ユハニ・パッラスマー『建築と触覚/空間と五感をめぐる哲学』
☆mediopos3317 2023.12.17
私たちの知覚においては
現在あまりにも「視覚」が支配的となっている
視覚中心主義である
他の感覚
触覚・聴覚・味覚・嗅覚の四つの感覚は
(シュタイナー的には十二感覚)
むしろ自己と世界を結びつけるものであるのに対し
視覚つまり「眼」の支配は
西洋における自我意識の発達とともに
自己と世界を隔て切り離してしまう
ユハニ・パッラスマーの著書『建築と触覚』では
建築とはほんらい
感覚を統合することによって
わたしたちと世界を結びつけるものであるという
建築は「人間の尺度と秩序感覚を、
計り知ることのできない無秩序な自然の空間へと投影し」
「私たちがこの世界に存在している経験を明確にし、
現実と自己の感覚を強めるもの」で
その精神的役割はそうした「受容と統合」であり
そのための「生を力づける」建築は、
「全感覚に一度に働きかけねばならず、
世界の経験に自己のイメージを溶け込ませる
後押しをしなければならない」のである
そうすることで
「世界と私たち自身、過去と現在と未来、人の集まりと個人、
そして物質的なものと精神的なものとの間を取り持つ」
という「建築の詩的な本質を探る」試みが必要だという
いうまでもなくこの試みは
建築にかぎるものではないだろう
現在あらゆる領域で
視覚中心主義が支配的となっているなかで
「身体論」がクローズアップされることも多くなっているが
それは私たちが世界と関わっているすべての感覚を
統合していく必要があるということだともいえる
そしてそれはAI的なものでは補完できない
それぞれの感覚は
個別で働いているようにみえても
実際は互いに連携し切り離されてはいない
いわゆる「共感覚」というのも
それが特化してあらわれているものだろう
視覚にしてもそのほんらいは触覚がその根底にあるように
どんな感覚もほかの感覚と切り離されてはいない
ひとつの感覚の奥には他の感覚が潜んでいる
すべての感覚を統合することで
「物質的なものと精神的なものとの間を取り持つ」ことこそ
「ポエジー」にほかならない
科学も哲学もそんなポエジーをこそ必要としている
■ユハニ・パッラスマー(百合田香織訳)
『建築と触覚/空間と五感をめぐる哲学』
(草思社 2022/12)
(「第一部 視覚と知識」より)
「私たちの世界への関わり方や知識観がいかに視覚中心主義のパラダイム————視覚の認識論上の優位————にあるかは、これまでにも哲学者たちによって明らかにされたが、建築の理解と実践における視覚の役割をほかの感覚と比較して批評的に探索することも重要だ。建築は、ほかのあらゆる芸術と同じく、空間・時間における人間の存在についての問いに根本から向きあう。世界における人間の存在を表現史、結びつけるものだ。また建築は、自己と世界、内面性と外面性、永続的な時間と期限のある期間、生と死といった形而上学の問いにも深く関わっている。」
(「第一部 視覚中心主義への批判」より)
「西洋思想における視覚中心主義の伝統と、その結果として生じる知識の観察者理論に対しては、今日の懸念が生じる以前から哲学者たちの間で批判がなされていた。」
「拡張され力を増した今日の眼は、物質と空間に深く浸透し、地球の両側を同時に見ることさえ可能にしている。空間と時間の経験は、スピード(デビッド・ハーヴェイじゃ「時間ー空間の圧縮」という観念を用いている)によって互いに溶け込み、結果的に私たちはこのふたつの次元のまぎれもない逆転現象————空間を時間的に位置づけ、時間を空間的に位置づける————を目の当たりにしている。この技術社会での驚くべきスピードに唯一ついていくことのできる速さをもつ感覚、それが視覚だ。だがその眼の世界によって、いよいよ私たちはスピードと同時性によって平坦化された「永遠の現在」に生きるはめになっている。」
(「第一部 ナルシストの眼とニヒリストの眼」より)
「優位に立っている眼は、あらゆる分野の文化的な創作物を支配しようとし、さらには私たちが世界に共感し、同情し、関与するのに必要な力を弱めているように思える。ナルシスティックな眼は、建築を単なる自己表現の手段とみなし、またきわめて重要な精神的・社会的つながりから切り離された知的で芸術的なゲームだとみている。一方でニヒリスティックな眼は、感覚的・詩神的な切り離しと阻害行為を意図的に推し進める。ニヒリスティックな建築は、身体中心の統合された世界の経験を強めるのではなく、身体を切り離して孤立させる。そして文化秩序を再編成しようとするどころか、全体的な意味を読み取れなくしてしう。そして世界は、快楽的だが意味のない視覚の旅になる。遠ざけ、引き離す性質をもつ視覚だけがニヒリスティックな態度を示しうる感覚なのは明らかだ。」
(「第一部 声の空間と視覚の空間」より)
「眼の支配のゆるやかな拡大は、西洋での自我意識の発達と、自己と世界の分離の段階的な広がりと同時進行してきたように思える。ほかの感覚は私たちと世界を結びつける一方で、視覚は私たちを世界と隔てるのだ。
芸術表現は、言語が生まれる以前からもたれれきた世界の意味、すなわち単に知性によって理解される対象ではなく、私たちが組み込まれ生きる世界の意味に取り組んでいる。(・・・)芸術と建築の役割もまた、分断のない内面世界の経験を再構成することだ。その世界では、私たちは単なる観客ではなく、切り離せない一部となる。芸術作品では、そうした世界と出合い、世界に身を置いてこそ存在の理解が生じる。概念化されたものでも知的に解釈するものでもない。」
(「第一部 網膜の建築、立体感の喪失」より)
「伝統文化の建築もまた、視覚や概念に支配されることなく、身体の暗黙知と本質的に結びついているのが明かだ。」
「最近まで、建築の理論と批評が取り扱ってきたのは、ほぼ例外なく視覚と視覚表現のメカニズムばかりだった。建築的な形態の近くや経験の分析は、圧倒的な頻度で近くに関するゲシュタルト法則によって行われてきた。教育理念も同様で、建築を主に視覚の観点から理解し、空間のなかに三次元の視覚イメージを構築するとに力を置いてきた。」
(「第一部 視覚イメージとしての建築」より)
「建築物は、立体的な造形感や、身体の言語や知恵とのつながりを失うにつれ、冷淡で距離のある視覚の領域へと孤立していく。人の身体、特に手のために巧みにつくられた触覚や尺度、ディテールが失われることで、建築物は平坦で鋭角になり、非物質的で非現実的なものになる。そうやって現実的な物質や制作から切り離された建築は、眼のための舞台装置になり、物質や構造に本物らしさを欠いた舞台美術になる。ヴァルター・ベンヤミンが本物の芸術作品に不可欠な資質であるとした「アウラ」の感覚、すなわち存在の権威は失われてしまった。手段化されたテクノロジーの産物となった建築物は、その建設過程が隠されて、命のない亡霊のように見える。」
(「第一部 物質性と時間」より)
「現在の建築では知的でコンセプチュアルな側面が過剰に強調され、それが建築の身体的、官能的、肉体的な本質の消失を引き起こしている。(・・・)
建築だけでなく現代文化全体が、人間の現実との関わりにおいて、距離感のある、ある種ぞっとするような脱官能、脱エロティシズムの方向へと押し流されている。絵画と彫刻ですら官能性を失いつつあるように思える。現代の芸術作品は、親密さの感覚を誘うのではなく、好奇心や喜びの感覚からは距離をおいた拒絶を示していることが多い。」
(「第一部 視覚と感覚の新たなバランス」より)
「おそらく、眼が暗にもつコントロールと権力への欲求から解き放たれた焦点の定まらない現代の視覚こそ、ふたたび視覚と思考の新たな領域を拓くことができる眼だ。」
「世界中の数多の建築家らが、物質性や触感、質感や重量、空間の密度や形ある光といった感覚を強め、建築をふたたび感覚的なものにしようと試みている。」
(「第二部 身体中心」より)
「感覚的経験は身体を通して統合される。いやむしろ、身体と人間の存在モードの構成そのものへと統合される。」
(「第二部 複数の感覚による経験」より)
「建築に関する経験では、いつも多感覚が同時にはたらく。空間の質や素材、規模を、眼、耳、鼻、肌、舌、骨格、筋肉が同時に判断するためだ。建築は実存的経験、つまる自身が世界の中に存在しているという感覚を強め、それは自己の経験の本質的な強まりでもある。建築は視覚、あるいは基本的な五感だけではなく、互いに作用し合い溶け合ういくつもの感覚的経験に影響を及ぼす。
心理学者ジェームズ・J・ギブソンは、感覚とは単に受動的に受け取るものではなく、積極的に求めるメカニズムであると考えた。そして五つの感覚を個別にとらえるではなく、視覚システム。聴覚システム、味覚ー嗅覚システム、基本的方向システム、触覚システムという五つの感覚システムに分類した。またシュタイナー哲学では、実のところ私たちは十二以上の感覚を用いているとされている。
眼はほかの諸感覚の延長————皮膚の特殊状態————にあるとみなすことができる。そうした諸感覚は、肌と環境との境界、言い換えれば身体という不透明な内部と世界という外部との境界を明確にする。」
「感覚は、知性による判断のための単なる情報の媒介役ではない。想像力に火をつけ、感覚的思考を明確にする手段でもある。あらゆる芸術は、特有の媒介作用を発揮し、感覚的に関与して、形而上学的・実存的な思考を精緻につくりこむ。(・・・)
建築も同じで、人間の身体や空間におけるその身体の動きをまるで反映しない、ただ純粋に思索的な建築などとても考えてみようがないだろう。」
(「第二部 陰影の重要性」より)
「眼が距離と分類の性格をもつ器官である一方、触覚は近くて親密な愛情の感覚だ。眼は探索し、制御し、調査するが、触覚は接近し愛撫する。」
「感覚の世界において、感覚刺激はより洗練された感覚から旧来の感覚へ、視覚から聴覚・触覚・嗅覚へ、そして光から影へと移っているように思える。人びとをコントロールしようとする文化は、相互作用とは逆の方向性を推し進めがちで、私的な個や一体感から離れて公的で距離のある孤立へと近づいていく。監視社会とは、のぞき趣味のあるサディスティックな眼をもつ社会であるのは間違いない。精神的苦痛を効果的に与える手法のひとつは、絶えず強い照明をあてて精神的な逃げ場やプライバシーの余地をなくすこと、自己の暗い内面性までもむき出しにして侵害することだ。」
(「第二部 聴覚の親密さ」より)
「視覚は切り離すが、音は包み込む、視覚は指向性をもつが、音は全方向が対象だ。視覚は外部性を意味するが、音は内部性の経験をつくりだす。私たちは何かを見るときは自分からそれを見るが、音は音のほうからこちらに近づいてくる。眼は対象めがけて進むが、耳は受けとる。」
(「第二部 静寂、時間、孤独」より)
「建築のつくり出す聴覚の経験のうち、もっとも重要なものは静寂だ。建築は、建設過程のドラマを静かな実体、空間、光へと変えて表現してみせる。突き詰めれば、建築とは静寂が効硬化してできた芸術だ。」
(「第二部 身体的同化」より)
「建築的経験の信頼性は、建築の構築的な言語と、諸感覚にとって建築という行為が理解しやすいことを前提にして成り立っている。私たちは自らの身体的存在のすべてでもって世界を眺め、触れ、聞き、測っているし、経験的世界は私たちの身体という中心を取り巻いて構築され統合されている。私たちにとって住まいとは、身体と記憶とアイデンティティの守られる場所だ。私たちは絶えず周囲の環境と対話し関わり合っている。自己のイメージを、自身の空間的・状況的存在を切り離すことなどとても不可能だろう。」
(「第二部 身体の模倣」より)
「建築のスケールの理解とは、無意識に自分の身体でもって対象物や建物を測り、その空間へと自分の身体図式を投影することだ。私たちは空間に共鳴していることに身体で気づくとき、喜びと保護の感覚を覚える。そしてある構造を経験するときには、骨格や筋肉でその構造を無意識的に模倣している。聞く人の心を躍らせるメロディーは潜在意識下で身体的感覚へと変換され、抽象画の構図は筋肉の緊張として経験され、建物の構造は無意識のうちに骨格によって模倣され理解される。」
(「第二部 建築の役割」より)
「建築のいつまでも変わることのない役割とは、世界における私たちの存在を実体化し構造化する、具体的に生きられる実存的メタファーをつくりだすことだ。建築は理想的な生活のアイデアろイメージを反映し、具象化し、永続させる。建物と都市によって、私たちは明確な形をもたない現実の流れを理解し記憶することができ、究極的には、私たちが何者なのか認識することができる。」
「忘れがたい建築の経験において、空間、材料、時間は、ある特別な要素、つまり存在という基礎となるものに溶け込んで、私たちの意識に浸透する。私たちは、その空間、その場所、その瞬間と同化し、そうした要素は私たちの存在そのものを構成していく。建築とは私たちと世界とを仲裁する述であり、その仲裁は諸感覚を通じて行われる。」
(ピーター・マッキース/ユハニ・パッラスマーとその功績について ドアハンドルとの握手」より)
「本書『建築と触覚』は、まるで建物の「握手」を差し出すドアハンドルのように、フィンランドの建築家で教育者、批評家であるユハニ・パッラスマーの手を握る機会を差し出す。彼といくつかの瞬間を分かち合うこともできる、まさしく「手のための」一冊だ。」
「(ユハニ・パッラスマーの)アプローチは、「エドムント・フッサールの『純粋な見方』という現象学の概念に一致するもので、画家が風景を見るように、詩人が特定の人間の経験に対して詩的なイメージを探し求めるように————建築家が実存敵に意味のある空間を想像するように————、無邪気で偏見のない現象と遭遇する」ものだと彼は言う。こうした実存主義への専心がパッラスマーの洞察の中心にある。」
「(パッラスマーの『建築と触覚』は)紀元前一世紀のウィトルウィウスにとってすら当たり前だったかもしれない建築教育を、刷新して活気づけようとしている。「教育」と「建築」ということばの意味そのものに内在する「詩学」をふたたび主張しているのだ。パッラスマーはこの詩的で究極的に楽観的な使命についてこのように力説する。
私たちはもっともすぐれた建築の特性について語るとき、教育者として「詩学」の概念をよく用いる。今日の建築物に広く見られる実用性と俗悪さを前にすると気取りすぎに聞こえるかもしれないが、私は建築の根源的な役割とは、世界と私たち自身、過去と現在と未来、人の集まりと個人、そして物質的なものと精神的なものとの間を取り持つことだと考えている。これは詩的な使命にほかならない。私たちの生きる環境が人間的な意味を失いつつあるなか、芸術と建築のやるべきことは、私たちと世界との関係をもう一度神話のように、官能的に、そしてエロティックにすることだ。そう、問題は生活の詩的な次元にある。私は、建築の詩的な本質を探ることを、空想的あるいは非現実的な試みなどとはとらえていない。むしろ必然としかいいようのないものだ。簡単に言って、人生から実存の奥深い歴史性や精神性への共感が失われたとき、人間性は失われる。建築は、世界と自身に対する私たちの理解を深めて保ちうるし、謙虚さと誇り、好奇心と楽観主義の土台となり得るのだ。
ドアハンドルであり、握手、会話、出会いである。それがこの『建築と触覚』という一冊だ。」
<目次より>
前書き 「薄氷」スティーヴン・ホール
序論 世界に触れる
第一部
視覚と知識
視覚中心主義への批判
ナルシストの眼とニヒリストの眼
声の空間と視覚の空間
網膜の建築、立体感の喪失
視覚イメージとしての建築
物質性と時間
「アルベルティの窓」の拒絶
視覚と感覚の新たなバランス
第二部
身体中心
複数の感覚による経験
陰影の重要性
聴覚の親密さ
静寂、時間、孤独
匂いの空間
触覚の形状
石の味
筋肉と骨のイメージ
行為のイメージ
身体的同化
身体の模倣
記憶と想像の空間
多感覚の建築
建築の役割
ピーター・マッキース/ユハニ・パッラスマーとその功績について ドアハンドルとの握手
□ユハニ・パッラスマー(Juhani Pallasmaa)
現代のフィンランドを代表する建築家、建築思想家。ヘルシンキ工芸大学学長、フィンランド建築博物館館長、ヘルシンキ工科大学建築学部教授・学部長を歴任。著作にThe Thinking Hand: The Thinking Hand: Existential and Embodied Wisdom in Architecture (John Wiley & Sons, 2009)、The Embodied Image: The Embodied Image: The Imagination and Imagery in Architecture (John Wiley & Sons, 2011)などがある。
□百合田 香織(ゆりた・かおり)
神戸大学大学院自然科学研究科博士前期課程修了。専攻は建築/建築史研究室。公務員として公共プロジェクトに従事し英国赴任同行を機に退職。建築を巡りつつ翻訳スクールに通い翻訳者として活動を始める。訳書『名建築は体験が9割』『名建築の歴史図鑑』『世界の夢の動物園』(以上、エクスナレッジ)、『配色デザインカラーパレット』(ビー・エヌ・エヌ)など。
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