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石井ゆかり「恋を語る言葉」(『現代思想 2021年9月号・特集=恋愛の現在』より)

☆mediopos-2483  2021.9.3

星占いという
女性雑誌に定番のコーナーに
寄せられる読者の言葉も
占う人の使う言葉も
時代にともなう感情の変化を
リアルに反映している

今回雑誌『現代思想』の特集
「<恋愛>の現在」で語られている
石井ゆかりの「恋」についての言葉は
そのリアルな変化をクールに伝えている

そしてそのクールさは
理論的に跡づけて考察する学者よりも
リアルで鋭くかつ深く
しかも魂に届いてくる

ここ一〇年ほどのあいだに
「恋愛」に関する意識は異なってきているようだ

かつては恋愛に関して寄せられる質問は
「恋をして辛い、苦しい」といった
「熱く濃密な悩み」が多かったのが
いまでは
「恋愛経験のない自分は、普通ではないのでしょうか」といった
「恋愛感情の吐露」のない質問が増えてきているという

ポイントはおそらく2つ

まず承認欲求
恋愛が人から認めてもらうためのものへと変わってきていること

恋愛が個人的なものではなく「社会的」な営みと化し
(かつての「世間的」なあり方とは異なっている)
「人からどう思われるか」
つまりは「社会的に認めてもらえるか」が問題となり
さらにいまでは結婚適齢期といった意識もずいぶん減って
「恋愛感情」の必要性?もなくなってきている

さらには言葉の貧困
「恋愛感情を語る言葉」が乏しくなってきていること

誰かを好きになる気持ちは自分だけものだけれど
「その「自分」は、様々な社会的事象の織物」でできている
そしてその気持ちも
世の中で使われている言葉で表現され
その言葉を使うことで感情を学んでいくのだが
「恋の感情を語る言葉」が貧しくなっているために
その感情を学ぶことができなくなってきているのだ

学校化社会では
教えられないものは学ばなくなる
学校で教えられない学びのなかで
使われ育てられてきた豊かな言葉があったのだが
それらが使われなくなってくると
その言葉で育てられていた感情も持てなくなる

とくに最近では理系的な言葉が重視され
豊かな表現や語彙がスポイルされる
性別やジェンダーなどへの意識化は進んでも
むしろそれらが言葉の「差異」を奪ってしまうようになる

個人的な感覚でいえば
(社会的な感覚からの影響がまるでないのもあって)
好きな相手もいないのに「結婚したい」が先にくるとか
そんなに好きでもないけれど結婚するとかいうことは
信じられないところもあったのだが

世の中はそんな素朴な感覚をはるかに超えて
「好き」という気持ちそのものが
「ことばのうえで、背を向けて」
「肉体を失った魂のように、空に消えてゆく」
そんな時代に向かっているらしい

筒井康隆の『残像に口紅を』という
文字がひとずつ失われてゆき
かつて表現できていたことが
表現ができなくなっていく話があったが

やがてはそのように
熱のない承認欲求だけがからまわりして
社会的に理解されやすい貧しい言葉
「感動をもらった/勇気をもらった」
「癒やされる」といった類いの言葉だけが
ロボットのように交わされるようになるのかもしれない

■石井ゆかり「恋を語る言葉」
 (『現代思想 2021年9月号
  特集=<恋愛>の現在/変わりゆく親密さのかたち』
  青土社 2021/8 所収)

(石井ゆかり「恋を語る言葉」より)

「雑誌等の星占いの記事には、必ずと言っていいほど、「恋愛運」がついている。雑誌『an-an』では毎年年末に占い特集号が出るが、そのタイトルはズバリ「愛と運命」だ。私も二〇年ほどライターとして商売をする中で、何度も「愛」について語ってきた。
 ただ、一〇年前と比べると、「恋愛運」「愛について」を編集者から要望される頻度や強度は、異なってきている。以前は「愛」を強く求められることがよくあったが、最近ではそれほど「愛」への熱を感じることはない。一つの理由として、読者の年齢があげられる。雑誌を購読する層がもはや、「恋に悩む」年齢ではなくなってきているのだ。若い世代のマジョリティからは、紙の雑誌を買う習慣が失われつつある。
 もちろん、年齢を重ねてからの恋愛というものは厳然と存在する。ただ、頭と心の全てを乗っ取られてぶんぶん振り回されるような、あの激しい恋愛感情は、やはり、一〇代から二〇代にもっとも脂がのるものだろう。あるいは、仕事を持ち家庭を持って、「もう恋愛は関係ない、卒業した」という声もよく聞かれる。もちろん、体質同様個人差はあるが、大きなニーズの塊にはならないということなのだろう。

 とはいえ、「恋愛」への熱が失われてきたのが「雑誌を購読する年齢層」だけの問題なのかというと、そこには疑問が残る。一五年以上執筆を続けているデジタルコンテンツ『石井ゆかりの星読み』では、毎月一名、個人占いを公開で行っていて、二〇代からの質問も寄せられる。そこには「恋愛」がらみの質問はちゃんとある。一定数以上ある。ただ、その内容は、不思議な透明感に包まれている。
 「好きという気持ちがわからない」「つきあってみても相手を好きになれない」「仕事と恋愛のバランスをとるにはどうすればいいか」「恋愛をしたいと思わないが、自分はおかしいのか」「これから恋愛をしたいと思うが、パートナーは見つかるか」「告白して拒絶されたが、この先もこうなのか」
 これらは抜粋ではなく「典型例」である。たくさんの読者がこうした表現を用いている。質問者が二〇代でも五〇代でも頻繁にみられる。これらの質問に共通しているのは、「恋愛感情の吐露」がほとんど含まれていない、という点だ。(・・・)
 一〇年以上前は「恋をして辛い、苦しい、彼はこっちをふり向いてくれますか」「復縁できますか」「この気持ちがどうしたらラクになりますか」といった、熱く濃密な悩みをよく見かけた。しかし今は、このような濃密な悩みはほとんど見ない。」

「恋愛は個人的な営為であるはずなのに、考えれば考えるほど、これほど「社会的」な営みもない。「恋愛経験のない自分は、普通ではないのでしょうか。どんな欠陥があるのでしょうか」という内容の占いの依頼も、最近よく見かける。」

「昨今では「インセル」という言葉も一般的になってきただ、「モテない」という、一見恋愛がらみとして見えない悩みが、実際は男性コミュニティの中の競争関係・排除関係の中に深く根を張っている、と本書(西井開『「非モテ」からはじめる男性学』)は言う。本書で扱っているのは「性自認が男性寄りの人々」ではあるが、このテーマは「性自認が女性寄りの人々」についても、通じるものがあるだろう。「一人前の人間かどうか」つまり「世の中で、一人の人間としてバカにされず、差別もされず、リスペクトしてもらえるか」「社会的に認めてもらえるか」という不安が、恋愛関係の裏側に、常にベース音のように流れているのだ。(・・・)
 ただ、その傾向は、ここ数十年のなかでだいぶ薄まってきている。特にたとえば二〇年前と比べて、「いきおくれ」を恥じる傾向はとても弱まっている。(・・・)
 占いにおいて「恋愛」についての濃厚な悩みが少なくなったことと、このことは、無関係ではないのかもしれない。「一人前の人間かどうか」の基準が「結婚・出産」に過集中していた時代には、多くの人が恋愛について熱く悩み、語った。今はその集中が(道半ばとはいえ)ほぐれつつあり、そこで、恋を語る言葉が全体として透明になりつつある、という解釈は、成り立ちうるだろうか。これはもちろん、私の想像にすぎない。」

「私たちは言葉がなければなにも考えられない。今は性も、恋愛も、すべてフラットに語ることが良しとされる。しかしフラットに語るとはどういうことか。言葉は「違い」「差異」についてしか語れない。「フラットに語る」とは、つまり、「語らない」ということになりはしないか。
 たとえば江戸時代の「恋」は、文字通り「死に至る病」だった。心中するか、恋煩いで死ぬか。恋は決して、社会的にめでたいことではなく、「道ならぬこと」だったのである。」

「恋愛感情を語る言葉がない。言葉がなければ、恋愛感情もない。もちろんこれは極論だ。たとえば「感動をもらった/勇気をもらった」「感動・勇気を与えたい」「心が折れる」「癒やされる」などの表現は、比較的新しいものだ。今ではだれもがこの表現を使うし、「意味が(本当に)理解できない」という人はわずかだろう。これらは「感情を語る」言葉だ。(・・・)誰かが言い始めた言葉が、人口に膾炙する。言葉が広まると、多くの人がその言葉通りの、自分の新しい感情に「出会う」。ワイドショーや週刊誌などでわずかに残る「熱愛」「破局」などの表現は、他ではほとんど見かけない。今、リアルには誰も「熱愛」はしていない。
 恋愛は、人を支配したり、束縛したり、所有したりしようとする。しかし現代的には、他者を束縛し支配するような人間関係は、よしとはされない。人は自立して、自由に生きていてこそである。「自己責任」は「自由」と一体化している。「わたしはあなたのもの」「あのこをモノにしたい」「どこまでもついていく」「だまってついてこい」などという言説は、非人間的で、無責任で、不道徳極まりないのだ。一昔前の「恋を語る言葉」の多くが、今では倫理的にも、通用しない。
 では、あたらしい「恋を語る言葉」は存在するだろうか。」

「恋は、してもしなくてもいい。もし社会全体があたりまえにそう考え始めたら、「恋をしない自分は、人としておかしいのだろうか?」という問いは、なくなるのだろうか。「人間社会から恋が消えてなくなることは決してない」と考える人もいる。ただ、私はその点について、懐疑的である。」

「誰かを好きになる気持ちは、自分だけのものだ。でも、その「自分」は、様々な社会的事象の織物としてできている。恋する気持ちもまた、その世の中に存在する言葉で語られる。私たちは言葉をゼロから自分で創り出すことはできない。既にあることば、見たことのあることば、それを使って自分の思いを紡ぐ。感情は学び取られる。言葉が生まれれば感情が生まれ、言葉が消えれば感情も消える。
 恋の感情を語る言葉は今、日本の世の中では、そんなに豊富ではない。現代の日本の社会は「愛」「恋」に、少なくとも今は、ことばのうえで、背を向けているのではないか。そして、語られない感情は、いつか、肉体を失った魂のように、空に消えてゆくのではないか。」

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