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鈴木創士『芸術破綻論』

☆mediopos2748  2022.5.27

「芸術破綻論」というお題から
妄想をひろげてみる

世界はすでに
それが生まれたときから破綻している

言葉をかえれば
世界は調和的に閉じてはいない
あるいは完全なるものとしてつくられてはいない
それとも完全なものがより完全なものになろうとして
みずから破綻することを選んでいる

そもそも生成するということは
ある意味では破綻ゆえのものなのだ
破綻ゆえに種は育ちやがて実りまた種をつける

平均律といっても
十二音が調和的な音階になっているわけではなく
そこにはつねにズレがあり
オクターブは常に螺旋状に
上へ下へと無限に延びているように

可能なのはそのズレや破綻がないかのように
ふるまってみることなのだが
そのふるまいからはすでに
創造性は失われている
創造は破綻し得るほどに究めた先にあるからだ
そしてそこは
それが幸福なものかどうかはわからないが
自由に向かって開かれている

文学という営為があり
それに関わる人と営為を
わたしたちは目にすることができるのだが
そこに創造と破綻を見ることなくして
文学などというものは成立しえないことを知っている

文学だけにかぎらない
絵画や音楽や哲学においても
さらにいえば科学においても
そこに創造があるとき
それは世界において破綻を見出すことにつながる

そもそもの源にあるのは
おそらく「私は私である」という破綻だろう
エホバの名「私は私であるである」は
存在そのものが生成するためには
破綻が必要であることを暗示しているともいえる
ゆえにこの世界を創造したのは
デミウルゴスであるともされた

一なるものが
一なるものを超えて
(一なるものであることの矛盾的同一のもとにだが)
展開するということそものが
「私は私であるである」という名の
破綻的(に見える)展開にほかならないのだ
三位一体しかりである

■鈴木創士『芸術破綻論』
 (月曜社 2022/5)

「「破綻」はニーチェ的な問いでもある。思考は、それを鍛え上げれば上げるほど、あるいは例外的瞬間を享受すればするほど、小さな山崩れを起こすように、自らのうちに空隙をあけ、空白をつくり出すことがある。緑の山に禿げたように山肌がむき出しになっている一角があるのがここからも見える。たしかに思考はひとつの力であるが、思考が「自由」であり、若々しいものであるためには、このような「欠損」を芽生えのようにはじめから自らの隠れた構成的要素としていなければならない。ワーグナーについて、作品から作者へと遡って考えるなら、創作を駆り立てたものは充実ではなく欠乏であるとニーチェが述べるのは、そういう意味である。そうでなければ、実際、かくいう作品において思考が何らかの目標に達することはないだろう。

 人はそのような創作の空間のなかへ入ったとき、創造の充実、空間の充溢が自由への献身のように見えるのはおめでたい錯覚である。芸術家が商売人に見えるのはそういうときである。しかしたいした儲けはない。芸術のイメージが最後に発光して消える。そこで創作の可能性は汲み尽くされる。このようにそこには欠乏しかなかったのだから、思考は破綻の憂き目にあうことによってこそ、新たな自由を獲得する。思考はその意味で不貞であり、恐る恐る自分に近づき、それに触れ、それに驚愕し、それになろうとする。発狂する前のドイツの詩人ヘルダーリンが言うように、「君は生き、君は見て、君は驚く」。そう、君は思考した。だから君は驚愕したことになるのだ。思考に希望があるのは、いつも思考が思考の危機から逃れることができないからである。我々はずっとこの危機のなかにいた。我々はずっとこの危機と闘い、破れかぶれのままで、ある段階に達するとそれと踊ることもできた。芸術の歴史などというものがあるとすれば、それがどんな思考をともなっていようと、この隠れた戦いのあえかな顛末でしかないことをカフカのような作家はよく知っていたのである。

 本書では、音楽、数学、絵画、身体、映画、哲学の近傍をかすめて通過することになったが、私にとってそれらは何よりもまず文学の問いとして先在する。だがこの「文学」とはいったい何なのか、洋の東西を問わず、あまたの文学作品に接してみれば、文学の本質がその破綻にあることは明白である。たとえば文学の思考が、世界をめぐって、数学的統覚、哲学的直視、絵画的触知、音楽的内破、光学的懸隔、身体的包摂、感情的離接、等々と区別がつかず、あるいはそれらへと接近し、不慮の融合的遭遇を遂げ、そしてそのことによってある高次の否定性へと高まるのは、その思考がすでに破綻し、その基底に綻びがあり、その破れからこそ自らが出立しているからである。思考の危機はいつも文学に救いを求めたが、その伝聞によってすら文学はすでに破綻した己れの姿を示すことはできただけである。それはほとんど文学の矜持でさえある。

 文学の実在はそのひび割れた底のほうからこうして何かを放っている。放たれたものはいったい何だったのか。経験されたある種の思考の徴だったのか。思考にとって最後の問題はその実在、さらに実在そのものが何であるかを知ることだったが、我々は否定によってしかそのことを吟味できなかった。否定の否定などと言っても同じことである。たとえば我々は否定の否定をそのまた先にある現実的無限(実無限)を感覚的所与として生理的に理解することができない。それは最高位の知であるが、そこへと至る、眩暈を覚えるほどの知の段階などといっても、それら知的段階は既知の空間時間内部の覚知でしかない。しかもそれは「始まり」と「終わり」の間に挟まっている。したがってその大いなる否定は世界における我々のもつ人知の分解的組成の成り立ちをはなから否定する。その組成を、眼前にある無限の階層において図らずも同型をなすもののなかでは、学問的分析によって調べ上げることはできない。我々の直観はそう教えている。しかも我々は神ではない。だからこそ逆にこの否定性は新しい「世界」の身体を乖離的に表出することによって、世界自体をあらためて拒絶する好機をもつのである。それがまたとないチャンスなのだ。

 文学が、ある地点において、物言わぬ機械と同等なものになるのはそういうことである。だが文学が何であれ、文学がその地点から引き返し、いつもの常套手段にとどまる限り、今度は文学における思考自体が否定され、思考は最悪の意味で絶句するだろう。しかし思考もまた巧みに絶句することができるのだ。その意味では、否定性はそっくりそのまま新しい肯定の挙措に変わることがある。世界のなかでそれを目撃するのもまた我々である。触れてはならないものだった永久機械は壊れてしまい、物言わぬ機械がそれにとってかわる。良きにつけ悪しきにつけ、それが我々の現状である。我々の言う文学はその一形状というか、分解できないその歯車でしかないのだろうか。それは噛み合うもののない歯車である。だが歯車を滑らかなものにできる魔法の油などるはずがない。そればかりか、何も語らないのに言葉を生み出しているのだけれど、物言わぬ機械に耳を傾けることはおろか、はっきりと目にすることもできない。だがこの機械は思考によっ実在しているのである。」

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