マルグリット・ユーネマン『黒板絵 ーシュタイナー・メソッド』
☆mediopos2729 2022.5.8
シュタイナーの黒板絵は
夜空に描かれた不思議な花火のようだ
その花火のかたちがたくさん遺され
展覧会さえ開かれ印刷物でも見ることができる
そしてかつての花火を想像してみることもできる
けれどその花火はもう生きてはいないから
それを作品のようにしてしまうと
死体を拝んでいるようなことにもなりかねない
かつての花火は
メソッド化されて伝わり
教育に使われもするようになっているが
メソッドはほんらいプロセスだから
そこからプロセスが失われないように
注意深くあり続けることが必要だ
ほんとうはどんな芸術も
そこからプロセスが失われ
作品化されると生きた力は失われている
それらを鑑賞できるのは
そのプロセスを想像力と創造力のなかで
復活させることができたときだけだ
さて
色の不思議だが
面白いことに
シアン・マゼンタ・イエローの
色の三原色を合わせると
黒になり
レッド・グリーン・ブルーの
光の三原色を合わせると
白になる
黒板絵の黒のなかから
色が生まれてくるプロセスは
光からのプロセスではない
闇からのプロセスだ
光は闇の黒から生まれ
そして黒板絵が消されるとき
また闇の黒へと還っていく
ゲーテが色彩論で
黒色は器官を休息状態にし
白色は器官を活動状態にする
というように
生きるということは
黒に色を描いていくようなことなのだろう
そこには還ってゆける黒という安らぎがある
色がなければ
生きているとはいえないけれど
色ばかりでは生に疲れてしまう
夜空は
闇にお星さまが瞬き
闇に抱かれて光る星のように
私たちは生きている
花火は
夜空に光のダンス
つかのま光に酔いしれ遊び
また夜空は闇へと還ってゆく
それらはデジタルな世界では
味わうことのできない
生と死のライブの世界だ
色彩を体験するということは
デジタルな体験ではない
言葉もまた色彩のダンスだ
そうしたプロセスを体験することそのものが
わたしたちがこうして生きていることにほかならない
■マルグリット・ユーネマン(井藤元・小木曽由佳 訳)
『黒板絵 ーシュタイナー・メソッド』
(イザラ書房 2022/3)
(「1.学童期の子どもが求めるもの」より)
「標準的な認知機能を獲得している人は、木や森や空といった言葉を聞けば、目を閉じていても、自分の内側に具象的なアイディアが浮かんでくるでしょう。それは、直接的な現実ではなく、以前見たものの再生です。言葉の持つこうしたイメージの要素を通して、授業の内容よりも、より抽象的な領域にふさわしい形に変わり、具象性を得ていきます。例えば、この年齢の読み書きのエポックでは、文字の具象的イメージを導入することによって、感情が引き起こされ、意思が引き起こされ、知性が呼び覚まされるのです。」
(「3.チョークの扱い方」より)
「ゲーテは、色彩論の第1章で、黒色と白色が眼に与える作用について考察し、次のような結論に至りました。
暗闇の代理である黒色は器官を休息状態にし、
光の代理である白色は器官を活動状態にする。
この観点を学校の場に向ければ、あのおなじみの黒い板、白色のチョークで綴る黒板の存在に行き当たるでしょう。たとえ黒板がまっさらの状態でも、それで生徒の眼に不安が生まれることはありません。そこへ明るい色の文字で言葉や文が現れると、形の要素がひときわ明確に際立って、ゲーテが述べたように、眼が「活動状態に」なるのです。
授業で色のチョークを用いる場合には、そうした両極性が、より柔らかな形で眼に作用します。黒板絵に触れて異なる色の印象が生まれると、より多くのものが生徒たちの精神や知覚に語りかけます。黄色を見ると、青色とは違った気分に変わる、といった具合です。」
(「5.数や文字の綴り方」より)
「ルドルフ・シュタイナーの教育論では、歯の生え替わりから性的成熟までの間は、全ての教科内容に生き生きとした具象性を持たせなければならないと言われます。」
(「6.文字 —— 母音と子音」より)
「シュタイナー教育では、4〜6週間にわたるフォルメン線描のエポックで、文字の学びに入る準備をします。子どもたちはこの間に、直線と曲線に慣れ親しんでいきます。線はそこから、三角形や正方形、円、楕円といった基本形へと発展していきます。」
「この基礎の体験が、後の文字のエポックへと引き継がれていきます。新しい課題の中で、今度は、線描の要素に「響き」という要素が加わります。すなわち、目に見えるものと、耳で聞こえるものを調和させる必要があるのです。」
(井藤元「訳者あとがき —— なぜ黒板でなければならないか:より )
「黒板の歴史は古い。コメニウスが著した世界初の絵入り教科書『世界図絵』(1658年)を読めば、350年以上も前の時点で、黒板とチョークが学校での学びを象徴する教具であったことがうかがえる。わが国で黒板が使用されるようになったのは1872年(明治5年)ごろ。」
「だが、現代においてその状況は変わりつつある。新型コロナウィルスの影響でICT機器の推進が図られ、オンライン授業の普及が進められる中、いまや黒板は学校教育において不可欠なものとは言い難くなっている。映像を投射するためのスクリーンとしても活用できるホワイトボードのほうが黒板よりも使い勝手が良いと考える教師は少なくないだろう。
では、黒板の役割は。スライドの画面共有やホワイトボード、電子黒板などで代替可能なのだろうか。シュタイナー教育の視点に立つならば、この問いんは即座に否と答えられる。」
「興味深いことにシュタイナー自身が講演の際に描いた黒板絵が弟子の手によって保存され、いまも残されている。その一部は、美しい図版として手に取ることができる(ワタリウム美術館監修・高橋巌訳『ルドルフ・シュタイナー 遺された黒板絵』筑摩書房、1996年、ワタリウム美術館監修・高橋巌訳『ルドルフ・シュタイナーの黒板絵』日東書院本社、2014年)。講演の際、シュタイナーが黒板状に描いた様々な文字や絵が保存され、それが図版にまとめられているのである。では、なぜ消される運命にあるはずの黒板絵が遺されているのか。
シュタイナーの弟子エマ・シュトレが、どうしても師の描いた板書を保存したいと考え、黒板の上に黒い大きな紙を貼り付け、その上に図柄を描くよう工夫したのである。こうした弟子のアイディアにより、1919年から1924年までの6年分、およそ1000枚の黒板絵が保存されることになった。(・・・)
シュタイナーはおそらく。自らが描いた黒板絵がのちに展覧会という場で大々的に発表されることを予想してはいなかっただろう。もともと芸術作品を制作するという意図で板書を行っておたわけではないのだから。」
「しかし、仮に形だけ保存しえたとしても、黒板絵を真の意味で保存することは不可能だ。図版や写真などで我々が目撃する黒板絵は。すでにできあがってしまったものであり、我々はそれらをいくら鑑賞しても、時間をさかのぼり、シュタイナーの講演の現場に立ち会うことはできない。完成品と向き合ったところで、黒板絵の立ち現れるプロセスそのものは決して味わえないのだ。(・・・)
このことはシュタイナー学校の黒板絵においても同様である。」
「黒板が黒地であるという事実にも目を向けるべきである。シュタイナーにとっては黒は他ならぬ「自由」を意味した。そのことは、彼の遺したノートのうちに書きとめられている。
「自由=黒」。
彼のメモは、白地にではなく、黒地のうえに多彩な色を描いてゆくことの重要性を示唆しているが、この点について『ルドルフ・シュタイナー全集』の監修をつとめてヴァルター・クグラーは次のように述べている。「黒は関連性をもたないが、関連づけのためのすべての可能性を内に含む唯一のものでもある。多分これが黒の中に潜む力だったのだ。
こうして黒地のうえに描き出された多種多様な色彩と出会う中で、子どもたちは自然の魂に出会うことになる。クグラーは続けて述べる。「黒板絵では、宇宙エネルギーと深い関係にある色彩の要素がここに加わる。色彩は、「自然の、全宇宙の魂である。私たちは色彩を共に体験することで、この魂に関与する(『色彩の本質』)」。」
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