奥野克巳「アニミズムに教わる 4. 往って、還ってくる」/小川隆「禅は「自己」をどう見てきたか 3. 360度の転換」(「トイ人」)
☆mediopos-3042 2023.3.17
アニミズムは「メビウスの帯」状の構造をもつ
表が裏につながり
裏が表につながる
イオマンテでも
カミの世界に送られたクマが
人間の世界に還ってくることを願う
こうした往還の考え方は
浄土に往生した人が再び穢土に還り
衆生を救うという
親鸞の「還相論」とも通じている
禅においても
「悟りおわらば、いまだ悟らざるに同じ」
という禅語があるように
行をして悟れば終わりではなく
悟りの世界からまた戻ってこなければならない
悟りがどういうものかはわからないけれど
たとえば悟りを「差取り」というふうに読み換えてみると
往と還
浄土と穢土
悟りと迷い
地上と天上
生と死
心と物
といった対極にあるように見えるものの
「差」を「取る」
ただ「取る」のではなく
「取る」ことによって「超える」
ということが重要なのではないか
「絶対矛盾的自己同一」という
西田幾多郎の用語があるが
それもまた「メビウスの帯」的な往還運動によって
矛盾を乗り越えることでもあるのだろう
その意味でいえば
ひとより偉くなったと勘違いして
「差」という意識をさらに拡大していく意識こそが
「迷い」の絶対化・極大化にほかならないともいえる
過剰な「承認欲求」もそのひとつであるように
■奥野克巳「アニミズムに教わる 4. 往って、還ってくる(2023.02.22)」
(「トイ人」の連載記事より)
■小川隆「禅は「自己」をどう見てきたか 3. 360度の転換(2018.06.13)」
(「トイ人」の連載記事より)
(奥野克巳「アニミズムに教わる 4. 往って、還ってくる」より)
「奥野/宮沢賢治に限らず、実は日本の文学はアニミズムの宝庫なんです。川上弘美の小説『蛇を踏む』では、蛇が人になってまた蛇に戻ったり、人が蛇の世界に誘われたりといった、人と動物が溶け合って入り乱れる世界が描かれています。それをアニミズムだと捉えるならば、アニミズムは「メビウスの帯」状の構造をもつものだと理解できます。
メビウスの帯は、表と裏が分離している輪っかとは違って、一つの面しかありません。表は裏につながり、裏は表につながっています。(…)
――往還ということでいうと、イオマンテでも、カミの世界(カムイモシリ)に送られたクマがまた人間の世界(アイヌモシリ)に還ってくることが願われるそうですね。
奥野/その通りです。アイヌの人たちにとって、クマはカミに他なりません。かれらはクマを殺して肉と毛皮をとるわけですが、イオマンテはそのクマの魂を人間の世界からカミの世界へと送る儀式です。この二つの世界もまたメビウスの帯のようにつながっているので、カミの世界に達したカミはやがてまたクマとなり、肉や毛皮といった「みやげ」を掲げてこちら側に還ってくるというわけです。
――クマからすると、ずいぶん人間に都合の良い解釈かもしれませんが、アイヌの人たちはそのような世界観によって自然界とのつながりを保ってきたわけですね。
奥野/私が非常に面白いと思うのは、この「往還」という考え方が仏教、特に浄土思想のイメージそのものである点です。親鸞の「還相(げんそう)論」では、阿弥陀仏の本願(=衆生を救いたいと願う仏菩薩の心)によって浄土に往生した人が、しかしそこに安住するのではなく、再び穢土(えど|現世のこと)に還ってきて衆生を救うとされます。この教えが、メビウスの帯的な往還運動を伴うアニミズムの、動態的な面を表しているように思うんです。
――なるほど。そういえば禅でも、修行をして悟れば終わりなのではなく、悟りの世界からまたこの迷いの(?)世界に戻ってこないといけないと、小川隆先生のインタビューで教えてもらいました。「悟りおわらば、いまだ悟らざるに同じ」という禅語があるそうです。
奥野/なるほど。仏教にはアニミズムの指南法とでもいうべきものが数多く含まれていると思います。私が日本で最も偉大なアニミズム論者だと思うのは岩田慶治(1922-2013)ですが、彼のアニミズム論は道元の『正法眼蔵』を手がかりにすることが多いようです。
その『正法眼蔵』の中の「山水経」は、「而今(にこん)の山水は、古仏の道現成なり」という一文から始まっています。「而今」というのは、過去と未来の影響下にある今この時のことであり、ここでの「道」は「言う」と意味です。つまりこの一文は「今この時の山や水は、仏が言葉として言い表したものである」という意味で、要するに自然とはお経そのものだと言っているんです。仏の教えに近づくには、自然の営みを知ることが重要だということでしょう。
――それで「山水経」なんですね。
奥野/もう一つ、これも「山水経」の中の「東山水上行(とうざんすいじょうこう)」のくだりで道元は、山が水の上を行くことを説いています。大きな山の下には水があり、水の上に世界があることを知るのが大事だと。世界に水があるだけでなく、水の中にも世界があり、さらには雲の中にも、生きものの中にも、あらゆる場所やモノの中に世界はあると理解すべきだという風に言っていて、これはまさにアニミズムです。
――ご著書によると、アニミズムを現象学的に展開したインゴルドは「石の中にいのちがあるのではなく、いのちの中に石があるのだ」ということを言っているそうですね。仏教でもよく、生きているのでなく生かされているのだということが言われるので、とても近いものを感じました。
奥野/インゴルドは仏教にはまったく言及していないのですが、彼の議論はとても仏教的なんです。いま言われた「いのちの中に石がある」というのもそうです。また、インゴルドの言う「関係論思考」は仏教の「縁起」そのものといってもいいほどですよ。
――面白いですね。縁起というのは、すべての物事はそれ単体であるのではなく、他の物事との関係によって成り立っているという考えですが、言われてみると、ここまでのお話とも深いところでつながっているように思います。」
(小川隆「禅は「自己」をどう見てきたか 3. 360度の転換」より)
「――坐禅から問答になって、最終的に公案へ。でも、それによって悟りが均質的なものになってしまったとも書かれていますね。
小川/それは僕の考えではなく、大拙博士(編注:鈴木大拙)が何度も書いておられることですけど、公案の功罪っていうのかな……。
唐代の禅っていうのは、偶発的な、自然発生的な問答によって悟る。悟れるかどうかは、本人の資質と偶然のきっかけに依っている。たとえるなら、職人になりたい人が親方の下で徒弟奉公するみたいな感じ。技は習うもんじゃなくて盗むもんだ、とか言われて、叩かれたりしてるうちに、身に付く人は身に付くけど、駄目な人は駄目。
それが宋代になると公案という教材を使って、一種のカリキュラムに沿ってやるようになる。技術者養成の専門学校みたいな感じですね。手順通りにやっていけばある程度の確率で悟れるようになり、修了した人はみんなある水準までは行ける。その代わり天才が出なくなってしまったと。
――カリキュラム化されたことで、80点の僧侶がたくさん出るようになったってことですね。
小川/大拙博士は、公案ができたせいで悟りは人工的で小さなものになってしまった。しかし、もしも公案がなかったら禅はとっくに滅びていただろうと、愛憎相半ばみたいな感じで書いておられますね。
――なるほど、禅にも時代的な変化や分岐があったことがよく解りました。でも、そういう変化や分岐を捨象して、すごく簡単に言ってしまうと、悟りというのは、要するに、自己が仏であるということに気づくということでしょうか?
小川/そう考えられていたと思います。悟りによって何かが加わったり、何かが変わったりはしない。本来仏であるという活きた事実に目覚め、そこに立ち返る、ただ、それだけでしょう。
(…)
禅の悟りってそういうものだったんじゃないでしょうか。悟ることによって何かが加わるとか、足されるとかじゃなく、元から何も加える必要がない、十全であるという「事実」に気づく。だから、気づいちゃったら、気づく前と同じ。
――その気づくための手法が、時代によって変わってきたと。
そう。
――手法はともかく、最後はありのままで仏だということに気づくんですね?
小川/(…)そこで「ありのまま」ってつけちゃうと、ちょっとまずい。(…)でも、それだけじゃない。「ありのまま」で仏だったら何もしなくていいや、という人がたくさん出てくる。それに憤った人たちが、「ありのまま」じゃダメだということを強く打ち出すようになる。
でも、馬祖の弟子の中から馬祖禅に対する批判が出てきたように、石頭の門下からもやっぱり石頭禅に対する批判が出てきます。二にして一、一にして二なんていうややこしい考えに内向しているうちに、活き活きと現実にはたらき出る生命力を失っているんじゃないかと。洞山にも師事したことのある巌頭(がんとう)という禅僧は、洞山の真価を認めながらも、こう言っています――洞山はりっぱな仏だけど、ただ、光が無い。禅の思想史は「ありのままに生きる」という考え方と「ありのままを超える」という考え、その二本の対立軸の間を往復しつづけた歴史だったと思います。
――宋代になっても、そうなんですか?
小川/ええ、そうだと思います。ただ、宋代には、円環の論理によって両者を包摂する、整合的な説明が与えられるようにはなりましたが。
――「円環の論理」と言いますと?
小川/「悟りおわらば、いまだ悟らざるに同じ」という禅語があります。悟ってしまったら、悟る前と同じだったと。少し前に「人生が360度変わるな」っていう新聞のコマーシャルがありましたけど、禅ってあれなんですよ。0度の「ありのまま」を突破して一切は空だと悟る。「ありのまま」を超えて、世界観を180度反転する。しかし、それをさらに打破し、さらに180度反転する。すると、結局「ありのまま」にもどる。つまり、世界観を360度転換するんです。
――0度の「ありのまま」でなく、360度の「ありのまま」ということですね?
小川/ええ、有名な『十牛図』は、この宋代禅の円環の論理を視覚化したものにほかなりません。むろん、そういう考え自体は、さきほどの石頭の話のように、唐代から潜在的にはあった。宋代にそれが、整合的なひとつの図式として可視化されたってことかな。(…)
――歴史上にいろいろな「悟り」の形があったということは解りましたが、じゃあ、けっきょくのところ、どれが禅の究極の「悟り」だったんでしょう?
小川/またまた言葉尻にこだわるようで申し訳ないけど、「究極」っていうのも、違うような気がします。禅の悟りにはゴールがない。ゴールだと思ってそこに居つくのではなく、次のものによってそれを乗り越え続けないといけない。悟りというのは到達点じゃなくて、永遠の運動なんじゃないかと思います。自己を根拠に真理をのりこえ、真理を根拠に自己をのりこえてゆく……。あくまでも、禅の古典を読んでの感想にすぎませんけど。
悟りとは何かってことが気になるのは、当然だと思います。でも、禅者にとって重要だったのは、必ずしもそこではありませんでした。昔の語録を読んでゆくと、いかにして悟ったかということと、同等か、あるいはそれ以上の重みで、悟っちゃった後、いかに悟りを忘れ去って普通に生きてゆくかって問題が、大まじめに追及されているんです。
――えっ、 そうなんですか?
小川/ええ、悟ったことはおろか、修行もしたことのないぼくなんかには、とても共感も実感もしようがない問題意識ですけど……。でも、昨年、鎌倉円覚寺の横田南嶺老師の講演をうかがう機会があったんです。「如来禅と祖師禅」というテーマでした。たいへん精緻なお話でしたが、その趣旨を自分勝手に乱暴に単純化してしまうと、悟っているのが「如来禅」、悟りを脱ぎ捨て、踏み越えてゆくのが「祖師禅」だということだと思いました。
そのときの老師のお話とお姿から、ぼくも感じたんです。ほんとうに身をもって道を修めている人にとっては、悟りを忘れ去るとか「悟り」を踏み越えてゆくいうことが、ほんとうに切実な現実問題なんだなって。
――うーん、それは、どんな感じなんでしょうね? 悟りすら忘れ去るということは、頭や心の中に何も無くなるということなんでしょうか?
小川/いや、悟ったことがないので何とも言えませんが、禅の語録で見る限り、その逆じゃないかと思います。
――逆といいますと?
小川/たとえば、さきほどお話しした洞山。川を歩いていて、二にして一、一にして二、という自己を悟った。そこで顔色がさっと変わって、からからと大笑いしだした。いっしょにいた兄弟子がビックリして、どうしたんだってきく。すると洞山は、亡くなった老師の教えが、今やっと分かりました、と言う。そこで兄弟子が迫るんです、悟ったのなら、ここで一句言え、と。洞山はそこで偈(げ)を詠んだというのです。
――洞山が本当に悟ったかどうか、兄弟子がテストしたってことですか。
小川/というより、自己完結しないようにってことじゃないかな。言葉にするということは、どうしたって、現実の世界の問題になる。さっきの運動の話にもつながるけど、悟りの世界に居つくことを許さないという意味があるんだと思います。
――行ったままじゃなくて、ちゃんと戻ってこいと。
小川/戻ってくると、現実のもろもろの事物の制約を受ける。だけど、そこをこそ生きていかないと駄目なんだってことじゃないかと思う。
――それはちょっとわかる気がします。
小川/その洞山の師匠が雲巌(うんがん)っていう人なんだけど、洞山が老師になった後に、弟子がきくんです、「雲巌老師は悟っていたんでしょうか」って。伝記には雲巌は悟ってなかったという話があるから、それをふまえての質問でしょう。すると洞山は、「悟っていなければあのように言えたはずがない」と言うんです。
――悟っていなければ、わしに真実を示せたはずがない、というわけですね?
小川/そう。でも、それだけで終わらない。それから、また、こう言うんです。「悟ってしまっていたら、あのように言ってくれたはずがない」と。つまり、悟りの世界を知らなければ真実は言えない。でも、悟りの世界に行ったきりだったら、真実を言葉にしてはくれなかったはずだって。一句言えっていうのも、そういうことを要求してるんじゃないかと思います。」
■奥野克巳「アニミズムに教わる 4. 往って、還ってくる(2023.02.22)」
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■小川隆「禅は「自己」をどう見てきたか 3. 360度の転換(2018.06.13)」
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