徳橋達典『日本書紀の時間構造/未生已生の国常立尊と中今』
☆mediopos-3039 2023.3.14
時間について考えようとすると
かならず思い出してしまうのは
アウグスティヌスの言葉である
いったい時間とは何なのか
だれにも尋ねられないとき
私は知っているのに
尋ねられてそれを説明しようとすると
それを知らない
なぜだろうか
それはおそらく
時間は私たちの生であり意識そのものであり
対象化し得ないからなのではないだろうか
時間とともにあるとき
私はそれを生きているけれど
説明しようとするとき
私はそれから離れてしまう
ちなみに
そしてアウグスティヌスは
過去の事物の現在
現在の事物の現在
未来の事物の現在
という三つの時間があると示唆している
つまり時間とは「現在」において
働いているということだろう
さて本書『日本書紀の時間構造』は
西洋・東洋、中世・近代の時間論とも比較しながら
『日本書紀』に記された「古(いにしえ)」「未」「渾沌」
そして『続日本紀』宣命に謳われた「中今」の思想から
未だ来たらざる未来(未生)が一瞬の今を経て
古の過去(已生)に連なっていくという
時の移ろいについて考察したものである
「中今」とはなにか
それは「古からの流れが一瞬の今に帰結する
という今の強調であり、ただの今、真っ只中の今を意味する。」
中今の「今」とは過去と未来の境界にある一瞬であり
「現在進行中の一瞬の不連続が永遠に連続する今」が
強調されている表現である
本書ではそのことを手がかりに
「未生已生の〝国常立尊〟」が考察される
未生は未来
已生は過去であり
時間の前後関係としては
已生が前で未生が後だが
それとは逆に
古の混沌を含め国常立尊の化生を境界として
「国常立尊の化生以前が未生の国常立尊であり、
国常立尊の化生以後が已生の国常立尊である。」
「国常立尊の化生した一瞬は
未生と已生を分かつ境界であり」
「その一瞬の今は過去と未来を分かつ境界になる。」
そのことから「中今」をとらえるならば
それは「過去からの流れを一瞬の今に帰結させ、
未来を含意する今という現実を強調する言葉」であるといえる
そこで重要なのは
「中今」をただ「現在」としてとらえるのではなく
過去から今へ
未来から今へという
いわば生成されているまさに「今」として
とらえることだろう
この「中今」についてみていきながら
勝手にイメージしていたのは
「太陰大極図」という白黒の陰陽のマークである
「陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ず」ともいわれるが
陰を過去・陽を未来とイメージしながら
それがまさに「今」において生成されている・・・
私たちはそのように時間を生きているということもできる
そしてその時間を説明しようとすると
その「中今」から離れてしまうことになる
■徳橋達典『日本書紀の時間構造/未生已生の国常立尊と中今』
(ぺりかん社 2022/10)
(「はじめに」より)
「今は刻々移ろいでいく。かつての今は過去となり、つとに過ぎ去り古(いにしえ)になる。未だ見えざる未来の今も、やがて必ず古になる。直線的な時の流れを思い描くと、時は過去から未来へと、流れるものに思えるが、無量無辺の未来の端は、思う間もなく、一瞬の今現在の収斂されて、未来から寄せ来る今を乗り継いで、過去へ過去へと移ろいながら、古の混沌につらなっていく。そしてまた、その古は今に帰結し、未来を照らす。」
「『古事記』の〝稽古照今〟は古から今に帰結する時間構造である。ただし、時の流れは単線ではない。心願の未来の夢は瞬くうちに現実となり、その一瞬の今を経て、過去の栄光へと霞んでいく。これは未来から過去へと流れる時間構造である。また、『日本書紀』冒頭の「古天地未剖」〝古の天地が未だ分かれていなかった時〟には、帰結すべき今現在という視点が曖昧である。ただし、過去・現在・未来が同時に存在する四次元時空においては、今が無限に存在するため、今とは何時かが解らなくなる。したがって、人間が捉える時間は心象によって、その心持ちによって、融通無窮にして変幻自在に解釈できる。」
「本書では、日本最初の官選国史とされる『日本書紀』に記された「古」「未」「混沌」「牙(きざし)」を拠として未生已生の〝国常立尊〟を考察し、加えて、『続日本紀』宣命に謳われた〝中今〟の思想を手掛かりとして、未だ来たらざる未来が、一瞬の今を経て、古の過去に連なっていく時のうつろいを、照査した。」
(「第四章 中今」より)
「『日本書紀』冒頭部には、「古(過去)」や「未(未来)」という記述があっても、「今(現在)」という記述がない。しかし、『日本書紀』全体を通して見ると、「今」という言葉は数多く記されている。そこでは、「今」をどのように表現していたのだろうか。『日本書紀』第一巻と第二巻の神代巻に記された「今」には、おおむね三つの特色がある。その第一点は今現在という一瞬の今を強調する表現である。第二点は今より後、今以降など、今のなかに未来への流れを含む表現である。第三は今に至るまで、今以前など、今のなかに過去からの流れを含む表現である。」
「そこには、今という瞬間の強調もあるが、今のどれもが、今以上でも今以下でもない今を示している。ただし、不連続が連続する一瞬の今という言葉には、過去から未来に至る連続性という幅のあることを留意すべきである。特に、今のなかに過去からの流れを含む表現が際立っているのは、「至今」〝今に至るまで〟という今に帰結する言葉である。この「至今」は「中今」という言葉に触れるに当たって、踏まえておくべき術語といえる。」
「中今とは古からの流れが一瞬の今に帰結するという今の強調であり、ただの今、真っ只中の今を意味する。つまり、古から今に至る現実を直視し、未来に思いを寄せることでもある。ある種、極端に今を強調した稽古照今といえるのかも知れない。いうまでもなく、中今の今とは、古と未、あるいは、過去と未来の境界にある一瞬をいう。一方、中今の中とは、今を協調する修飾語である。したがって、現在進行中の一瞬の不連続が永遠に連続する今を、ただひたすらに強調したのが中今である。」
(「第五章 膨らんでいく中今論」より)
「未生の国常立尊とは、古の混沌に含まれた牙(きざし)でもあり、国常立尊が化生する以前の未活動の気を含む混沌を意味する。これらの気が活動をはじめ、陰陽の現象として交錯していくなかで、陽(乾道)の気のみをもって化生したのが国常立尊など三柱の神々である。この国常立尊化生の瞬間を境界として、それ以前を未生、それ以降を已生という。
未生已生の未生とは未だ生まれざるものであり、已生とは已に(既に)生まれているものである。これにより、未生と已生を単純に比較してみると。未生は未来で、已生は過去となる。このため、時間の前後関係は已生が前で、未生が後になる。しかし、未生已生論における未生と已生の時間の前後関係は、同じ時系列の直線上で語られるため、未生が前で、已生が後となる。たとえば、国常立尊の化生の瞬間を境界として、化生以前が未生の国常立尊であり、化生以後が已生の国常立尊となる。これにより、古の混沌と未生の国常立尊とは親和性が高いということになる。
(…)
古の混沌を含めて、ここに記された国常立尊の化生を境界として、国常立尊の化生以前が未生の国常立尊であり、国常立尊の化生以後が已生の国常立尊である。国常立尊の化生した一瞬は未生と已生を分かつ境界であり、その境界を一瞬の今として見なすことができるなら、その一瞬の今は過去と未来を分かつ境界になる。未来の予見は今に帰結し、瞬く間に古の過去に連なっていく。その一方で、過去から移ろう時の流れは今に帰結し、未来を予祝する・過去と未来が交錯する今を強調する言葉が「中今」である。ちなみに、中今の今とは体言である今を強調する連体修飾語である。」
「『続日本紀』宣命に記された「中今」とは、過去からの流れを一瞬の今に帰結させ、未来を含意する今という現実を協調する言葉なのである。」
〈目次〉
はじめに
第一章 永遠の今
西洋(キリスト教)の時間構造
アウグスティヌスの永遠の今
ニーチェの永遠回帰とエリアーデの永遠回帰の神話
東洋(仏教)の時間構造
永遠の今と矛盾的自己同一と一即多
一即多
第二章 古の渾沌
無からの始源
三次元と四次元
古の渾沌
牙をめぐる『日本書紀』冒頭の解釈と絶対観の不在
カプラの場と渾沌
第三章 吉川惟足による渾沌と国常立尊と未生已生論
中世神道思想と吉川惟足
国常立尊と理気
渾沌の理解
太極の認識
未生已生論
天人合一(神人合一)と天人唯一
古典伝承と形而上学的体系
シュレーディンガーの梵我一致と単一の意識
ジュルダーノ・ブルーノ
ロジャー・ペンローズ
第四章 中今
『日本書紀』に記された「今」
詔勅と宣命(崇神天皇の詔)
『続日本紀』宣命の中今とは
天之御中主神・天御中主尊
今を礼賛する『万葉集』の詠歌
時の流れを感傷する『古今和歌集』の詠歌
無窮と永遠
第五章 膨らんでいく中今論
膨らんでいく中今論 その一(記述学と規範学)
膨らんでいく中今論 その二(山田孝雄の膨張する中今論)
西田長男による山田孝雄批判
西田長男の検証における疑問
現代における今と中今
参考文献一覧
おわりに
◎徳橋達典(トクハシ・タツノリ)プロフィール
1964年、東京都生まれ。國學院大學大学院文学研究科博士課程修了。博士(神道学・國學院大學)。共同通信社ビジュアル報道局写真部次長を経て、現在、今尾神社禰宜・國學院大學兼任講師。専攻―神道学・神道史。著書・論文:『吉川神道思想の研究 吉川惟足の神代巻解釈をめぐって』(ぺりかん社)、『日本書紀の祈り 多様性と寛容』(ぺりかん社)、『日本書紀の系譜 いのちとつながり』(ぺりかん社)、「吉川惟足の葬祭論の一考察―保科正之の神葬祭をめぐって」(『神道宗教』193号)、「吉川惟足の神籬磐境の伝の要諦」(『神道宗教』219号)など。連載―「シリーズ 御祭神考」『あをがき(青垣)』(戸隠神社)。映画―黒澤明監督『夢』(ワーナー・ブラザース)で雅楽(楽箏)を演奏。