つ平和でしかない。現代社会のそうした事態は、すでにラ・ロシュフコーによって与件されている。」

(ラ・ロシュフコー『箴言集』〜鹿島茂「解説」より)

「私は二十歳のときに、ある種の偶然に導かれて大学でフランス文学を専攻し、以来、五十年近くフランス文学と付き合ってきましたが、その付き合いを言葉であえて表現すると。『水戸黄門』などのテレビ時代劇でしばしばつぶやかれる次のセリフに要約されます。
「おぬしも、ワルよのう」
 そう、フランス文学というのは。とことん底意地の悪い文学で、底意地の悪い著者が他者の心を底意地悪く分析し、さまざまな善良な仮面の下に隠された「悪」を白日のものにさらすのを本質としています。バルザックしかり、フロベールしかり、プルーストしかりです。したがって、心優しい善男善女は、フランス文学を読んではいけないのです。
 ところで、私は自分でも本当に底意地が悪い人間だと自覚していましたので、バルザックやフロベールやプルーストを知ったときには、まさしく「おぬしも、ワルやのう」と底意地の悪い連帯感を覚えたものです。
(・・・)
『箴言集』は、底意地の悪い人間と自覚した私のバイブルとなりましたが、しかし、このバイブルの本当に底意地の悪いところは、私がいま述べてきたようなことに対してもまた容赦なく底意地の悪い観察の眼を向けている点です。」

「「自己愛の柔軟さはたとえようもなく、その変貌ぶりは変身のすべてを上回り、その精緻さは化学のそれを上回る」
 つまり、自己愛はどんなものにも変身可能なので、外見だけでは絶対にそれを見抜くことは不可能です。美徳にも変身するし、悪徳にも変身します。ラ・ロシュフコーは、こうした怪盗を追いかける名刑事のごとく、あるいはジャン・ヴァルジャンを追跡するジャベール刑事のごとく、変身した自己愛の仮面を次々に暴いていきます。」

「自己愛こそは、人間の業そのものであり、これを滅ぼすことは不可能なのです。なぜなら、自己愛は自分で自分を滅ぼしても、別のところで自分を復活させるからです。自己愛はゾンビのように死んでも死なないのです。個々の人間が死んでも、自己愛は霊魂のように不滅であり、個々の人間を超えたところで復活するのです。」

「われわれ人類は、自己愛という超越的存在が次々に乗り換えていくビークル(乗り物)にすぎず、最初から最後まで自己愛に駆り立てられて一生を終えるというのに、そのことに気づきもしないのです。」

(堀田善衛『ラ・ロシュフーコー公爵傳説』〜「第二十一章」より)

「セネカは皇帝ネロから死を賜ったことでも有名であり、それが彼の倫理道徳論を一層権威づけるものともなっていたが、仔細に見てみれば矛盾だらけなのだ。第一にローマ一の美食家で資産家でもある彼が、どうして禁欲派、あるいはストア派の代表でありうるのかね? それからもう一つ、「哲学者はその言説を実行せず」と、哲学の草創期に早々と断言したのであった。
 先師ミシェル・ド・モンテーニュ殿はストア派を批判するにしても、やんわりとすべてを包み込むようにして、いわば総括的であったが、われわれ、デカルトやパスカルも含めていいかもしれないが、われわれにはもうそれだけの余裕がなかった。
 大多数の人間が、あたかも仮面劇のようにして種々様々な道徳的、あるいは精神的な仮面をかぶっている。その仮面を剥ぐ(démasquer)ことに急き込んだのであった。
 そして仮面を剥いだ、真実の人間の面貌は、むしろわれわれをして恐怖戦慄させるほどのものであったのだ。自己愛がそれであった。

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